見出し画像

【即興長編小説】 この物件はコンビニまて遠い 第四稿 余裕ある方むけ(大人向け)

(現状は一次情報を確認してください)

「この物件はコンビニまで遠い」

〜プラネタリウムに星がない2〜

プロローグ

彼の左手の指は生まれつき4本しかなかった。

その彼の左手が私はとても好きだった。

私がその彼に恋人ができたと知った時、とても微笑ましかった。

彼の恋人がその指のことをどう受け入れていたのかわからない。

とても仲の良いカップルだった。

でもある夏の日、突然ふたりはダメになったらしい。私は今でも彼の4本の指が好きだ。

高校の同窓会があり、その二次会の席でふたりが別れた理由をそっとクラスメイトが教えてくれた。

「結局、体だけが目的だったみたい。あの子泣いてたよ」

「え? とてもじゃないけどそんな風には見えなかったよ。少なくとも高校生の時は」

「さあて」

今でも時々、私はその左手に四本しか指のない彼がバイトする中華料理店に行く。

彼はいつも右手を使って料理を差し出す。

第一部 クッション

1

2020年5月。

鳥がいるのかと思った。

私は自転車のブレーキをかけて、川にいるその鳥をよく見ると、なんでもないペットボトルだった。

キラキラと太陽の光が、川面を走りそれが飛び立つ鳥に見えただけだった。

なんでもないペットボトルが、川面に引っかかっているだけだった。

でも美しかった。

その一瞬というのはすぐに過ぎ去って、もしかして美とはそういうものかもしれないと思うのだった。

私はまた自転車を漕ぎ出すと、電線が風に揺れ、そこに反射した太陽光線が走って追いかけてきた。

そして、今ならいいか、と口元のマスクを外して深呼吸をした。

もちろん制服は着ていない。私は長く真っ直ぐな髪をポニーテールにしていた。

なにもプリントのないGUの白いシャツを二枚着て、下着は透けないようにして、カーキ色のキュロット姿だった。

靴は最近のお気に入りのコンバース、キャンパスオールスターを履いていた。愛すべき古いシリーズのコンバースキャンパスオールスター。

ただ深呼吸したくて外に出ただけだった。

藤沢駅に着くといつもの癖で駐輪場に自転車を置き、駅には向かわず、人気の少ない朝の商店街を歩いた。

やはり閉店の店が多い。(人の流れだけでも見ると安心するのに)でもカラスはいて、真ん中で野菜の切れ端を突ついていた。

私の名前はヒガシカワミズホと言う。(あの頃、私は17歳だった)

17歳のただのどこにでもいるちっぽけな女子高校生だ。

私は歩きながらiPhone7を取り出した。

私はiPhone7が好きだ。iPhone11も出ていたけど、なぜかiPhone7を愛していた。理由なんて、ポケットに入る小ささとか、いろいろあるが、やはり私らしさ、しかなかった。

ネットニュースでは芸能人がSNSの誹謗中傷が原因で自殺していた。また誹謗中傷でパニック症候群になる例も多かった。

(どうしてSNSで人が死ぬのか、パニック症候群などになるのか、それも芸能人や女性が多い)しかしすべての実像って見えない。

でも高校生の私が知りたいのはあのアカウントだ。

今日は何をツイートしているのだろう? あまり更新しない人だけど。

年齢はわからない。天気のことばかりツイートしている人だった。

アイコンは芸能人だ。どこかのアイドル? どこかのページで拾ったものか、もしかして本人? でも本人の顔をアイコンに使う人なんてほとんどいないから、拾いものだろうと決めつける。

このアカウント名は(空)となっていた。

だから私は、空さんと心の中で呼んでいた。私は毎日確認していくなかで、まあどっちでもいいの、とツイートの言葉の美しさだけに恋していた。

今日のツイートはない。私は小さなひとつの小さな雲を見上げた。

雲はそのひとつだけで、その周りには青空がどこまでも広がり、その途方もなさに微笑んだ。

商店街を途中で曲がるとマンションの影に隠れるように公園がある。

その公園はとても小さく、三角形の形をしていて、錆びたブランコと滑り台しかなかった。誰も人はいないのだった。

公園というのは実はある程度大きさの区域にひとつつくるという決まりが存在しているようで、時折、こんな小さな公園が誕生してしまうのだ。

ブランコにゆらゆらと揺られながら自分のTwitterアカウントに「ひま」と打ち込んだら、すぐにDMが一件入った。

アカウント名は(空)。DMを開く、と、そこには不思議な問いかけの言葉があった。

【何かへんなツイートしました?】

何だろうか? しばらく迷ったけど結局DMを送り返すことにした。どうか、男の子であります様にとどこかで思って返事をした。でもまだわからない。

【いえ。普通だと思います】

【2日前のツイートです】

私は、空さんのアカウントの2日前のツイートを見た。そこには今まで気づかなかったけれど、ひとつの言葉があった。

(クッション)

クッション? くしゃみのことか、部屋のフカフカのクッションのことかわからない。特別に変なひとことではなかった。私は首を捻るのみである。

【別に普通です。なんのことですか?】

【いや、ただ無意識に、クッション、って打っただけです。そしたら人が死んだ】

【え? ‥‥どういうことですか?】

【わけがわからないんです。意味のない言葉なのに。でも芸能人が自殺してるのは知ってますか? ドラマによく出ていた若い女優さん】

【はい‥‥】

【その女優さんの遺書に、クッション、って書いてあった。そんな言葉で人は死ぬ?】

【え‥‥女優さんって空さんのフォロワーさんですか?】

【違います】

【じゃ何も罪の意識を持つことはないと思います】

【ならどうしてこんなことが起きたと思いますか?】

【ただの偶然だと思うの。だってもともと悪意なんてないんですよね?】

【何それ? 何言ってます? あるばすないです。そもそもあなたは誰? 女の子?】

【空さんこそ女性?】

【失礼かもだけどおいくつですか?】

え。性別がわからない。ああ、でもそこが核心ではないのだ。

【17歳です。空さんは?】

【謎。ありがとうございます。落ちます】

DMはそこで終わってしまった。

私はなぜだかあの本のことを思いだして首を振って、空を見上げた。そして自分の手を見つめて、何度も何度も首を振った。

もはや出会わなくても人は死んでいく? 

私は遮断された手と手のことを考えた。それは濃厚接触と呼ばれている。

手と手は繋がれるべきだ。どうしてそんな簡単なことができないのか。人々はどうして手と手を繋げないのか。

私は5月の風が吹くブランコに揺られながら、なぜか流れてくる涙が止まらなかった。なぜ自分がこんなに泣いてしまうのかわからなかった。

朝のまっさらな太陽光線が強くなり、それによりマンションの影が公園へと伸びていく。

私は空へと手を伸ばすのだった。

2

2021、7月。

妻であるココがこの家を出てからもうずいぶん経った。

私はいつもひとりで静かにジャズを聴き、いつものテーブルの前で壁時計を眺めいてた。

現在の時刻は8時半。朝の8時半ではないことをまだ少し残念に思う。

私は今は夜の8時半だということを言い聞かせなければならない。私の精神と持病は少しのダメージが残っている。

いわゆるPTSDというやつだ。

私は持病のため低血糖という状態がたまに起こる。低血糖状態というのは、時々ニュースで耳にするあれだ。車の運転中に低血糖が起こり、悲劇的な事故が起こる。

寝ている間に低血糖状態になり、救急車で運ばれるケースも多い。もちろんそれでたくさんの人が命を落とす。

つまりココと2人の子供達が家を出てから、私はふと一抹の不安が脳裏を過る。うまく血糖値をコントロールしなければ、と。

もう眠る時間だ。

私は現在、52歳を迎えて、精神力の衰えを感じる。

時が流れるにつれ、私は私が作家であるということも心のどこかでぼんやりとしか自覚しないようになった。

血糖値が不安定な状態で書くことが多いため、文章を書いても時折意味不明な、まとまりのない結果となる。

そんな時は安定した状態で書き直すわけだ。

もう車の運転も危ないと感じやめた。足も少し悪い。

基本的にはできる限りリアルの世界では陽気だ。しかし私の心というものはなんだか奥底でいつも空中分解してしまっているようだ。

夜の10時を回っている。もう睡眠導入剤も飲み、部屋には静かにジャズだけが流れ続けていた。

午前8時半。いつもその時間にLINEは入った。2017年のことだ。

あれから午前8時半になるとLINEをチェックしてしまう。彼女が去ったあとも午前8時半というのは特別な時間でふと壁時計も見つめてしまう。

確かに世界は新しいフェーズに突入していた。

3

それから私はずっと(空)というアイコンの更新を待つ日々が続いた。

でも何日持っても、朝も昼も夜もその日の天気のことを美しい言葉で綴るツイートは止まってしまった。

やはりある意味のショック状態なのか、根拠の存在しない罪悪感を大きくしてしまっているのか、単に忙しいだけのか、わからなかった。

二週間待った。

けれど更新もDMもなかった。私は何か元気を出してもらう方法はないか、と思い切ってDMを出したのだった。

【満月‥‥見る?】

深夜、私は自分の部屋で簡素なパイプベッドに横になり、仰向けでiPhone7を見つめていた。

ネットニュースではその自殺した女優さんの話題はあれだけ騒いだのに、もう既に小さくしか載ってはいなかった。

部屋には木製の大きな本棚が2つあり、そこにはいろんな種類の本が並んでいる。壁は白く、床はフローリング。ぬいぐるみが何匹かいる。

壁には何着かのワンピースやTシャツがハンガーに掛けて並んでいる。カーテンはショッキングピンクである。簡素かもしれない。

持ち運びできる小さな赤いレコードプレーヤーを持っているが、肝心のレコードは持ってない。

もちろん音楽はiPhoneで聴く。部屋にはWi-Fiがあるので、iPhoneをBluetoothで繋いでピンク色のBOSE のスピーカーで聴く。

そんな時、うとうととしていたら、iPhoneから通知音が鳴った。私は何気なく見たら(空)のアイコン。

【今日は雲が多くて月は見えないはずです】

【お久しぶりです。憶えてますか?】

【何か用ですか?】

【ただの生存確認です】

【生きてます】

繋がったことに嬉しくてしばらく次のひとことが出てこなかった。

【ただ‥‥】

【どうかしたの?】

【友達が心配してくれてます】

【ああ、そういう展開なんですね?】

【はい】

【親友なの?】

【でも最近会えないし、LINEで】

【そうですね。私もLINEばかりです。リア友とも会いたいよね?】

【はい】

【用件はそれだけですか?】

【はい】

【おやすみなさい。ありがとう】

【おやすみなさい】

私は安堵を感じ、またベッドに仰向けになった。もう歯を磨いて眠ろう。

まだ性別も、年齢もわからなかったけど、そこが核心ではない。デジタルソーシャルディスタンス。

【あ】

【え?】

【あなたのファーストキスは?】

【どしたんですか? 急に】

【いえ、また。ごめんなさい。落ちます】

ファーストキス? 

