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さよなら平成

生き直そう、と思うまではこどもの誕生日を祝うくらいで、それ以外の記念日や年中行事などは3年間ほどはすべてスルーしてたの。
絵も全然描けなかったし描きたくなかった。
サッカーもしばらくは見に行かなかったわ。
でもね、たまたま平成24年の全社は東京が会場だったのよ。
いろんなチームの関係者が一堂に会して、応援仲間とも会えて、選手は大変だろうけど毎日サッカーが観れる、サッカー的にはある意味あり得ない大会が全社なの。
1回戦、兵庫のチームの試合を観に多摩会場まで行ってみたら勝っちゃって、すっかりサッカー熱を取り戻しちゃった。
3位決定戦の最終日まで残ってくれて、地決出場権も獲得してくれて嬉しかったわ。
その年は震災復興支援事業で訪れてから応援するようになった福島ユナイテッドも最終日まで残ってね、もうリーグ優勝決めてたんだけどその後の地決でJFL昇格を決めたわね。
この大会で応援団の皆さんともすっかり顔見知りになったんだけど、なんとその翌年のJFL開幕前は業務提携することになった湘南ベルマーレとの関係もあってチームが平塚でキャンプをすることになり、以降5シーズン、開幕前キャンプで平塚に滞在してくれたわ。
もうね、九州や沖縄にでも住んでいなければキャンプを見に行くなんて無理だと思っていたから、大喜びで毎年練習見学に行ったわ。
楽しかったなあ、また来てくれないかしら。

平成26年にはJ3ができて、福島は発足当時の「オリジナル11」となったわ。
J2を目指してたのにJ3ができちゃって、最初は複雑な気分でね。
まだ人生を楽しむ気分になれてない中、自分自身も「地域の女」の自覚があったから声出し応援は遠慮してたんだけど、気持ちが吹っ切れるとまた爆心地で叫びたい気持ちが沸き上がってきたの。
だから(J3はおれたちのリーグ。誰に文句をつけられても、このリーグを作り上げるのはおれたちだ!)という気概で応援席に立つことにしたわ。
この年の年末は初めて「Jリーグアウォード」を横浜アリーナに見に行ったの!
(自分が応援しているチームがJリーグに、応援してきた選手がJリーガーになったんだなあ)って感慨深かった。

平成27年J3二シーズン目は広島の義母の様子を見に行ったりしがてら、可能な限りアウェーも行きまくったわ。
今まで控えていたサポーター同士の交流会などにも参加して、美味しいものもいっぱい食べたの。
それまではやれる仕事はなんでもやって、バイトを掛け持ちしたりしてたんだけどね、少し体調を崩しちゃったりして、疲れてんのかなあって自覚はあったわ。
親の遺産を相続したおかげでこどもの大学進学費用にもめどが立ったので、本来の翻訳の仕事だけに絞ることにしたの。
そうなると時間は比較的自由になったので、末っ子の受験のサポートもできるし、13歳となった犬のお世話もできるし、入院していた義母のお見舞いにも行けるし、ということで慣れないバイトは辞めたわ。
父親の代わりはできなくても、自分が父親の分も頑張らなければ、と思い込んでいたから、少々気張りすぎて家庭のことをケアしてなかったのは確かだったのよね。
こどもが小さいころから年中行事は大切にしてきた方なんで、また季節ごとのごちそうを作ったり、正月やクリスマスをお祝いすることも復活したわ。

平成28年には娘が大学を卒業して就職し、末っ子が大学に進学したの。
このあたりから日本点字図書館の録音ボランティアも始めたわね。
絵もまた描くようになった。
この年と翌年は久しぶりに近所のレストランの壁面を借りて個展をやったりしたわ。
遠くから友人がわざわざ見に来てくれたり、久しぶりに再会した人もいて、ありがたかった。
そういえばこのころよね、アムロちゃんが引退表明して、平成も20年代以降はヒットチャートと言えばAKB関連かジャニーズ関連だったけど、この1年間は安室奈美恵さんが大人気だったわね。
あたしもスーパーモンキーズの頃から好きだったから辞めちゃうと聞いたときはびっくりしたけど、天皇陛下が譲位のお気持ちを表明されていらしたこともあって(ああ、平成が終わるんやなあ)となんとなく実感したものです。

平成30年は波乱の幕開けだったわ。
年末にこどもが具合悪くなって結局1か月ほど入院してタカユキの引退試合に行けなかったり( ノД`)シクシク…、大型家電が次々と故障したりして出費がハンパなかったり、犬が通りがかりのよその犬に噛まれて一段と老けちゃったり、あたし自身も十何年かぶりにぎっくり腰になって3日間寝たきりになっちゃって腰痛が治ったと思ったらめちゃくちゃ体が硬くなっちゃったり、本当に梅雨が明けるくらいまで悪いことが続いたわね。
このときに平成の憑き物が取れたのだと、思うことにしたけれど、とにかく大変だったわ。

平成31年は4月いっぱいで終わったんだけど、その年の11月に義父が亡くなったわ。
93歳の大往生だったの。
介護をしていた義妹(とはいえあたしより年上だけど)にしたら大変だったとは思うけど、最後まで自分の足で立ち、自分の口で食べ、お話もしっかりされていたと思う。
大正15年生まれだったから昭和と平成、そして令和と四つ元号をまたぐ人生だったわね。
55歳で亡くなってしまった息子に代わり、3人の孫が成人するのを見守ってから天国に行かれたのだと思うことにしています。

今年、末っ子が社会人となってあたしは亡くなった相方からの出された宿題をやり遂げ、子どもたちとの約束を果たしたわ。
相方が喜んでくれているのかわからないけど、とりあえず倒れもせず、死にもせず、こどもたちを置き去りにすることもなくここまで来た。
助けてくれた両親と義両親、励ましてくれた友人たち、そしてなによりも色々思うところもあったでしょうが文句も言わずに母と歩んでくれた3人のこどもたちと、いつも穏やかな澄んだ瞳であたしに寄り添ってくれた(でも全然なつかない( ;∀;)17歳になった老犬に感謝です。

サッカーについてはマガジン「ジョカトーレをめぐる冒険」に詳しいのでここではあまり詳しく述べなかった。
あたしにとって平成は結婚生活と子育ての初めと終わりが詰まった家族の時代であり、あたしが生きる喜びと絵を描く意味を見出したサッカーとの出会いと別れの時間でもあったわ。
あたしが地域リーグで出会い、彼が生業としてサッカーをプレーしている姿を15シーズンにわたってずっと描き続けてきたジョカトーレが平成最後のシーズンに引退し、令和のシーズンからは指導者として歩み始めた。
平成の前半は自分のこどもを産み育て、後半はひとりのサッカー選手をサポートし、みんな平成とともにあたしから巣立っていったんだな、って改めて思ってるの。


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