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劣等感のどろどろに足を取られないようにね


小さい頃から負けず嫌いだった。

自分が負けた、と思い知らされるととてつもなく悔しい気持ちが湧き上がり、なにクソ〜〜〜〜、私が、この私が一番になるんだからぁぁあああと、めちゃくちゃに努力をした。

部活では、誰よりも早く朝練に行って、誰よりも遅くまで残って素振りをした。受験では、誰よりも長い勉強時間をこなして、誰もから憧れられる学歴を手にしたかった。

何よりも自分に負けるのが一番しんどく、辛かった。早起きしたかったのに寝坊した朝は歯を食いしばって悔し涙を流したし、思うように動かせないラケットと見当違いな方向に飛んでいくボールにイライラした。しんどい気持ちから逃れるために、自分を律して追い込んだ。

大学生になる頃、負けず嫌いをやめようと思ったことがある。負けず嫌いゆえに結果を残せてきた場面もあったけれど、なんだか疲れてしまったのだ。そろそろ、ゆるりと自分のペースで人生をやってもいいんじゃないかなって、思ったのだ。


その頃からだろうか、他者と比較した時に湧き上がる気持ちが、なにクソ〜〜という健やかなものではなくなり、どろどろした劣等感に変わってしまったのは。

今の私は、他者と自分を比べては、落ち込んだり、安心したり、優越感に浸ったりする。そしてその感情は、とても不健全で、遠ざけるべきものに感じる。

「あの人は仕事ができていいな。私はあれもこれもあの人より劣っている、今まで何をやってきたんだろう。」

「あの人は人気者でいいな。でも私だって、場所によっては人気者な一面もあるから大丈夫。」

「あの人はたくさんいいねがもらえていていいな。でも私の方がいい言葉を綴っているじゃあないか。」



私は劣っている、私は優れている、そう考えることはこの現代社会において合理的な意味を成すのだろうか。私のありたい姿に当てはまっているだろうか。

否、ダサい。なんか、自分に顔向けできない。頑張ってた自分に、今は頑張れない言い訳を探して気を紛らわして生きてるよだなんて、今は頑張らずに自分より下のものを馬鹿にしながら生きてるよだなんて、知られたくない。

でも、嫌だ嫌だと思いながらも、やめる方法が見つからなくて、このどろどろに足をすくわれたり、目の前を塞がれたりしながら、おなじみの感情として離れられない距離感で付き合ってきた。


やあやあ、そんな悩みに明け暮れている自分よ、こう考えるようにしたら良いんじゃなかろうかというアイディアを3つ。

まず、人間誰しも、一つの面からではその人の幾分も解り得ないのだということ。何かしらの数値で序列がついたとしても、それ以外の側面を人はたくさん持ち合わせている。

一面だけで人を判断してしまうのは愚かであり、何の意味も持たない行為だ。そもそも人を評価する行為自体、あまり綺麗なものではない。評価するのではなく、本質を知ろうとしたい。

自分にも同じことが言える。私には数多の欠点があるけれど、他の面から見れば良いところだってたくさんあるわけで。ひとつの指標だけでなにかを定義しようとすることは乱暴で、本質的ではない行為だ。

そして、もし何かしらの指標で優劣が存在しているように見えたとしても、それは優劣ではなく、手前にいるか奥にいるか、みたいな深さとして捉える方が良い。

ああ、自分は劣っている、残念だ、と一通り卑屈をやったあとは、私はただあの人よりも手前にいるだけで、これから歩んでいく中で奥の方へ近づくことだってできるし、あの人とは他の道で奥行きを深めることだってできる、と解釈すれば良い。

ああ、あの人は私より若いのにとっても素晴らしい人間だ、私は残念だ、と二通り目の卑屈をやったあとは、年齢と奥行きは必ずしも一致しない、あの人はあの人の得意なところで深めてきた、私もあの人は持たない奥行きを持っている、と解釈すれば良い。

最後に、自分の目的を忘れないでいたい。私が何のために働いて、何のために人とつながり、何のために言葉を書いているのか。おそらくそのどれも、人の上に立ちたいからでも、人からの評価を得たいからでもないはずだ。


優越感や承認といった目先のにんじんに捉われず、己の目指す姿や本質的なところを見つめていられるような、余白ある大人でありたい。

まあでも、色んなどろどろの混ざり合いが人間ってもんだから、そこが醍醐味みたいなところもあるから、あんまり気負わずにやんなよ、自分。





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