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幼少期にクッキリと感じていた事。

幼い頃、時折自分が空白だったことに気付くような、そんな気持ちが込み上がってきていたのを覚えている。ソレについて正確に例えるのなら、なんだか全てのことについて、虚しくも感じてしまう気持ちのようなモノだった。そうした対処のしきれない気持ちに溢れかえると、今度は自分という単なる生命自体が、どうにも情けなく、ショウモナイ生き物なだけのように思えてきてはしかたがなかった。

しかし、それが大人になるにつれて、幼い頃ほどには感じられず、鈍化してきたかのように思えてきている。

幼い頃の私は窮屈でもない土地に住んでいて。その土地について不満はなかったけど、満足感もそれほどになくて、一定水準には保たれていたような町でありながら。それだからか、それでもと言うべきか、なんとも虚しさを感じてしまう自分の在り方なんてのは、不思議なもののようだ。これは一種のワガママのように見える。

しかし、外野を見渡せば幸せそうな人たちはいて、こんな土地に住んでいても不満気もなく幸せそうに過ごしていて。ただ、まぁ、当事者になってみなければ、そうした自分とは違う別の生き物達の本音の部分は分かりようがないし、側から見れば私自身も幸せそうな生き物として見られていたかもしれないが。

それにしても。こんなにも自分が無くなりそうだと感じてた空虚さが、なぜか自分のことでありながらも、自身の存在すらも否定をしてしまう自身の気持ちの在り方としてあって。この正体が一体何なのかとか、気持ちの切り替えの仕方とか、当時の自分は、この感情の状態を表せる言葉を的確に知らず、何が何だか分からなかったから。余計に単純な解釈として避けようのなかった"嫌な気分だ"として捉えては、日々をやり過ごすくらいしかなかった。

この嫌な気分というモノのは、もしかすれば、生活にただ幸せと思えることが足りていなかっただけかもしれないし。自分が思い描く理想的な現実と、当時にいた自分の直面している現実とのギャップの嫌悪感からくる、差異を感じた感覚のようなものだったかもしれないし。

ただ、それを抽象的な言葉にまとめるとすると、単純に言えばモドカシさのような形として、物足りなさなだけだったと言い表せそうなほどで。それが大人になるにつれて、昔ほど強くも感じられなくなってきていたのは確かだった。

今は気にもしなくなったので、気は楽になれているものだが、環境がそれほど極端に変わったように思わない。感じれなくなった、その原因について考えると「どうせそのような感情なんて抱えたところで、一生無くならないから、平凡に生きられるように慣れてしまい、忘れてしまおう。」という安全地帯へ、嫌な感情のノイズは無視するように避けるべく。無意識のうちに"解決しない問題は放棄する"というタスクに投げ入れてただけなよう思えた。解決なんて、こんな自分程度が、まだ出来ているわけでもないと思う、と、言うよりも解決できるわけがないと思う。ただ、そうして今の自分はこの生き方に落とし所を見つけたようだが、なんだか、どこか人生について「そういうものだ。」と、理由を述べずに解決した気になって済ませている風にも感じている。

大人になるにつれて、こんなにも人生のコマを時間に沿って進めていくだけ。最後には希望さえも刈り取られ、なくなってしまいそうな人生であることに変わりは無さそうであると思えるし。深くまで考えたところで、終止符のある未来には変化が起せるわけではないと心の底から理解して。だからこそ折り合いをつけて、納得するかようにしてしまったようだし。目の前の生活の、解決できる必要な要素に慌ただしく対処して生きているだけ。解決しない心底からの空虚さは感じなくするようにするため、身の回りの忙しさでギチギチに、他の気持ちの入る隙間を無くして誤魔化してきたような、自身の心理を平穏なモノとするため、守るために忘れるようにしてきただけよう。

生きていくうちに「愛されたら何かしら変わるのだろうか。」「お金さえあれば、何かしら変わるのだろうか。」「友人でも増やせれば何かしら変わるのだろうか。」これらを欲しがってしまえていた原点が、こんな空虚さを埋めるために必要だったのかもしれない。今までそうして無駄に空いた気持ちに、代用として補うかのように。現実に手に入りそうな、そんな幸せの刺激にでも思える外的要因を増やしたりして、自分の幸福感を足すように、ただ埋まらない気持ちを補えるよう、詰めれるだけ、詰めこんできたはずだが。別に、そうしても常に満たされる程の、埋まった感じになることもなく。

気持ちの奥側では今までに詰めてきた古くなった思い出達が、次から次に来る新しい刺激によって、圧縮され押しつぶされて原型なんて留めず、台無しになっていくだけのような、そんな気がしてならなくなっている。

「いつかは終わるんだよ」普段は考えないが、ふとした時に思う。昔はそのフレーズについて、深い意味さえ色濃く感じられていただろうが、いつのまにか、それについても、何も深くは感じられなくなってきているように思えていた。「暗い話題だな」と、多少笑えてしまえるくらいの余裕すら出来てしまっている。

そうした余裕が出来ている自分について俯瞰してみれば。なんだか、このままだと終わる為の準備を着々と進めているかのようであって。今後にどんな人生を歩んでいたところで、今見ている景色、今聴いている音、今味わっているもの。そうした体現を沢山集めてから、この身と共にドブにでも捨ててしまえるような感覚になり。

しかし、なんとなく思ったが。そうやって、この身と一緒にドブにでも捨てられた体現でもなければ。最後の瞬間にまで思えることは「虚しさ」程度になってしまい、恐怖以外のなにものにでもなくなってしまうんだろうかということで。

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