いきなりどういう質問なのか、意図がわからなかった。

恋でもしてるのか、それともOLさんで高校時代を懐かしんでいるのか、わからないけど、なんとなくOLさんなのだろう、と思った。

あの天気のツイートの文章の美しさは男性の感性じゃないと考えたのだった。

洗面所で歯を磨きながら、ファーストキスの思い出が蘇った。

中学時代、イジメの矛先が私に向けられ、強引に男子にキスされたこと。まるでレイプされたみたいな世界一最低なキスの存在。

私のなかでそのキスは書き換えされ、二番目の世界一美しいキス、が私のファーストキスと思っている。

消去されるべきことと、記憶すべきこと。悪いことといいことがあったら、いいことを憶えていけたらいい。

私はキッチンへのドアを開けて、そこでテレビを見ながら、ソファーで寛ぐ、母親に、寝るよ、と言って部屋に戻って眠った。

キッチンテーブルにはノートパソコンが置いてあった。

その日を境に、空さん、と私は気軽にDM交換をするようになった。

でも私がラフに話しかけても、丁寧語でいつも、空さんは会話した。

天気の話題か多かった。

晴れてますね、とか、スーパームーンですね、とか、雨の日はどうやって過ごすのか、とか。

【雨の日はコンビニで100本傘を買います】

【え? 100本? どしてですか?】

【それを駅のまわりのお店の傘立てに入れたり、老人ホームの傘立てに入れたり、図書館の傘立てに入れたり、とにかく傘立てが空っぽたったらそこに入れていくんです】

【どしてそんなことするの?】

【ひょっとして誰かが必要としているかもしれません】

【ウケます】

【でもかわりに自分の傘がなくなってしまうんです】

【そこは自分の傘だけは残しておかないと!】

【そうですね。おやすみなさい】

不思議な人だった。本当にそんなことする人っているのかな、と考えた。でも優しい人だ。

私は連日またツイートを楽しみにしていたけど、あの日以来、更新されないのだった。

また違う日のDM交換。

【雨に濡れない方法は、まず一滴の水滴が降ってきます。それを瞬間的に右へ避けます。右へ避けるとまたすぐに水滴が落ちてきます。するとそれを瞬間的に左へ避けます。一滴が落ちてきたら、それを瞬間的にかわし続けます。それを続けると雨には濡れません】

【ウケます】

ユーモアセンス。あまりにも変わっていて、でもその不思議さに私はどんどん惹かれていった。

性別というより、男の人でも女の人でも、どんな歳でも、職業でもよくなっていく。

SNSって凄いなあ、と思った。

でも本当は、空さん落ち込んでるんじゃないのかなあ、と思った。それを隠すようにわざと明るくDMを返してくれるのかもしれない。

また違う日のDM交換。

手について、私はDMした。最近は手と手を繋げない日々が続くから。

セックスさえできない。(若い人の性欲ってそんなに小さくはないだろうな、と予感がしていた)

私も普通にマスターベーションして、眠ることが多い。空さんの偶像でマスターベーションする日もある。

【人と人が手を繋げない世の中ですよね?】

【はい。手と手はいろんな繋ぎ方をするでしょう? 角度を変えたり、ぎゅっと握り合ったり、小指だけ繋いだり、冷たい手が気持ち良かったり、手と手だけの恋愛は存在します。手と手で恋愛する】

【はい。素敵な話です】

【でも忘れてはいけないのは指が4本しかない人もいますよ】

【え?】

【指が4本しかない人もいます】

【はい】

この近代社会が始まって以来、人類が初めて経験するコロナ禍。そこに存在する素敵な手と手のことを思った。それらが点在する夜空のようだった。

点在する星と星は繋がってはないけないれど、それはやがて線になり、新しい地図になればいい。

そう願っているただの女子高生だった。

ただ私は自分の歩幅を信じて生きているだけだ。自分の歩幅を信じているただの女子高生である。

高校生たちは密かにコロナ禍でも実際には会っていた。

不思議なのは、この時期、会いたい人と、今は会わなくてもいいか、という人はなんとなくわかることだった。

別に差別とかじゃなく、やはり必要な人はこの人とこの人、と浮かぶのだった。

親友の、そよりん、との再会はいつもの藤沢駅近くの小さな公園で、もう遅い夕暮れだった。

淡いオレンジに染まった三角形の公園のブランコと滑り台。

ブランコにいると、そよりんは猫みたいにじわじわ寄ってきて、わー、と言って、空間の開けたハグをして、空間の開けた握手をして、空間の開けたキスをした。

お互いマスクをして、並んでブランコに揺れながら話した。梅雨時だったけれど、うまくその日は晴れていて空気もくっきりしていた。

そよりん、は相変わらず明るく、恋愛マスターでとにかくいろんなテクニックを研究するスレンダーな女の子だった。

髪はショートでスカートがいつも短い。この日も白いのフレアミニと赤いアディダスのトレーナー。

彼女の話題はやはり恋バナ。この日は、いかに恋愛にロスタイムを生み出すか、と言った。

「ロスタイム?」

「テレビで見たのさ。気に入ってる年上男子がいるじゃん。みんなでいるとするでしょ? そしたら携帯をまずなくした、ってその男子に言うんだよ。でもそれはわざとなくすの。実はカバンにある。それを探している間に彼を独占できるんだ」

「なるほど。ロスタイム」

「で、携帯は無事見つかる。彼は近くにいるでしょ? で、接近が生まれる。そこで記念に一緒に2ショットチャンス!」

「ウケる」

するとそこに彼が突然現れた。私は、そうか、と、そよりんの意図を見抜いた。秘密の彼氏ってあの人か。

彼は学校のクラスメイトだった。とても静かで誰とも接点がないような男子だった。背は普通くらい。学校で秘密だったわけだ。

名前はタチバナハジメ。私は話したことはなかった。そよりんが立ち上がり、私に、歩こう、ミズホ、と言った。

ふたりは日が暮れかけた紫色に染まった商店街を歩き、私は言葉もなくその後ろを歩いた。

そよりんとハジメ君はもちろん手を繋ぎたいのだろうけど、繋げない様子で、その少しの隙間を見つめた。

やはり、そよりんは萌え袖で可愛かった。

ハジメ君はただぼんやりと上空を見上げ、飛行機曇を見つけ、あ、と言って紫色に染まった夕空を指差した。

「飛行機雲だ」

「本当だね」

その時、私は気づいた。手に中指がないのだ。

彼の左手には4本しか指がないのだった。

3

2017年、夏。

朝の8時半、その書き込みがあった。

それはマッチングアプリと呼ばれるあるアプリに書き込まれていた。

アイコンは女性となっていたが、年齢設定が「99歳」になっていた。

おばあちゃんがマッチングアプリをしている? そんなわけはないだろう? 

でもおばあちゃんの可能性もあった。その登録が以前から気になっていた。

趣味の欄には何も書かれていないが、既婚にマークが入っている。タイプの欄には、気の合う人、笑顔が好き、にチェックがあった。

私は密かににある本の企画を依頼されていた。

企画したのはランダム社という小さな出版社で、2014年に私はある小説を出版して以来、ほとんど活動してなかったので、その企画には確かに迷いが生じていた。

しかしこれからの生活設計は確かに不安があった。

担当者はミゾグチモヨコという若い編集者で少々荒っぽい仕事をする。

企画内容は「名もなき人」というタイトルで、いわゆるマッチングアプリで男性や女性と出会う若者たちへのインタビュー集だった。

もう妻のココとは別居の末、離婚することにお互い賛同していた。

インタビュー集?

携帯電話の向こう側でミゾグチモヨコは猫のように笑った。

「だって先生、今落ち込んでるんでしょう? またいつもの通り。落ち込んでいる時は書くチャンスでもあるんです」

「チャンス?」

「だから失恋したらご連絡下さい」

まったくいつもなんて手荒い仕事をするんだろう?

しかしきっとそこには何かが見えてくる。隠された世界には、そこになにかはあるはずだった。確かに。

もうただの中年だし、そういう成人対象の本を出版したいという淡い願望もあった。

しかし私の心のなかはなんだか空中分解していた。

それは離婚のことでもあったが、私の身に起こったある事件が今となっても何故か長く尾を引いていたのだった。

どうして私はこうなってしまったのだ?

