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菅谷館 〜'鎌倉No.1の男前'がいた城〜 【続日本百名城めぐりの旅】 #1

こんにちは。「目が見えなくてもあちこたねえライフ」の角谷(すみや)です。
「あちこたねえ」とは新潟の方言で、「どうってことない」「大丈夫」という意味です。詳しくは、こちらの記事をご覧ください。

 
今日は、趣味の城めぐりのお話。
続日本百名城めぐりの旅の一環で、埼玉県の菅谷館を訪れました。 

□ 「武者の鑑」と呼ばれた男の本拠地

「どこそれ?聞いたことないお城だな」と思われた方、ブラウザを閉じずにちょっとお待ちください。
鎌倉時代の超絶ナイスガイがいたお城なんです。

2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』、ご覧になっていますか?
その十三人の1人、【畠山重忠】さんが拠点にしていたのが、ここ菅谷館なんです。
畠山重忠さんは、鎌倉幕府の有力御家人の1名で、知力・武芸の技量・勇気の三拍子を兼ね備え、当時の武士館からめちゃくちゃ人気がありました。
 
北条執権体制を固めようと頑張る北条義時によって謀反の汚名を着せられますが、
畠山重忠の無実は明らか。
最期の瞬間まで潔かった畠山重忠は、「坂東武者の鑑」と呼ばれ、700年にわたって敬愛を集めてきました。

□ 比企郡がいかに重要だったか

まずは恒例、お城が建つ地域の地理をざっくり見てみましょう。

埼玉県の西側にある比企地域。
西の秩父山地を枕に平野が広がり、荒川をはじめとした豊かな河川にも恵まれ、古くから栄えたところでした。
魅力ある土地は、取り合いになりがち。
争いが頻発するとともに、「比企城郭群」というお城の密集地帯が形作られてきました。

□ 時代とともに役割が変化

そんな比企地域のほぼ中心に位置する菅谷館は、勢力同士の争いの前線基地になることも多く、時代ごとに大切な役割を担ってきました。
 
平安時代〜鎌倉時代 : 畠山重忠さんのような、鎌倉武士の館として機能
南北朝〜室町時代 : 室町幕府から「関東をよろしく」と指示された、関東公方・足利さん一族の拠点として機能
戦国時代初期 公方を支える関東管領・上杉さんが、山内上杉と扇谷上杉に分かれてドンパチ。その最前線として機能
戦国時代中期〜後期 : 小田原の北条さんによる、関東統治の拠点として機能
 
古くから栄え、数々の歴史ドラマの舞台だったんですね。

□ 菅谷館の立地

槻川と都幾川の合流点、川と川に挟まれた台地上にあり、まさに、自然を利用した天然の要害です。
 
13万平方メートルと広大な敷地に、5つの廓が配置されています。
 
中世のお城でこれほど大きなお城は、あまり見ません。
それだけ兵馬を収容できるお城として、兵站基地の役割もになっていました。

□ 遺構を見よう

埼玉県立嵐山史跡の博物館の駐車場から、スタートです。
入るのは搦手門で、城の中が見えにくくなっています。

□ 三の廓

堀が深い! これを超えるのは、さぞ大変だったでしょう。
外堀が巡っており、特に手が加えられていない、天然の谷になっています。
頭がいいですね。


□ 二の廓

続いて、二の廓へ。

立派な堀で区画されており、土類が築かれています。
ここは水堀だったと考えられており、水をどこからどう引っ張ってくるかなど、築城プランを考えた人の慧眼に感服です。

畠山重忠さんの像もあります。
会いたかった!

ここからだと、廓に取り憑く敵が丸見えですね。

□ 本廓

いよいよ、お城の中心である本廓へ。
本廓に登るには絶壁を登らねばなりません。
ゼーゼー言いながら登ると、かなり広いですね。

ここまで攻めてくるのも大変ですし、他どいついたとしても、最後の力を振り絞って戦わないと、崖の底へ叩き落とされてしまいます。


□ 続日本百名城スタンプ

一通り見学を終えて、続日本百名城スタンプを押しました。
埼玉県立史跡の博物館にあり、綺麗な状態で保管されていました。

□ まとめ

堀のめぐらせ方、壁の作り方、廓の配置・・
全てが全て、戦いのために合理的に作られた、
まさに、戦うための城!でした。
 
関東のお城は、姫路城のような派手な天守閣を持つことは少ないです。
そんな地味な城が多いものの、1つ1つにドラマがあり、知れば知るほど探索が楽しくなります。
 
訪問日 : 2022年某日

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