見出し画像

他人の気持ちに盲目になることなんて当たり前だろう?

「あの人が考えることは分からない。」それを不満のように言ってしまうが、あの人の気持ちさえ分かってしまえたらこのような不満も漏らさなくなるのだろうか?

分からない事に対して人は、悩むようになるのだろうけど。でも、そもそも、よく考えれば他人の気持ちなんて"分からない"ことがデフォルトであって、当たり前なのだ。でも、なぜあの人の考えることが特別分からないと思うのか。それまでも他の人の気持ちが完全に分かっていた訳ではないだろう、あの人の考えていることだけが分からない訳ではないのだろうと思う。

人は判断できないモノに苦労をしてしまいがちだ。分からないものは判断が出来ないからこそ、それに対する評価ができない。有るとか無いとか、それらが判断できない状況下で分からないでいると、相手に対する正しい対処法すら出てこない。何をするべきか、分からないから不満にでもなる。

じゃあ例えば他人の額に、今の気持ちが表示されていれば物凄く分かりやすいし。「今は不機嫌です。」と、そう額にでも表示でもしてくれされていたら、必ず自分はその場面で敢えて声をかけようとは思わない。

でも現実問題、人の感情なんてモノは人の目には映らないし。それでもバーコードを読み取るかのように、相手の表情や言葉や仕草で、他人の感情を自分の尺度で測っては解釈しようとはする。結局のところ、冷静なってみたら。それって全部自己解釈でしかないのだろう。そうなると、この世の中は「なんとなく」で共有して回っている風に見せられているとも捉えられる。

外野から他人の会話を見ている時「本当に相手がそうして欲しかったと望んでいたと思うか?」そう、他人に疑問を抱いてしまう時がある。けど、意外と自分がその立場になってみた時に、他人の感情を正確に分析して判断ができないとなることだって当然にあって。

自己解釈なんて万能ではないのだろうし、自己解釈は自分の出した答えとして、他の本質的な部分を盲目にさせてしまっている事も発生させる。

そうした経験を踏まえて。やっぱり他人の感情なんて何一つ分かる時なんて来ないのだろうと思えた。いつもあの人の顔に表示されているのは、正しい感情ではなく、単純にその人の表情が現れているだけで。きっと一番分かっているのは本人だけで。他人が出した自分に対する感情こズレに、不信感でも湧いてきてケンカになることさえある。

これをもう少し具体例で表現するなら。可哀想な人が目の前にいたとして。自分は他人に可哀想だと思って解釈していたりすることが正しいと思うけど。けれど、そもそも可哀想に見える本人にしてみれば、きっと自分のことを可哀想な人間だなんて感情は抱いてはないのだ。人間、自分自身に可哀想だという感情を抱くのではなく、惨めさだったり、怒りだったり、悔しさ的な気持ちであって。きっと、それは目の前で起きた事象に対しての感想だ。

自分と他人では見ている視点がそもそも異なっている。そうして他人と自分とでは少し違った気持ちのズレが発生している。

正しくあろうとしても、そもそも見えてもないものを正しく扱えないのは当然で。きっと分かっているようで完全には分かってはない。

それでも不完全だと理解して、正しく相手を理解しようとしていたくなるのは優しさだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?