ある事件。

それはアムニージュアク事件と呼ばれている、かつて社会的な大きな物議を起こした事件だった。

西神戸児童連続殺傷事件というのが正式な名称。

いわれもない児童を連続して殺傷し、あまりのその残忍さと、地元新聞社に送られた犯行声明文が一部の若者たちの間である種の不思議な共感めいたものを呼んだ。

言わばこの「犯行声明文」が時代性を醸し出していたのが一般の事件とは違った点だ。

なんだかスイッチを押してしまったかのようにその現象が私の身に起こった。

アムニージュアク事件の反抗声明文には「透明な存在」という言葉があった。

すぐにある週刊誌のジャーナリストから私に取材があった。

駅前の小さな画廊喫茶でインタビューに答えた。「あなたは本当にアムニージュアク少年を知らないのか」と問われた。

確かに私のデビュー作とアムニージュアク事件にはたったひとつの共通点が存在した。

「透明」という言葉を私は使用していた。一方、アムニージュアクは「透明な存在」。

「透明」だと、「Crystal(クリスタル)でも透明だし、「綺麗」でも透明だ。

私の小説には「透明な存在」という文字はない。

だからこの小説はそれらをエンターテインメントとして書く、という感覚があり、他にも死んだ姉の恋人を愛してしまう、というラブストーリーでもある。

突然、週刊誌に「シナリオ見つけた!」と大きく掲載された。

「透明」というひとことの一致だけで、そんなタイトルがつくなんて、そこにはセンセーションという狙いがあり、小説を切り刻み、全く違う解釈を植え付け、透明な存在、という犯行声明文の言葉を引用元はこの小説ではないか、とスクープになった。

確かに私は小説でその時代性へのアプローチは当然あった。

一部のテレビワイドショーなどでそれは波及した。

私は、そんなわけない。これはただの偶然の一致だ、と確信があったが、やはりその「透明な存在」という言葉には何か自分のことのようでもあった。

偶然の一致。

しかしそのスクープよりもっと苦しめたのはインターネットの世界だった。

時が経つにつれ、全く事実ではないものが定説化されていく。(大きくいうと、何か事件と関係あったんだよね、と声をかけられ続けられる結果となる)

ネットは検索できるのだ。時が経った今でも。

実はインターネットがある限り、私はいつも何故かそのストレスから逃れられない。

はるかに古い話のようで、現実に素の世界に生きていると、実際に出会うと当然、検索されるわけだ。当たり前だが。

よく考えればひとつの間違った意図を持つスクープ。

事実でないし、私にはいっさい関係のないこと。

関係は0。

私は担当編集者に生返事をした。

とりあえずマッチングアプリにアカウントを作った。

しかしまるで飛行機事故にでも偶然、乗り合わせた乗客のような気持ちでいる。

どこまでも運命は幻の足音となり、私を追いかける。

運命はその後も残酷な展開を見せた。

ある本の出現。

時々、私は作ったマッチングアプリのアカウントを眺めたが、あまりに業者や援交目的であろう書き込みばかりだ。

当たり前だ。

どうやったら一般の女性に会える方法はないものか、と考えあぐねることとなった。

しかしそこには不思議な書き込みは幾つか存在していた。

99歳のこの女性登録のアカウントは誰なんだろう?

まるで何も更新されていく様子はなかった。

しかしその朝、99歳の女性登録アイコンが、出会い募集、と書き込み、それを偶然見た私は動いた。

誰だろう? そもそも女性?

そうやって私は見えない世界のドアを開いた。

待ち合わせの場所には優しい微笑みを持つ女性がいた。

実は裏側の世界にも優しく、ちゃんと「人」はいる。

何もかもが見えないSNSの世界にも「人」はいるのだ。

それは今ではわかる。

99歳で登録された女性は、35歳のあまりに普通の女性。そして優しさに満ちた美しいひとりの女性が立っていた。

お互い車に乗った。私が運転席で、彼女は後部座席に乗った。

晴れていて春か秋か、どちらとも呼べないさらりとした風が吹いていた。

彼女に名前を聞いたが、もちろん名乗るわけはなかった。

「インタビュー? じゃ私の名前は、8時半の女‥‥」

「じゃ、その名前でで」

「でもエッチは? するの? しないの? 無理しないでいいよ。隠さない、隠さない。いろいろあるんでしょう? 人それぞれ。私の前では普通でいなよ」

「君はどうしてこんな風に人に会うの?」

彼女は後部座席で少し首を傾げ、やがてこう言った。心のなかで鈴のような音が聞こえた。

「クッション」

5

私の母親と父親は別居していた。

母親の職業は百貨店で指輪売り場の店員だった。しかしそれだけでは生活費が賄えないのか、夜は時々、ホステスもしていた。

しかし今は百貨店もスナックも営業できないので、なにやらノートパソコンでこの時期でもできる職はないものか探していた。

母親は変わっていて、DJでもあった。もちろん趣味だけどたまの週末にクラブで古いロックをかけていた。だからベレー帽を愛し、見た目もかなり若い。

マンションに戻ると、母親はまたソファーにいて寝てしまっていた。私は起こさないようにそろりと、リビングを抜けて、自分の部屋に戻った。

脳裏にはハシメ君の4本指が気になり、SNSでの空さんのDMが気になり、またiPhoneの(空)を開けた。

ツイートは今日もない。

そよりんにLINEをしようとして、ん? そよりん、と会っているということは恋人タイムなのかも知れないと思った。

濃厚接触。濃厚接触? いやふたりは手も繋いでなかった。それで、そよりん、にLINEを入れた。

【帰ったよお】

すぐに返事が来た。

【びっくり?】

【ウケた】

【秘密だよ】

【おけ】

【クラスにバレたら大変さ。まさか、まさかの展開。秘密って、本当にたのしいね】

【ハジメ君ってどんな人?】

【知ってるけど言えないよ。それ言ったら彼女として失格じゃん】

ん? 言えないことの存在? 親友にすら言えないこと? 秘密の存在?

【したのですか? いたしたのですか? ちみたちは?】

【まだ、でございます。ファーストキスもしてない】

【あら】

【あんまりそういう人ではないよ。性的なものは感じない人だよ! まったく! ファーストキスすら、どうやってしたらいいのかわかんないのでは? 悩んでるのでは?】

【マジか】

【それで悩み過ぎて最近落ち込んでおります。そゆとこ可愛い。そゆ人初めて会ったから、わたしきゅんきゅんしちゃうわけなんだ】

【ほお。なんかそよりんにしては珍しい発言。今日も、おな、ですか】

【ですです】

ファーストキス? ファーストキスで悩む男子?

【そよりん、どういうシチュを狙ってるの? ねえ、恋愛製造機さん】

【れ、れ、れんあいせいぞうき? 爆】

【ですです】

【まだ浮かばない。なんかいいシチュないかなあと、計画中。ドキドキするやつ。ハジ君って自分からはダメだど思う】

ん? その呼び方が気になる。え?

【まってまって。ハジ君? そう呼んでるの? ハジメ君だよ】

【そそ。普通にハジメ君だから、ハジ君。何か?】

【え‥‥そのハジ君って呼び方、どかな? いいのかな?】

【なんでなんで? 普通じゃない? ハジ君はハジ君】

【えー】

【なぜに気になる? 無意識だよ。普通にハジ君でいいじゃん】

【とにかくやめて】

【何? ミズホどした?】

【とにかくやめてあげて。そよりん、ごめん。お願いだからやめてあげて】

【どしたの? ミズホ? 祝福してくれてると思ってたのに違うの?】

【ううん。おめでとう】

【うっしゃ!】

【ごめん、落ちるね。おやすみ】

【おやすみ】

私はLINEを閉じた。

何かと何かが淡く結びつき、新しい地図が作られていっているのかもしれない。きっと世界は新しい地図になればいい。

私は怖くなった。もしそうだとしたら、彼の根拠のない罪悪感が少しずつ変換され、日々増してしまうかもしれない。

その言葉はただの偶然の一致だ。

(クッション)なんてどこにでもある。

深夜になっても(空)アカウントからDMはこなかった。

私は普通にマスターベーションする気にもなれず、生理前の強い性欲の行き場はなくなってしまった。

そのかわりなぜか根拠のない涙は浮かんできた。その空白が愛おしくて、どこまでも孤独に落ちていきそうだ。

明るく、明るく。落ち着こう。

心臓の動きを確かめたくて胸に手を当てた。それがきっかけで私はマスターベーションをはじめた。

既に性器は濡れていて、秘密が始まっていく。

自粛生活は続き、テレビを見ている限りでは日本政府は混乱しているのは明らかだった。

マスクだってどれだけ効果があるのかわからなかった。

ウイルスは実は中国の研究所で作られて、それが漏れ、武漢の街であれだけ感染が広がっているとアメリカは中国を非難していた。

しかしWHOはなんだかんだで調べられていない。

母親の名前はミドリだった。

朝食の時に母親はストレスからかこんな発言をした。

私とキッチンテーブルで向かいあい、開けられた窓からはいつもの太陽光線と風が入ってくる。ふたりで甘くないヨーグルトを食べた。

「疲れちゃうよね? ミズホはそうでもない? いつまで続くのかしら、この生活」

「報道だけ信じたらいけないと思うよ。きっと現実は少しずれたところに存在するってものよ」

「マジか。SNSも現実も政府も少しずれてる? あんな報道ばかりして」

「それキャラクター化。裏と表」

「キャラクター化?」

「人はよりその人らしくツイートしてるのよ。こう、Twitterって140字の世界だから‥‥」

「だから?」

「たぶん‥‥増幅。誇張。バイアス。自然と誇張されるの。傷つくのよ、結構ね。ま、いいじゃん。ミドリ? 朝食食べよ」

私はヨーグルトを食べ終わり、ミルクを飲むと背伸びをして、自転車でまた走りたくなった。

「ミドリもたまに外に出てね」

「どうすんの? 今日は?」

私が無視すると、母親は立ち上がり、私の頭をこつん、と叩いて、自分の部屋に向かった。家庭にはマスクの存在はない。

それからまた自転車に乗って深呼吸して、景色を確かめて、駅前の人の数を確かめて、安心した。そしてまた帰ってきた。その朝の繰り返しはいつまで続くのか。

雨が降っていた。

私は待ち合わせのあの藤沢駅前の小さな公園の隣にある10階建てのマンションの屋上に向かった。

チラリと傘をさしながら公園を見たら、錆びていたブランコと滑り台が新しく塗り直されていて、ブランコは新しいイエローに、滑り台はブルーになっていた。いつもの子供達の姿はない。

もう屋上の屋根つきベンチに、そよりん、がいて、手を振りあった。

そよりんは珍しく白いワンピースでやはりミニ。その隣には少し離れて黒いジャージ姿のハジメ君がいて、それに驚いた。

私は向かいの少し離れたベンチにそっと座り、ふたりと対面する形になった。三人ともマスクをしていた。

白いマスク。

街が見渡せた。

小さな屋根やビルの屋上がどこまでも続き、雨に濡れて、空もグレーな雲が果てなく続き、私と、そよりん、はいつまでも日常会話を続けていた。

ハジメ君はひとり沈黙のなか、iPhoneを取り出して、何やら打ち始めた。

私のカーキ色のキュロットのポケットから、着信音が届いた。

私は会話しながら、笑いあいながら、iPhoneを取り出して、見ると(空)アカウントのDM。

偶然だよね?

【今、いいですか?】

【はい】

【元気ですか?】

【どうしたんですか?】

【ひま】

私はハジメ君を見てみると、まだ下を向いて携帯を打っている。4本の左手。ん?

