袴姿の男たちがダッシュする!伊那の祭り<やきもち踊り>
念願の祭りを見に行って来ました!
この祭りとの出会いは、「こんにちは伊那谷」のYoutubeチャンネルにアップされていたこの動画。
絶対に観に行きたい!と思い、即スケジュールに入れて開催日が発表されるのを待ち続けておりました。
事前調査によると、やきもち踊り自体は11時半頃から行われるとのこと。
その前に神事などもあるようなので、10時前の到着を目指します。
以下、当日の様子をレポートいたします!
祭り関係者は「きたっせ」という地域のコミュニティセンターに集まっているそうで、10時に「きたっせ」を出発し神社まで行列があるとのこと。
おおよその準備が終わると、拝殿にて神事が始まります。
この日は10時45分頃からでした。
神事が終わると、集合写真タイム。
みなさんなかなか揃わず、撮影係のおじさまが「大人は言うこと聞かねえなぁ…」とぼやきながらも、ほのぼのとした時間が流れます…
撮影の後はセットを組み替え、いよいよ本編が始まります。
やきもち踊りが行われる白山社八幡社合殿の例大祭には4つの行事があり、大注連縄作りから始まります。
祭りの7日前までに、豊作を願い地元の稲藁で太さ15センチ・長さ12メートルの注連縄を作り、祭り前日に御神木のケヤキにお祀りします。
次に当屋祭。当屋(とうや)とは、祭りの当番役のこと。
当屋祭は、やきもち踊りで使用する道具を清める祭りで、7日前に行われます。
▼2023年は4月9日に行われました
やきもち踊りの当日に「当屋の引き継ぎ式」が行われ、昨年の旧当屋から今年の当屋に「当屋箱」が引き渡される。
「当屋箱」には江戸時代からの記録が納められているそうです。
「当屋の引き継ぎ式」では、最初に全員で「四海波(しかいなみ)」という謡がうたわれ、その間に当屋箱の受け渡しが行われる。
当屋箱を受け取った当屋は、本殿に当屋箱を納めに行く。
本殿から御幣を持って戻ってきた当屋が祓いを行う。
最後に旧当屋から当屋へ、提灯の引き渡しが行われ、引き継ぎ式は終了。
そしていよいよ酒盛りが始まります…!
やきもち踊りの歴史は古く、はっきりした記録が残っているのは江戸時代の中頃、天明2年(1782年)だが、実際には700年ほど前の鎌倉時代の末から続いているのではないかと言い伝えられている。
やきもち踊りという名前の由来は、確かな記録は残っていないが、歌詞の一番に「焼餅がはらんで」の文句があるからという説と、踊りの最後に逃げ遅れると厄を背負う「厄持ち」になるからという説がある。
また、この踊りが山寺に伝わった由来としては、伊勢詣でに行った人たちが習ってきて毎年お宮の例祭で奉納するようになったものではないかと言われている。
踊りの歌詞は全部で9番まであり、「前踊り」で3番まで、「中踊り」で4番から6番、次に「千秋楽」という謡があり、最後の「後踊り」で7番から9番までが踊られる。
踊りの合間に宴を挟むため、宴→前踊り→宴→中踊り→千秋楽→宴→後踊りと進み、9番の踊りが終わると皆が先を争って鳥居の外に逃げ出す。
逃げ遅れた人は厄病にかかると言い伝えられているが、祭りの後の直会で厄を落とせるとの説も。
中踊り〜千秋楽の様子。外野から「元気がないぞ!」「もっと足を上げろ!」などの掛け声がかかります。
後踊り〜疾走の様子。鳥居の外をめがけて一目散に逃げます。
酒盛りと激しい踊りの後でわりとハードですが、みなさん楽しそう。
終了は13時頃でした。
当日現地で見聞きしたことと写真と動画でレポートしましたが、ネット上で読める記事では伊那谷観光局の記事が詳しいです。
踊りの由来はなんとなくイメージできるとして、最後に逃げ出すというのはどんな理由があったのか…?気になります。
実際に現地で見て「奇祭」のようなイメージとは違って、地域行事として人々に大切にされ楽しまれているお祭りなんだなぁと感じました。
伊那の美しい自然と、気持ちの良い春の気候、他所から来た旅行者にも親切に声をかけてくれる地元の人々。とても楽しいお祭りでした。
雨予報だったので直前まで行こうかどうか悩んでいたのですが、本当に行ってよかった。
電車で飯田線に揺られて行くのも乙なものです。
今回の旅では、伊那以外にも辰野〜元善光寺〜飯田とあちこちウロウロしたので、その様子もまとめたいなと思っております!
おわり
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