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私、「食べる」の好きだった

ここ最近、以前にも増して、自分自身の「食べたら太る」恐怖にまともに向き合えないまま、心も体もどんどん疲弊していく日々を過ごす中で、ひとつ面白いところにたどり着きました。


相変わらず体は「何か物足りない」サインを出しているにも関わらず、それを無視して寝床に着き、夜中にふと変な寒気と胃の具合悪さ(空腹)で目が覚め「このままじゃもう何にも食べれない、生きてけないじゃんあたし」と唐突に思った、先日とある日の翌朝。


「そもそも私、『食べたら、太る』って思ってたわ」ってとこに気付いたんです。(というか、今まで散々言ってきた言葉なのに、妙にその瞬間そこだけ浮いて聞こえました)

「食べたら、太る」…


「いやいやそれ私、なんか当たり前のこと言ってない?」って。

食べたら太るって……何も、今にも私にもはじまったことじゃない、人類に共通して言えることだよね?


そもそも、「太る」ってなに?っていったら、「醜く」なることで。


は?なんでこれ以上、敢えて醜くなんなきゃいけないの?
てか、なんで私の方からこれ以上嫌われにいかなきゃなんないの?!


ってかあたし、(人に)嫌われてんじゃん…?!
(忘れてました)


もうこれ以上、ほんっと醜くなりたくないし、誰にも嫌われたくないんですけど―


……とひとしきり色々やった後で、そもそも私は自分が誰よりも醜い存在だってことも、人から嫌われてることも全く認めてなかったし、それ以前に「自分は食べても太らない」という、盛大な勘違いをしていたことに今更気付きました。

「食べたいのに、(太りたくないから)食べれない」のが苦しいばかりに、そんな自分を「どうにか」したくて、「私は自分の何を認めてないからこんなに苦しいんだ」と外側に答えを見つけるのに躍起になればなるほど、今の自分にとって必要のないダイエットや専門家の情報に惑わされては、「こんなに食べてない(はず)のに、なんで痩せないの」という悪循環に陥り、どんどん自分の本心から離れて、事をややこしくしていたと思います。

そして結局のところ、「食べたいものが食べれない」から、心も体もずっと満たされなくて、実は万年自分が飢えて来たこと。

またそのせいで、「食べたくない『もの』を食べたり」、「食べたくない『のに』食べる」から、「太る」(余計なものが溜まる、自分の幸せに不要なものが蓄積される)という概念が存在するのではないかということ。(それを間違った思考に結び付けるのは私達)


そもそも、常に満たされてないから、何かの拍子に食べ「すぎる」わけで、自分が本当に食べたいものを「しっかり」食べてたら、その人が最もその人らしく魅力的な体の状態で自然といられるのではないか―


そうやって、「自分が、本当に食べたいものを食べてないのが原因だ」と気付いた頃には正直、自分が「今よりもっと痩せたい」訳では無いということ。

そして本当は、スリムだけどどこか「触れてくれるな」的なトゲトゲしさ満載で、隙あらば自分や他人の粗には鋭い眼差しを向ける割にその奥は常に虚ろで、まるで見えない壁で塗り固められたようなそんな冷たい印象よりも、柔らかくフニっとしていて、どこか拍子抜けするようにあっけらかんとしながらも、来る人全てを包み込んでくれるような優しい印象に、どこか羨ましさを抱いている私がいました。



「チョコやクッキーが好きな私」ではなく、それはそれとして事実ながらも、私が「本当に好き」と認めるべき先には、「食べる」がありました。


なんて事の無い大分地味な内容ですが、それでも「私、食べるの、好きなんだ」は今の私にとって、衝撃だったんです。

「食べたら、太る」と、私が最も嫌なシチュエーションを連想させる言葉で自分を欺き、そうやって長年ずっと本心を否定し続けては、本当の幸せから自分を遠ざけて来たのは私でした。


そして今は、とにかく毎食毎分毎秒、自分の胃あたりの感覚に全力で集中しながら「食べたい」と「おなかいっぱい(もう十分)」の声を聞き分け、体重という数字は二の次に、いかに満ち足りた心地良さの中に自分を置いておけるかを模索中です。


不思議と今になって、「自分の感覚を信じてれば大丈夫」(不健康な体にはしない)という安心感を少しずつ思い出してもいます。



どれだけ自分を飢餓状態に追い込んで痛めつけても、誰も喜んでないことに気付きました。


そんな意味の無い「抵抗」は辞めて、もういい加減本当に、自分から「幸せ」掴みに行こうと思います。

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