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絶望のあとに続いていく生活こそ、美しい。

入院している友人が、骨髄移植が必要と告げられたらしかった。
その一言で、いろいろな治療法を検討した結果、そのどれもが彼女には適合しなかったということが理解できてしまった。

骨髄移植をしたあとの5年生存率は47.6%だ。
そもそもドナーが見つかる確率も半分以下。

なんてことだろう。そんなことがあっていいわけがない。
けれど、びっくりするほど、彼女のためにできることと言えば、何もないのだった。神社でお祈りするくらい。

私はこのGWに、骨髄バンクへドナー登録をする覚悟を決めていた。
「カモンカモン」という映画を観ながら、何も生み出さないこの悲しみをどうにか消化するために自分ができることを考えていた。
席を立つ頃には心が決まっていた。

骨髄バンクでドナーとなるために障害になるのは、私の場合、両親の同意だ。
実際に骨髄の提供をするには、家族の同意が必須となる。

骨髄移植を必要とする人は、自力で血液を作る機能をゼロにした状態で、移植手術を受ける。

その準備段階は、身体の状態、副作用、免疫がゼロになった状態でかなり厳しいものになる。

そんな状態で、万が一、家族の強い反対でドナーからの提供ができなくなった場合、患者さんは命の危機にさらされる。
それを避けるために、提供意志の最終確認の際には家族の同意が必要なのだ。

大学生のとき、一度母にドナー登録を相談したことがあった。
「リスクをとってほしくない」と、反対された。

母親の気持ちもまあわからんでもなかったし、
考えるきっかけとなった友達の病気は、幸い飲み薬で寛解が叶っていた。

その薬は1錠4000円だった。
毎日服薬しなければならないことに、
友達は「俺、死んだ方がいいのかな?って思った」とこぼした。

実際には、薬を何カ月分かまとめて処方してもらうことで、高額療養費制度を利用して月8万円ほどに抑えられる。
それでも、私の当時の家賃の2倍より多かった。

打ち明けてもらったとき、友人の生き方や、他人との接し方、全てに納得がいった。文字通り、命を輝かせていたように思う。

綺麗な物語では終わらない、
絶望のあとに続いていく生活にこそ意味があり、美しいということを、知った。

白血病という病気について、そのときに詳しく調べていた。
今では他の病気と同じく、白血病もいろいろな治療法が確立していること。
そのため、ハイリスクな骨髄移植は最終手段としてしか選ばれない治療法になってきているということ。

もし、自分の子どもが白血病になったらどうだろう。兄弟姉妹間では、4分の1の確率で適合する。両親や親戚の中で適合する確率はかなり低くなる。
けれど、私は真っ先に型を調べてもらうと思うし、私の母もそうだろう。
親心というのは、そういうものなのだろうか。

スヌーピーのシリーズで、「チャーリー・ブラウン なぜなんだい?」という絵本がある。


白血病になってしまったお友達を題材にしていて、入院中の治療のこと、悪気なく「死んでしまうの?」と聞いてしまうクラスメイト、親の関心を得られずに寂しくなってしまうお姉ちゃん、髪がないことをからかってしまう友達、病気がうつると言ってしまう子、
小児がんの子どもが突き当たるであろう問題が丁寧に描かれている。

「なぜだい、チャーリーブラウン。なぜなんだい?」
ライナスが、お見舞いに行った帰り道、一緒にいたチャーリーブラウンに投げかけた言葉だ。
観るたびに、その言葉でしか表現できない感情が、あふれる。

私の中に生まれた、何も生み出すことのない悲しみを、どうにかしてあげたかった。

ドナー登録自体は2mL血液を採っていくつか質問に答えるだけで、すぐにできた。

「適合することは何百万分の一の確率で、かなり稀です」お医者さんに言われた。

ドナーの候補者になっても、そのときの健康状態、仕事を休んで3泊4日の入院ができるかどうかの状況を含めてあくまで自由意志、強制されることはなにもない。

私が来年も元気でいられる保証など、どこにもない。
だから今、登録したかった。

10年越しに叶えたドナー登録は、あっけないほど簡単だった。

両親に話すために、週末トリップを計画中。

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