次に、そよりんをよく見ると白いワンピースは雨で水色の可愛いブラが透けている。恋テク?

【私もひま】

【笑】

【笑】

【少しだけいいですか?】

【もちろん】

【退屈って忙しいんです】

【退屈が忙しいの? なんですか?】

【たとえば今日は雨です。雨が降ると匂いを確認しなきゃいけないし、花の色が綺麗に変わるし、発見があるから散歩すると、踏み締める足音も違うし、みんなのファッションも違うし、やがて道に迷って新しいパン屋さんを見つけてしまうし】

【うん】

【それが偶然おいしいかったり】

【うん】

【退屈が忙しいって話です】

【ウケます】

その時、雨が急に強くなる。そよりん、はハジメ君を急に声をかける。私も黙ったら、こう言った。

「ハジ君?」

「どしたの? 急に」

「あなたのことが大好きです」

そう言うと突然、そよりんはマスク越しにハジメ君にキスをするのだった。

マスク越しのキスだった。マスクとマスクの突然のキス。強い雨はいつまでも続いた。

私は空を見上げた。そして、そよりん、おめでとう、と心で言って小さく微笑んだ。

それから、キスしたまま、そよりんは私にピースサインを送るのだった。

6

いつも午前8時30分にLINEが入った。

【今日、会いたいんだけど、大丈夫ですか】

だいたい2週間に一度くらいのペースで私たちは会うようになり、セックスして、お互いのことを話し、お互いの誕生日を祝い、ごく普通に交際が始まった。

彼女はやはり人妻であり、子供を保育園に送ったあと2時間だけ会うという決まりだった。

決まりはもうひとつあった。

付き合うのは3ヵ月だけ。それが過ぎればちゃんと連絡はお互いしないという約束だった。

確かに最初から間違いだったのは明らか。

車で迎えに行くと、彼女は後部座席にいつも乗り、マスクをして小さく丸まった。

やはり人目につくのを嫌がった。それは彼女の職業にも関係があることだった。

彼女は介護師の仕事をしていた。だから職場の街を抜けるまで彼女は丸まって身を隠すのだった。

ホテルへ行き、性行為に誘うのはほとんどいつも同時だった。

彼女はクンニ以外なら、と約束をしてシャワーを浴びた。私の身体もバスルームで丁寧に洗い、そのままいつも抱き合った。

とても柔らかで、体温がそこにあり、性欲が生まれ、お互い手を繋ぐと部屋に移動してベッドに倒れ込んだ。

彼女を抱くと私はトラウマが解かれたような気分になるのだった。彼女はすべて受けれてくれた。

確かに彼女は魅力的で、あまりにも優しかった。しかしいつか、別れはくることはわかっていた。

彼女の体のすべてを激しく抱きしめたし、彼女は私の体のすべてをいつも激しく抱きしめた。

彼女は私のペニスと睾丸をよく観察して、なるほどなるほど、と微笑んだ。

生理が来ても、お風呂で愛し合おう、と提案してそこではゆっくり性交をした。

しかし私はなぜか射精を迎えることがなかった。いつも射精しなく、彼女はとても残念がった。ベッドで抱きあいながら言った。

「いつもいかないの?」

「ほとんどいかない」

「いつか一緒にいこうね。また飛行機のことを考えてるの? 私はがんばるから。ちゃんと感じてる?」

「もちろん」

「ちゃんと伝わってる? セイ君? ずっとこうやってずっと愛し合おう。私は負けず嫌い」

「それはお互い」

彼女はよくセックスのあと、ホテルの薄暗い部屋で、私が人妻じゃなかったらよかったね、と言って微笑んだ。

「ねえ、セイ君。官能小説書いてみたら?」

「え? 大人向けの小説?」

「もういい歳なんだから。いいじゃない? 別に普通に人だよ、そこは」

書けないよ、と私が説明した。だいたい私はあまり小説は出さない、しがない作家だ。

「それは簡単な問いね。私を書けばいいんじゃない? いつか書いて。私のこと書けばいいだけです」

「いつか挑戦してみる。でも書けないよ、もう」

「書いてみたら? 書くことは精神の治療なのよ」

「そうか」

「約束ね。タイトルは‥‥そうね‥‥やはり(8時半の女)で」

8時半の女。

私たちはいつも笑っていた。

「君は最初、クッション、って言ったよね? あれはどういう意味? もっと具体的に言うと?」

「苦しみの底にはクッションがあるの。実は世界ってクッションなんだよ。そんな風にできてるの」

「苦しみの底?」

「それは優しさでもあるし、慈悲でもあるし、性的なものでもあるし、毒でもあるかもしれないの。きっとなんでもない小さなことかもしれないよ。もっともっと何か大きなものかもしれないの。苦しみや不安な時には、それだけのクッションが生まれるんだ。だから性もあるんだよ」

そう言って彼女はいつも柔らかに微笑んだ。そしていつも小鹿みたいな瞳で覗き込んだ。ボブの髪をかき上げた。

「笑わないね」

「そだね」

「ほんとは笑えるでしょ? ほらほら、瞳の奥に隠れた、セイ君出ておいで。こわーくないから」

「目を見られると‥‥」

「あら」

確かに私はだんだん笑顔が増えていった。彼女だけには笑えるようになっていった。

そして我々はなんでも相談するようになっていった。包み隠すことをせずになんでも話し合った。

彼女は介護師だったので、父親の介護の悩みを打ち明けた。

肺ガンになり、その手術がきっかけで、歩けなくなった父親は80歳を超えていた。ベッドに寝たきりだった。

彼女は介護認定を受けることを勧め、その介護度でヘルパーさんの手伝える度合いが変わることを教えてくれた。

LINE交換の話題の最後には、お父様はどんな感じ? 介護度は今いくつ? と打ってきた。なんだかカウンセリングを受けているみたいだった。

【セイ君も結構なPTSDなんだからひとりじゃとてもじゃないけど無理だよ。介護って大変だから。気がおかしくなるリアルな世界だから。排泄とか、お風呂とか、食事とか、痴呆とか、人の介護はとにかく大変なの。人は生々しく死んでいくよ】

【君はそういう世界に生きてるんだよね? いつも】

【そうだよ。介護のお仕事はいつも死を送るから。死が身近なのよ。だからその分、セックスも必要】

【どういうこと? それ】

【うん。人が死んでいくのを見ると、不思議と性は必要なんだよ。不思議なんだけどしたくなるんだ】

【バランスかな?】

【不思議なんだけど。きっとバランス。うまく神様は用意してるよ】

そしてとても静かにその3ヵ月は過ぎるのだった。きっかり約束の3ヵ月が経ち、しかしお互いの気持ちに気づいた。

そう、気持ちが残ったまま別れを迎えるなんてできっこなかった。もうすっきりと離れられくなっていた。

その関係は一年と少し続いた。

いろんな話をし、いろんな性交をし、最後はお互いに約束事を紙にも書いた。確かに愛おしさが奥底まで根ざしすぎた。

彼女はその紙にこう書いた。

(一緒に病気と戦いましょう)

介護の日々は続いた。

彼女の言う通り、どこまでも人は人であり、生々しい。本当に気が狂ってしまいそうだった。死も考えたし、心中すら頭をよぎった。

しばらくした、ある冬の日、電話をかけるともう彼女の携帯番号は変わっていた。LINEも突然、消えた。

もう午前8時30分にLINEは入らなくなるのだった。

確かなことは彼女が私の心や命を救ってくれたということ。それは確かだ。

彼女こそ私の存在のクッションであったと今でも思う。

(もちろん、元カノという存在もいたが、このタイミングの、この裏側の世界でしか話せなかった、という意味である)

そのクッションがなくなってから、私は最初、彼女を忘れようとした。けれどどうしても首を捻った。

そこにはいなくなった理由のヒントがあるはずだと考えた。

それはおそらく子供の存在かもしれないな、と思うようになった。私自身が介護をしているのもひとりの親の子供だからだ。

もちろん彼女は家庭もあった。ひとりの母親である。夫がどんなに彼女を苦しめているのか、知ったとしても。

やはり最初から間違っているのは確か。だが複雑な迷路だ。

ならば(クッション)はどこあるのか。

(彼女がいなければ私はもはやこの世にはいないだろう)

