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「本当の好きにはもう出会えないだろうな。」って。

甘酸っぱい。初々しい。トキメキみたいな、甘い言葉が当てはまりそうな体験に対して。少々疎くなってきているのは、大人に近づいたからだろうか。

なんだか自分が冷めた奴の方にへと、少しずつ近づいてきてしまっているように思えてきている。しかし、自分が冷めたやつになろうとも、生きていくことに損失を感じているほどではない。ただ、以前まで自然と持ち合わせていた"気持ちの熱量"について、本当に思い出せなくなるようになってきていた。

人を好きになって、言葉にはできない喜びを感じられることは、確かに幸せだったけど。喜びだって、抱える分量が大きくなれば、沈んだときの落ち込みがエゲツなく感じることもある。そんなガタゴトと揺れるような、ジェットコースターみたいな感情から降りられたことで、気持ちの安定感が得られて、気楽にさえ感じられてはいるけど。ただ同時に、少々味気もなくなってしまっているのは確かなんだろう。

年齢は、どんどんアラサーに近づいてきて。波瀾万丈な人生を思い描くことによりも、ただ、平穏な家庭が築けることができれば。きっと、それはそれで幸せなんじゃないかとさえ思い始めている。100年時代なんて言われている世の中にいながら、まだ3割も生きてきてやしないのに。あと、どのくらい生きられるか知れない人生を、真面目に考え始めるには少々早いのではないかと感じるくらい、若さなんて一瞬で終えるのだろうと。

こうなると、だんだんSNSが酷なツールにも見えてきはじめる。20代前半で早くにも結婚して、自分が望み始めている願望を既に手に入れてしまっている、そんな素敵な家庭があることを知れてしまえるから。まるで自分の方が、まだまだ子供みたいにも思わされてしまう。

他人の幸せが悪いことではないと分かっているものの。やはり自分が、"そちら側"ではないことにヒシヒシと気がつかされては、多少の劣等感を感じてしまうモノで。ちょっとした、幸せマウントでも取られているような気持ちにもなっているけど。別に、本人達にはそうした意図はないのだろうから、それは自身の勝手な受け取り方で感じてしまっているだけでしかなく。そんな、どこにもやりようがない葛藤も芽生え始める。

こうした状態の自分に、落ち着いた、とでもいう表現は全く当てはまらない。人生の娯楽がただ減ってしまった、きっとそれだけのことなのだ。その理由に、人間の慣れが関わっているのだと思えている。

純粋っていうのは、どうなるか分からない未来に対してワクワクするような気持ちを感じられることのようだ。体験をしたことのない物事に対する未来への期待をしているとき、人は純粋にワクワクするのだと思う。そう考えれば、付き合えばどうなるか、その経過とパターンをある程度観察してしまった大人であれば、未来の予測適度にできてしまう。

そうなるとネタバレを知っているみたいに。分かってしまっているトキメキについては、刺激が薄れてしまうもののようで。

一度通った事のある過程を。もう一度、繰り返すことに幸せがないとは思わないが。初めて過ごした過程の時よりも、新鮮味が格段にして薄れていることには変わりがないのだろう。

真剣に向き合って心の底から好きだと思えたのは、いつの頃までだっただろうか。

なんとなく、過去を振り返る。

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