私は最後に過ごしたベッドを思い出す。

彼女は、実はセイ君の本を読んだの、と言って黙った。

抱きしめると、静かに泣いた。天井を見つめ、しばらくして、トイレに入って出て来なかった。

トイレから戻った彼女はいつもの柔らかな笑顔だった。いつものように愛し合った。求めあった。

しかし射精することはなかった。

彼女が消えてからしばらくした時のことだった。マッチングアプリのアカウントに名前の変えた彼女を発見した。

私は別名義でアカウントに入り込むと、そこで私以外にも彼女には彼氏が何人も存在することを知るのだった。

なんだったんだろう、と と問い始めた。それは、私の存在は誰かを知らないうちに傷つけるものでもあると思った。

私の小説もきっとどこかで誰かの加害者でもあると気づいた。

無意識ではあるし、根拠などないのだが、私とはきっとそれはどこかで誰かの救いにもなるだろうが、加害者でもあるのだ。

それは現在は「距離」として表出し始めている。

人と人との「距離」。

離れること、そういうことへの問いかけは今でも続いている。

それから半年が過ぎた時、私の家のポストに小さな箱が入っていた。

開けると、そこには新しい高級ボールペンが入っており、小さな手紙が添えてあった。

そこにはたった一行、「書いてみてください」とあった。

7

私はいつものようにパイプベッドに仰向けになりながら、iPhoneをじっと見ていた。

でも誰ともDMしたくないし、LINEもしたくない気分だった。だから電源も落としていた。

脳裏には、そよりんが私に送ったピースサインが浮かび続け、悪魔かよ、と独りごちた。

そのファーストキスを見ているのは親友だし、私の秘密なんて気づいてないし、ハジメ君もそんなところを私に見られたくはないはずだ。

私に秘密の気持ちがあるから、あのマスク越しのキスがそう見えたのかもしれない。

でもあのシチュエーションの作り方ってかなり悪魔的だ。少なくとも私にとっては。

そよりんはどこかでいつも悪魔性を感じさせる存在であった。

いつもそうだ。

いつもどこか独断的で、主人公となるのは自分であり、まわりの人を振り回す傾向がある。

それでなんだかクラスでも浮いてしまう。いつもそういう、そよりんの側にいてあげたくなるのが私である。

いやそんなことはない、と首を振った。実際そよりんはとても優しい一面があった。

いつも誰か用と自分用と分けてハンカチを二枚ポケットに持っていた。

クラスのなかで誰かが泣くとティッシュをそっと陰で見えないように手渡すのはいつも、そよりんだった。

いつもは無視されているのに、聞き上手なところがあり、悩んでいると女子は、そよりんにはざっくばらんに打ち明けた。

そよりんは暗い話をすぐに明るい方角へ転換させてしまう。

ナプキンもいつも誰かのために用意していてトイレでそっと手渡す。

そして男子の性の秘密を研究して、そういう仕組みなわけさ、と複数の男子とのセックスを正当化してみせる。

「男子ってね、実は定期的に、あれ、出さないと、その精液は腐って病気になるんだよ。だから定期的に出させてあげないといけないと思っちゃうわけさ」

「マジ? 精子って腐るの? だから彼氏だけじゃダメって論理?」

「もち特定の彼氏がいる時はしないさ。でもまあ、時々、性と気持ちって別々になればいいなあ、と思っちゃうわけさ。ウブな男子って物足りないの。純粋なのだよ」

「うーん」

「でも‥‥そんな男子も野獣になるから。いつか」

「育てるの? えー」

「何か?」

「そよりん? なんかまわりまわっていつのまにか誰かが傷つくシステムが発動してない?」

私はまだよくそよりんを理解してあげれてはいないのかもしれないな、と思った。

夜のベッドから手にしたiPhoneの向こうに天井が見える。暖色系の蛍光灯の光に昼には白いが、薄いオレンジ色に染まっている。

音楽かけようかな。情報が多くてどうしても思考が渋滞してしまう。このコロナ禍って。

優しい音楽を聴きたいな。

それからゆっくりお風呂に入るのだ。入浴剤の香りに包まれたい。

暖かいものが必要。

もうすぐ梅雨明けの季節。

朝、目覚めると母親のミドリがリビングで古い静かなジャズを聴いていた。

もう時刻は午前8時半。

母親は窓際のソファーに寝転びながら、入ってくる太陽光線を手に当てて、その光で遊んでいた。

おはよう、と私が声をかけると、その光を手に丸めて投げてくる。それをさっと避けて、おおっと、と言って笑い合った。

「この曲、何?」

「ジョン・コルトレーンのバラード」

ほほお、と言って、私は冷蔵庫から甘くないヨーグルトを取り出して、テーブルで食べ始めた。

空気がしっとりしていた。

梅雨なのに晴れた日が多く、長かったな、今年は、と心のなかで呟いて、動こうとしない母親を見つめ続けた。

「眠くなるよ、ミドリ? この音楽」

「じゃもう一回寝たら?」

「そんなわけいかないでしょ。朝は自転車に乗らないと死ぬから、私」

「ミズホ? あんた自転車がないと死ぬの?」

「死ぬ死ぬ」

「ママは音楽とベレー帽がないと死ぬ。あ、保険には入ってるから。それでなんとか生きな」

私はいつものように適当に返事をして、いつものように自転車で藤沢駅に向かい、いつもの小さな三角公園でブランコに揺れていた。

子供達が親に見守られて滑り台で遊んでいるのを見て安心する。青空だし。

迷ったが、私はアーミーグリーン色のキュロットのポケットからiPhoneを取り出した。

見たら、(空)のアイコンからのDMの通知がひとつ入っていた。

これはただの偶然なのかな? 

ただの偶然の一致? 

なんだか怖くなり、そっと既読だけつけようと開いた。

【もうすぐあなたにお会いします】

え? 私はその一文に息を飲んだ。そしてある本の最初の一行を思い出した。あれ? 同じ本を読んでる?

ん? なんだ?

【どういう意味ですか?】

しばらくしてDMが帰ってきた。

【え? 普通にささやかな小説からの引用です】

引用?

私の頭はぐるぐると回転する。なんだ? この偶然性は? その裏側の世界に私は問うてみた。

【ひょっとして本好きですか?】

【はい】

【私もです。偶然ですね】

【元気ですか?】

【はい。空さんこそ元気? 落ち込んでない?】

【大丈夫です】

【根拠のない罪悪感は消えましたか?】

【たぶん大丈夫です】

【ファーストキスは傷になってませんか?】

【え? ただ懐かしかっただけです】

懐かしかった? ん? え? しばらく思考がストップした。

【質問です】

【はい】

【空さんは‥‥本当はOLさん?】

【違います。38歳の普通のおばさんです。介護師です】

おばさん? え? 38? 介護師?

【ウケます。なりすまし?】

【なりすまし? え? あれ? 何言ってます? 普通に38の女性の介護師です】

え? わけがわからなすぎて、混乱した。

【あれ?】

【ん?】

秘密の点と点が結ばれていく。

【ウケます】

【今、空を見てくださいませんか?】

【はい】

【何が空に見えますか?】

【‥‥小さな星かなあ、あれ】

【そうです。朝なのに星があるんです】

私も空を見上げてやがてひとつの小さな星を見つけた。それはあまりにも小さい。

【あ、あります。朝なのに星が】

【それを伝えたくて】

【ありがとう】

【今、同じ星を見てるんですね】

【なんだか不思議な気分です】

【不思議です】

【きっとこの空は世界にも繋がっています】

【はい】

【きっと世界の誰かが今、この瞬間もやっぱり空を見ています。これだけ世界には人口がいますから。きっとどこかでこの瞬間も見ている人はいるんです】

【そですね】

【笑】

【笑】

【どこかでつらい人も、がんばってる人も、空って何気なく見てますから】

私はいつのまにか流れてきた涙が止まらなくて、視界の邪魔になるとまた拭いた。

空の青さはどこまでも広がり、その届かなさや小さな輝きが私を射した。

私は星に手を伸ばした。でも本当は触れたかった。どこかでそれを願うただの女子高生だった。

空さんのDMが続いた。

【またDMしてもいいです?】

【はい。もちろん】

【びっくり?】

【ウケます。またお天気のツイートしてください】

私はただ空さんの言葉に恋してただけ。それだけのこと。ただそれだけのことだ。

【わかりました。じゃまた】

【またです。空さん】

【また重力のない世界でお会いしましょう】

【はい】

【いつもありがとう。あなたの存在に救われてます】

【ありがと】

【ありがと】

私は空を見上げ続けたが、涙で星が見えなくなってしまった。ハンカチもない。いつまでもいつまでも涙が止まらなかった。

またです。空さん。

重力のない場所で。

(第一部 おわり)

第二部 この物件はコンビニまで遠い

プロローグ
 
 
アリサと会ったのは沖縄の北谷にある「relax」というバーだ。

その隣のホテルに宿をとっていたので、3日連続で通った。

その3日ともアリサはいた。

最終日の3時くらい。店が丁度いい雰囲気にまったりしてきたので、どうして毎日ここに来るの、と訊ねてみた。

「だって私には何もないから」

「?」

「ここのカウンターに座っているといろんな人と話せるでしょう? 何かをやっている人達の言葉はやっぱりそれぞれにすごいの」

「うん」

「私はそれを毎晩ここで聞く。いろんな人がここに来ては去っていき、でも私は毎晩ここにいる。ここのカウンターが好き」

と言って彼女はカウンターに手を滑らせた。

カウンターというのは実に不思議な場所だ。

そこは何かを生み出すというよりは、融解させるというか、受けとめてくれる力がある。

アリサと話しながら僕はふと、今、この瞬間もある世界中のカウンターを想像した。

そこには会話があるのか、恋人同士の秘密があるのか、また誰もいなくて、ただ静かに誰もいないカウンターが待ち続けているのかもしれないな。

僕はふとそんなことを考えながら 隣にいるアリサを見つめる。

彼女はまたカウンターをぽんぽんと叩く。

「もう生活の一部なんだ。夜になるといてもたってもいられなくて、車を飛ばしてここにくるの」

「ここが大切なんだね?」

「なんかいいのよ。わかる?」

「うん」

「何もないけど、でも私にはこのカウンターがある。世界にもカウンターがある」

そう彼女は言って微笑んでいた、あの夜を忘れない。

彼女は今でも世界じゅうのカウンターを愛しているに違いない。

1

私はその夜もいつもようにパイプベッドに仰向けになりながら天井を見上げていた。

もうお風呂も済ませ、髪も乾かし、薄いピンクのTシャツと白いホットパンツ姿だった。

部屋にはインディーズバンドのロック曲が流れていた。

でもインディーズバンドっていってもメジャーバンドとの境界なんてもはや線引きなど必要がない。

天井には暖色系の光がオレンジに広がっている。なかなかに気持ちが追いついていかないのだった。

ということは‥‥私はハジメ君とひとことも喋っていないということになるわけだ。

彼のことはただの親友の恋人というだけだ。わからない。接点すらない。根拠のない罪なんて持ってもいない。

しかし左手の中指は確かに存在していないのだった。

空さん、とのDM交換をiPhoneの電源を入れて読み返してみた。

ファーストキスの話や、あの強い雨の日のハジメ君の携帯を打つタイミングとは、なんだったんだろう?

【4本しか指がない人もいます】

そして何より、そよりんから聞いたハジメ君には誰にも言えない秘密がある、ってこと。

空さんは38歳の女性介護師。確かにすごく具体的だし、あまり疑う余地が存在しない。なんだか胸が騒ぐのみである。

ハジメ君が遠くなる。

もちろん親友の彼氏なんて、近寄れないし、話しかけることもできない。

私のなかであまりにもハジメ君は幻のように消えてしまうのだった。

私は急にプリンが食べたくなった。とにかく甘いものがいい。あのとろけるようなスフレ・プリンが食べたい。

しかし実際にはコンビニは遠い。駅前まで行かなきゃいけないのだ。

もうコンビニは営業しているだろうけれど、なんだか、スフレ・プリンの味だけを舌の上で転がすのみとなった。

【生まれてはじめて雨を見た。生まれてはじめて雨に濡れた。なんだろう。この降ってくるもの。なんだろうこの本当に降ってくるもの。生まれてはじめて雨に踊った。水滴にのって、ジャンプした。雨雲をつかんで、食べた。約束の時間、部屋に戻ろうとしたけど、ずっと雨を見た】

急に空さんのツイートが更新されて、それを読んだ時、嬉しくてまたDMをしてしまった。

それは雨の日で、高校のリモート授業中だった。

私の学校ではzoomで行われていて、画面分割されて、その日の参加生徒は25名だった。

退屈のあまりノートパソコンの陰でiPhoneを取り出して見ていた。

(空)アイコンに向けて(ひま)と打ったら、すぐに返信が来た。

【ひまひまですか】

【そです。空さんは?】

【ひま】

私は微笑んだ。どうやら、空さんは根拠のない罪の意識は小さくなったのかな。それだけが心配だったのだった。

【偶然の音楽】

【どしたんですか? ポール・オースターでも読んでるの?】

【違います。笑】

【そですか。オースター好きです】

【同じです】

【わー! ヤバい】

【ニューヨーク三部作です】

【好きです! 鍵のかかった部屋、も、幽霊たち、も、シティ・オブ・グラスも!】

【本好きですね】

【はい。それで? 本筋は?】

【散歩をしていて迷います。路地に入ってしまい、もう夕暮れで帰り道を探しています。するとどこかの知らない家からのピアノの練習が耳に聞こえます。その音を目を瞑って聴く。夕暮れ、出会い、迷い、夢、偶然の音楽。聞こえますか?】

【わ! 聞こえる!】

【笑】

私は視線はそっとノートパソコンに戻った。そよりん、がいる。ハジメ君もいる。クラスメイトが25分割され存在していた。

あれ? ハジメ君の手がデスクの下にあって見えないけど、彼の視線はノートパソコンになんとなく向けられていた。

そよりん、は画面越しに私にウインクをしてきた。私も小さくウインク返した。また何か企んでいるのか。

リモート授業は画面越しに参加する生徒たちの部屋が背後に見えるところが面白く、それぞれ暗号みたいに背後にぬいぐるみやマグカップを2つ並べたりして秘密に遊んだ。

【います?】

【いるよ。リモート授業中】

ハジメ君の部屋の背後にはパイプ棚があった、そこをじっと見て、幾つか並べてあるCDを見つめた。綺麗に整頓された棚だった。

米津玄師、菅田将暉の流れはわかるけど、その横にレディオ・ヘッドが並べてあった。ん? ハジメ君、音楽好きなのか。

【ダメな高校生です。落ちます】

【またです】

【ツイート素敵でした。またね】

【また】

私の視線は再びノートパソコンを見つめた。ハジメ君はよく見ると片方の耳にイアホンをしているらしく、それを頬杖みたいな格好で隠していた。

音楽でも聴いてるのか。

私はそっとiPhone7のミュージックに繋げ、小さな音でレディオ・ヘッドの「フェイク・プラスティック・ツリー」をマイクをONにして、音を出して流した。

誰も気がつかないような微かな音で。それが秘密の時間の始まりだと思っていた。

やがてハジメ君は少し視線を天井に向けて、またノートパソコンに戻った。

誰がいたずらしてるのか、わからない様子が楽しく、心のなかで微笑んだ。

そよりん、はレディオ・ヘッドなんて聴かないだろう。やはり、あいみょん、とかヤバT、とかYOASOBI、とかを聴く女の子だ。

ハジメ君に最初、反応はなかったけど、誰かが小さく「ノー・サプライゼス」を流し始めた。レディオ・ヘッドの有名な一曲である。

あまりにも小さな音楽。偶然の一致? 淡い。

私は次にそっとこれは誰も気がつく人はいないだろうと、チャット・モンチーの「モバイル・ワールド」を小さく流した。そしてだんだんとボリュームを上げていく。

するとひとりふたりとだんだん分割画面の向こうでグラスメイトたちが気づいていくのだった。みんなが微笑み始めた。あまりに平和ないたずらだった。

その時だった。

ハジメ君もイヤホンを外し、辺りを見渡した。そしてデスクの下に手を隠した。やがて大音量でその音楽は鳴り響いた。

「クリープ」だ! レディオ・ヘッドの最大のヒット曲!

うわ、お願い、と私は心のなかで祈った。この偶然の音楽が彼からの秘密の暗号であって欲しい。どこかで淡くとも繋がっていたい。

やがて教師が一喝し、音楽は止まったが、私のテンションが淡く止まらなかった。

次にチャットモンチーの「シャングリラ」を大音量で流し始めると、みんなが一斉に立ち上がり、なんと踊り始めた。

そのなかで踊っていないのは私とハジメ君だけ。みんなのフラストレーションが爆発した。

その騒然となったリモート授業で、私たちだけが静けさに包まれているのだった。

偶然の音楽。

ただの偶然の一致?

授業の中止が宣告されると、私は部屋を思わず飛び出した。

走りたくて、マンションから続く、いつもの橋を駆け抜けた。

晴れている!

太陽光線が電線を点滅しながら追いかけてくる。光は残照みたいに幾つもに拡散して、街中に一気に散らばった。

空は青く、拡散した光は空中で輝く点在する星のようになって次々と騒ぐ。

駅前の商店街をそのまま走ると、営業をしている店もある。店先でお弁当などの営業を始めているし、シャッターも開かれていた。

私は人の流れをすり抜け、澄んだ空気のなか走り続けるのだった。

思わず見つけたコンビニエンスストアに駆け込み、やっと買えたスフレ・プリンを食べながら歩くと、この少しずつ流れてくる涙とは、なんだろう、と微笑んだ。

意味なんてない。

それが本当の気持ちなのだ。

私は胸を張って歩くのみだ。自分の歩幅を信じているだけの、ただのどこにでもいる女子高生なのだ。

私は急にその秘密に気がついた。

慌ててiPhoneを取り出して、(空)アカウントを開いた。

そしてまず息を整え、決心して問いかけた。

打ち込む。

【あなたの指は何本ですか】

しばらくしてDMの返信が届いた。その一行は温度を届けてくれた。

【普通に5本です。でも息子の指が4本なのです】

【え?】

やっぱり!!!!

やっぱりだ!!!!

この物件はコンビニまで遠い。

2

精神医によると呼吸の発作は珍しいことでないらしい。喉にピンポン玉が詰まったみたいになるでしょう、と事例から説明された。

しかしこれはパニックになり、対処法は静かに横になるくらいしかなかった。

発作が始まるとトイレがあまりに遠い。

いつもは簡単に行ける距離なのだが、発作中は、環境を変えると吐き気に襲われる結果となり、それが決心を鈍らせる。

よく妻であったココが勤め先の百貨店の靴売り場から休憩を貰い様子を伺いに戻っていてくれた。

私が37歳を迎えた時、突然1型糖尿病になった。

1型というのは生活習慣病(つまり食べすぎや、飲み過ぎが原因ではない)ではなく、正確な原因は不明なのだが、そのひとつは北欧のウイルスなのでは、と憶測されている。

北欧でかなりこの病気は多く、ウイルスは家具などと共に輸入されるという仮説が僅かに存在している。

これはインフルエンザなどで伝染していくのではないか、と不明なのだが説のひとつにある。

つまり私が成人してインフルエンザを患ったのは一回であり、妻と同棲を始めた頃に恐らく菌への伝染があったのでは、と(なんとなく)ある。

もちろん、だとしてもそれは普通に起こることであり、その話題はあまり日常で触れられず、彼女は非はない。

これも根拠などない。

関係性0。

我々にはひとつの決まりごとがあった。

午後4時になると必ず横になってハグをするという決まりがあった。

ケンカをしていても、どちらかが機嫌が悪くとも、嬉しいことがあっても、どんな時も、私の腕枕でココは10分間眠った。

10分間。

その10分間はおそらく多くても蛇足であるし、少なくても駄目であろう。

お互いにその時間を(くまタイム)と呼んで楽しんだ。(しかし私の素は、くまっぽいから、くまタイムなんてあまりのネーミングをよくつけたものだ)

その(くまタイム)は別れの日まであった。

やはり私の腕枕でココは休み、そして静かに子供たちを連れ、家をあとにした。

最後のLINEには「血糖値、測ってね」と送られてきた。

妻は内緒で一週間分の健康食のお弁当を残してくれていた。

そのLINE電話があったのはそんな午後のことだった。

もう雷の音はなく、ただ薄くグレーに部屋は染まっていた。ベッドで私は携帯電話を確認した。

発信先は【ミゾグチモヨコ】となっていた。彼女は私の2014年に発売されたささやかな一冊「プラネタリウムに星がない」の担当編集者だった。

LINE電話になんとか出ると、ミゾグチは、いかがですか、今、少しいいでしょうか、と切り出した。

声は小さくなんだか早口でそれが不思議だった。

風がかなり強く、窓ガラスがカタカタと響くのでかなりその音が気になって最初、集中ができなかった。

「今はちょっと困ります」

「困るっておっしゃられても、私も困ります」

彼女の凛とした声がいつもの様子で少し微笑みを連れてくる。

「どうかしました?」

「内密ですが‥‥どうもおかしなことになってきています」

内密? それから彼女は更に小さな小声になり、こう告げるのだった。窓ガラスがうるさかったが、急に聞こえなくなった。

「あの、先生のご本がやっと出せたばかりなのですが‥‥アムニージュアクですよ、これ、きっと」

「ん? 何?」

「おそらく本です。どうやら、これ、アムニージュアクの告白本の企画では?」

「告白本?」

告白本? アムニージュアクはその後、成人を超え、もはや30前後くらいになっている筈だった。

新聞報道などでは、被害者遺族に謝罪の手紙を毎年送っていることを知っていた私は、少しずつ希望を感じていた。

だからなぜあの事件の犯人が告白本を出すのか意図が不明すぎた。

それにそういう社会問題にもなったかつての事件の犯人の告白本を出版するということ自体、そこにはセンセーショナルという意図だけしか存在しないと思える。

「本当に?」

「もう直前ですので、出ますよ。先生? あまり読んじゃダメですよ」

大体、彼女のLINE電話の意図がわかった。なんだか不思議な偶然の一致だった。

私はアムニージュアク事件が世間から忘れ去られるのを待ち、そしてささやかに「プラネタリウムに星がない」という小説を発表したわけである。

忘れられたからこそのタイミングが2014年。

その一冊の小説では犯人の少年A、アムニージュアクも時がたち、親になっているかも知れないという仮定の元に物語は進んでいく。

殺人犯を親に持つ14歳の少年、テラ。彼にも事件は受け継がれるが、きっとその息子には希望があり、きらめく夏のなかの初恋が描かれ、絶望は微かに希望へと終焉する。

微かな希望を私はそっと託していた。

その直後、元少年A「終歌」は出版された。

私はその一冊をやはり読むべきではなかった。

この一冊は、彼は全く更生などしていない、おそらく希望も訪れない、という内容だった。

本の内容は絶望ばかりで、どこかに希望のページはないものか、と探したが、1ページもなかった。

私の希望はただの空虚さに変わった。

私は作家の仕事として、これで全うし、ある責務は果たしたと思え、言わば事件とは卒業し、普通の作家として今を生きることができると大きく解放されていた。

その直後の絶望だった。

これは現実的に奇妙な心理状態になった。

その一冊を前にすると、その絶望と生々しさは、ひとりの人間で受け止める「許容量」をはるかに超えてしまったのである。

たとえるならバケツに水を入れ、ひとつではもう溢れて、いっぱいになり、バケツ一個では太刀打ちできないわけだ。

深夜、私は車を猛スピードで走らせた。

高速道路に向かい、闇へと走りながら目をつむった。30秒。また目を開いて、そのまま何もなかったらそれは人生は続く。

その時、私のなかで不思議な何かが生まれようとしていた。

人間とは奇妙なもので、精神のなかで、誰かが生まれる。

その誰かの存在が傷を受けることで、本来の自分はなんとか防衛できるようで、その人物に名前はない。

助手席を見ると、空白の席。

関係性0。

幻影はいつもボロボロになっているが、私は普通に過ごすことができる。

それも人と人との「距離」という問いかけでもある、と私には思える。

3

【決して目立つ星じゃない。けれどその時、世界のどこかに同じ瞬間に同じ星を見ていた2人がいる。お互いのことなど知らず、同じようにその星を見つめている。どこかであの星に気づいている人いないかな、と思う。でもそんなことなどわからず、お互いを知らないまま、人生はするすると流れていく】

その夜(空)アカウントのツイートを読んだ時、私は思わず微笑んだ。

もちろんそれからもDM交換は続いた。しかし私は、空さんはもしかしてハジメ君の母親なのかも、という仮説を確かめることはしなかった。

もしそうだとしても、それはハジメ君との距離も、空さんとの距離も、そよりんとの距離も遠くなる結果を生んでしまう。

空さん、が介護師ってことは、何かの施設の介護師さんなのだろうか。訪問介護師さんなのだろうか。

どちらにしろやはりこの時期は介護師さんって忙しい筈で、私からDMを送るより、待ってた方がいいのか迷いも生まれていた。

梅雨明け宣言の季節だ。

相変わらずその夜も母親のミドリはソファーで寝込んで、ジョン・コルトレーンを聴いていた。

私はもうお風呂上がりで、ホット・パンツ姿で現れると、北口にある小さなバーの話を始めた。

古い音楽ばかりを流すバーで、料理も美味しく母親は常連だった。

「そこのマスター面白いんだよ。パリに行った時にシャルロット・ゲンズブールに会ったんだって。ジェーン・バーキンの家に行ったら、シャルロットが偶然出てきて、サイン貰ったって」

「シャルロット? しらなーい」

「セルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンの娘。めっちゃ可愛いぞ。ミズホ、勝負にならんぞ」

「いやいや、そこで勝負しないっしょ。現代の高校生だよ。もっと他にあるでしょう?」

「じゃ誰と勝負してんの?」

「それは秘密です」

冷蔵庫を開ける私のお尻に、母親はクッションを投げつけた。それは私のお尻に見事に命中して、投げ返した。

「何それ?」

「いいじゃん。秘密ですよ。だいたいミドリ、デザート用意してよ。ここのマンション、コンビニまで遠いんだから」

すると母親はなんだか哲学的なことを言う始末である。

「コンビニまで遠いよ。そりゃ。こう、いろんなことがありまして、これは遠いわけでございます。そのようになっておりますよ」

「何だ、それ?」

私が冷蔵庫に何もないので、部屋に向かった。母親は起き上がり、呑みにいく、と告げた。

どうやら着替えるらしく部屋へ向かった。すれ違う時、私の頭を叩いた。

「ミズホも行く?」

「いかない」

「いこうよ。話があるの」

母親と私は藤沢駅に向かい、ガードを潜って北口に向かった。

母親はなんだか歳に似合わず60年代ファッションで、白いブラウスに赤いベスト、革の黒いミニスカ、そしてもちろんベレー帽を被り、その上にサングラスをのせていた。

私はいつものアーミーグリーン色のキュロットと白いUTを着て、コンバースキャンパスオールスターを履いていた。

正直、私はかなりファッションには手を抜いている。ただ長い髪がアクセサリーだと思う。

バーに行くまでの道で母親はテレビで見たドキュメンタリーの些細な話をするのだった。

道ゆく人もマスク姿で、私もマスクをもちろんしていた。

「歩くって大切でしょ? ミズホも?」

「うん」

「テレビでやってたけど素敵だったよ」

「うん。歩くこと?」

「そそ。23くらいの女性が歩くだけのドキュメンタリーで、その人、南青山まで歩くの。40分くらいかけて。もちろん南青山ってオシャレだし、シックな街だから、わざわざスーツを着て、すごくシンプルなオシャレで、素敵なの。スーツ姿が、なんでもなくて、とてもいいんだよ」

「うん。無職の女性?」

「そう。大学でて就職先が見つからないの。その彼女はベンチに座って道ゆく人の流れだけを眺めるの。話すこともなく、ただ黙って、ただ人の流れを見に、スーツをちゃんと着て、40分歩いて、安心して、眺めてそしてまた歩いて帰るの。ただそれだけの話なんだけど」

バー「サウサ」はとても小さく壁にはいろんな古いレコードジャケットが一面が飾られ、DJブースもあり、ジャズが流されていた。

マスターと母親は挨拶して、一番奥の席に私と並んだ。お客さんも数人いるが、みんなマスクをして話した。

なんだかカルチャー好きが集まる店でその話題ばかりで、私は最初ぼんやりと聞くだけだった。男性がふと言った。

「これ、今は6月じゃん? 夏って海の家は休みだよな」

「ああ今年は海の家は休みだけど、休みでもみんな行くでしょ。湘南だよ、湘南」

「これ、海の家なくて遊泳禁止になったら、サーファーとかジェットスキーとか、どうなるの?」

「やるでしょ?」

「そうだよなあ。混乱するよなあ」

マスターはテキパキと器用にひとりで仕事をこなし、明るく、私たちに飲み物と料理を並べた。

いつの間に作ったんだろう、と思う私だった。

「日本政府さん、ぼんやりしてはっきりしないから」

「まあね。こうはっきり言ったら安心するのにね? 高校生?」

「え? 私?」

私はただの高校生だけど、まあ、これ、そよりんならどうするのかな、と考えた。

「私なら曜日でくぎっちゃえばいいのに」

母親が、早く食べな、と頭をこつんとした。

「いて。ほら、動く日は動いて、休む日は休んでっていう。だるまさんがころんだ、です。いつでもいいけど、土曜日、お店とかみんなお休みして、日曜日はお店はぜんぶ開店とか。その繰り返し。もう何曜日に休めばいいのかはデータ出てるでしょ? 経済動かしたいし、家にもいなきゃいけない、なんて、不安だよ。小さなお店もある程度は。だから、だるまさんが、こーろんだ、ですかね」

みんなが一斉に笑ってくれた。その笑いで話題は溶けていく。そういうのが好きな私だ。(ツイートだと軽く書いても、不思議と重く真剣にとられる)

高校生の単純さはそれくらい単純なのだ。そよりんならどう?

割と小さなお店ではいろんな会話があって、それがとても秘密で心が休まる。

情報って(本当は)会話でいい。

そう考えると、ハジメ君や、空さんは遠くなるのだった。

母親はサングリアとほうれん草のパスタで、私はノンアルコールのカクテルを差し出された。

なるほど、名前はわからないけど、ピンク色でワイングラスで飲む大人のジュースという味がした。

ひとしきり母親とマスターとお客さんのDJについての話題が続いた。

湘南ってこういう小さな店に来ると、ほんとにDJと中古服屋さんとサーファーしかいないような気がするのだ。

サーファーは台風が近づくと、わくわくして、来ますね、と波の高さの話題をするし、ギャルは普通にコンビニでもビキニだし、自転車にはサーフボードを載せるためのアタッチメント付きが目立つ。

母親は突然、私の顔を見て話を始めるのだった。

「ミズホのクラスにタチバナ君っている? タチバナハジメ君」

「うん。いるよ。目立たないけど」

「そかー」

「タチバナ君がどしたの? ミドリ? それが話?」

母親は私にもほうれん草パスタを勧めた。食べるとバターとバジルがうまい具合にバランスが取れて美味しい。

「でね、そのタチバナハジメ君ってご両親いる? 父兄の間で少し聞いて。見たことないの」

ん? ハジメ君の両親?

「‥‥わかんないけど、お母さんいると思うよ」

「そうなの? あれ? お母さんいない筈だよ?」

「え? いる‥‥」

「そかー。父兄では見ないから、ひょっとして、なんだかどういう子なのかなあって」

あれ? 空さんって‥‥???

「お母さんいるんだったら、籍が入ってないのか‥‥お父さんもいないよね? この状況からすると‥‥」

私はぼんやりと壁一面のレコードジャケットを眺めるのみになった。

レコードジャケットの一枚を指差して、母親は言った。

「この可愛い子がシャルロット・ゲンズブール!」

私はシャルロットを見つめ、うわ、可愛い、と思い、もはや勝てないぞ、と心で思った。

シャルロット、かかってこい! ‥‥惨敗するが。

溜め息と共に私は部屋のパイプベッドに倒れ込み、iPhone7を手にしてた。(空)アカウントに更新はなく、DMも来ない。

ハジメ君に母親はいない? じゃあ、空さんって、どこにいる? 

遠くにいる?

私は、そよりん、にLINEを入れた。

【何してるかよ?】

私は仰向けになり天井を眺めた。暖色系の光が浮かんで、いつもと変わらないけど、そよりんのLINEが返ってきて、私の目はゆらゆらと揺れた。

【あ、今? ハジ君の部屋】

【そか。だからそのハジ君って呼び方やめなよ】

【何故にこだわる?】

【いや。おじゃまあ】

【待って待って。ミズホ】

【何?】

【今からいたします】

【もお。報告いらないから、もお】

私の視線はそれからゆらゆらと揺れ続けていった。iPhoneを壁に投げつけたかったけれど、そよりんに尋ねてみたいことがあった。

【そよりん、ちょっとだけいい?】

【どしたのさ?】

【ハジメ君って‥‥お母さんいないの?】

【うん】

【そか】

【ミズホ? もしかしてハジ君の秘密に気づいたの?】

【そうじゃないよ】

【ハジと実は陰で話してたりしてない?】

【話したこともないよ】

そよりんはそれからしばらくDMを返してくれなくなった。なんだか秘密の扉にいつの間にか手をかけてしまったみたいだった。

きっと今‥‥。マジか。

【眠らせたから】

【何? 眠らせたって何?】

また返事が返ってこない。私はなんだか、急に不安になり、こう打ってしまう。

【眠らせたって何? 眠ったの間違いだよね?】

【あ‥‥そだね。お酒で飲んで眠った】

【眠った?】

【眠らせたかな?】

【ん? シチュ?】

【そだよ。狙ったよお。で、ミズホに報告LINEしてるよお】

【ん? LINEで報告? なぜ?】

私の頭がストップした。え? これ‥‥。ハジメ君ってファーストキスすら悩んでる男子? これは違うよね?

【何するの? ハジメ君、それ知ってる? OKしてる?】

【知らないけど、気持ちよくさせてあげる。彼女だよ。そんだけ】

私はベッドから身を起こした。外は雨が降り始めたのか、その音が聞こえてきた。だんだん音がはっきりとしてくるから、強い雨だ。

【え‥‥そこ、違うのでは?】

【ん?】

【ハジメ君、傷つくよね?】

【ミズホも傷つくのはなんでかなあ?】

強い雨が部屋を、世界を支配していく。せっかく守ってきた私の新しい地図はそのバランスが失われていく。

母親の声がする。なんだか、雨が降り始めた、と騒いでいる。強い雨だよ、と。窓を閉めな、と。

【ミズホ?】

【はい】

【はっきり言っとくね?】

【うん】

【親友の彼氏奪うなら、肉体使いなよ。ミズホっていつも気持ちばっかだよね? 男の子はそういう生き物なの。本質】

【もお、違うし。話したこともないよ。ただハジメ君と普通にエッチすれはいいじゃん。素敵でいいよ】

【なら、ミズホもやめな】

なんだか、そよりんが私の常識を、ズルさに変えていく。次のひとことで。

【じゃあハジ君の秘密です。ハジ君の秘密ってミズホ聞きたいよね? 本当は知りたいよね?】

【聞きたくないから! そよりん!】

また返事が返ってこなくなった。

え? ハジメ君に秘密があることは知っている。しかし私は聞きたいのか、聞きたくないのか。正直、どちらも本音なのかもしれない。

でも、これ、普通に逆レイプの構造だ。恋人なら、ハジメ君を傷つけないで愛せないのか。

私はふと何か方法があるような気がして、iPhone7をじっと見つめるのだった。

ひょっとして‥‥これ‥‥そうだよ! GPS! 現在位置情報!

そよりんなら繋がってる筈だった。登録している筈だ。確認する前に私は一気に部屋を飛び出していた。自分の行動に驚いてもいた。

階段を一気に駆け下り、ロビーを抜けると、外に出た。やはり強い雨が降っている。

一度、見上げて、自転車なんていらないよ、と雨のなかに駆け出した。走りながら、私はiPhoneを開き、そよりんの携帯のGPSを呼び出すのだった。

青い光の点滅があった。

そこにそよりんからのLINEが割り込んで入った。

【ハジ君の親は毒親なんだよ】

わからない。聞きたいの? 聞きたくないの? 聞いたらハジメ君の存在が確かになる。片思いでも確かな片思いとなる。

私は全速力で走り続けた。雨が服を濡らし、水溜りを飛び越え、夜空を見上げて、星がないのを確認するのだった。

ハジメ君の家が遠いから、足が痛く、クロックスもすぐに脱げてしまった。私はクロックスを手に雨のなかを駆けるのだった。

位置情報を確認するとLINE。

【ハジ君の母親はハジ君を捨てたんだよ】

何故?

そうだった。なぜが私は走りたい。走れば走るほどに、気持ちが輪郭を持ち始め、重力を持ち始める。

繋がりなどないよ。でも、空さん? 空さんってどこにいますか? 今、どこにいますか?

GPS! 踏み切りが見えた。遮断機が降りようとしていた。足が痛くてうまく走れなくなり、私は電車が行き過ぎるのを待つこととなった。

湘南新宿ラインはひどく遅く、またLINEが来た。見てしまう。どうしても不思議と見てしまうのだった。

【ハジ君は親がいないのさ。ひどいんだ。その人】

踏み切りが開ききる前に、それを潜り、私は線路を横切った。どこかの車がクラクションを鳴らしたけど、無視して走った。

【高校生ん時、援交してたんだよね。援交相手にできちゃった子供なんだ。だから捨てたんだよ。ひどすぎ】

私はGPSを確かめ、またLINEを見てしまい、涙が出てきた。

距離が縮まる。

ようやくハジメ君のアパートに辿り着き、私は道路に沿った二階のひとつだけ光る窓を見つめた。

息が荒く、既に前髪から雨が滴り落ちていた。

ただ窓を見つめ続けた。

二階の窓の光はカーテンが閉じられていなくて、私はしばらくしてそっと足元のほんの小さな石を拾って、投げた。

窓に当たる音がして、急いで向かいのマンションのゴミ捨て場に隠れた。そこから見つめながら、様子を伺った。

【ハジ君ってどうして抵抗しないのかなあ】

LINEが入った。小石?

【そよりん? ハジメ君は?】

【寝てるよ】

【何もしてない?】

【何もしてないよ。ミズホの気持ちに気づいただけなわけさ。だから】

私は雨のなかで、頷いた。

【ミズホ? 怒ってる?】

【うん。おこ】

【だよね‥‥待っててね。今、降りて行くからさ】

やがて、そよりんは二階のハジメ君の部屋のドアから猫みたいに姿を現し、ゆっくり鉄の階段を降りてきた。

私を見つけて手を振って、向かいのマンションの非常階段に並んで座った。

お尻が冷たかった。そよりんはそっとハンカチを手渡したけと、断った。

雨はまだ降っていた。それを見上げ、遠くの空を眺めた。雲が分厚くて、暗い。

でもこの空は世界に繋がっていて、きっと誰かが今、この瞬間、確率からすると、同じ空を見つめている人がきっといる筈だと、あの人は言っていた。

「ねえ、そよりん?」

「ん?」

「おんなじ人を好きになっちゃったね」

「そだねえ‥‥」

そよりんはいつも天使なのか悪魔なのかわからない。いつもの水色のフレアミニ姿だった。珍しく黒いパンプスを履いていた。

「ミズホ? パンツ履いてるよ」

「何だそれ?」

「だから‥‥いたしてないです」

「だから、するなら検査受けて!」

「こわ‥‥うわー」

それからふたりでコンビニまで歩いた。やがて雨は小雨になり、ピタリと止むのだった。

しばらく何も話さず、手も繋げなかった。

暗い道をゆっくり歩いていった。ネオンはひとつふたつだけで、細い裏通りを歩いた。空気が雨のせいで澄んできた。

「ハジ君ってさあ」

「どした? そよりん?」

「‥‥ハジ君って、中指ないじゃん」

「うん」

「ハジ君が不思議なこと言ってたんだよ」

私たちは車道に出て、向こう側に渡るために立ち止まった。何台もの車のライトが私たちを点滅させて過ぎていく。

「うん。何?」

「俺は中指立てられないんだよって。俺、ファックユーサインってできないんだよって‥‥」

「うん」

「きっと、すべてを受け入れるしかなかったんだよ。きっとなんにも抵抗できない男の子なんだよ。すべてを受け入れて生きてるんだよ。そういう男の子なんだよ‥‥」

私はそっと夜空を見上げた。

「そよりん?」

「ん?」

「‥‥なんでもない」

彼女はショートの髪をかきあげた。

車の列が途切れ、私は、いくよ、と声をかけてもそよりんは歩こうとしなかった。

そよりんの目から水滴が落ち、それが私が見た彼女の初めての涙だった。

もうすぐコンビニです。

空さん?

いつか会いたいです。

4

2021年6月。

いつものように部屋にはジャズが流れ、どうやら今日は晴れるらしい。

朝なのだな、と私は思った。

どこかで鳥が啼き始めた。

ジャズは続いている。

今、聴いているのは細野晴臣の「ヘヴンリィミュージック」。

その歌声に救われる。なぜか細野晴臣の歌声は爽やかな慈愛に満ちている。

朝にジャズを聴くことをずっと続けている。コーヒーは2杯目。テーブルを上のそれもなくなってしまった。

新しいコーヒーを作ろうか、迷っている。髭はさっき電動ブラウンで剃った。

どこかへ旅をしたいな。歩きたくなる。

たとえばどこへ行こうか?

モスバーガー。

久しぶりにモスバーガーに行きたくなるのだった。

久しぶりに私は散歩に出かけて、近所にあるモスバーガーに向かった。

外に出ると気持ちよく晴れ始め、空は青く澄んで、それだけで気分はすこぶる軽くなった。

アイスココアを注文すると、昔、ずっと座り続けた同じ席についた。もちろんマスクをつけている。

私はそこでアイスココアを飲みながら向かいにある空白の籐の椅子を眺めた。

もちろん誰も座っていない。誰も座っていない空白の席の存在は私をやがて微笑ませた。

帰ってきたんだな、と懐かしくアイスココアを飲みながら、向かいの空白の席をただいつまでも眺めていた。

あれはいつのことだったのだろう?

私には午後の14時になるといつも近所にあるモスバーガーのこの席に座ってアイスココアを飲むという習慣があった。

雨の日も晴れた日もたとえ台風が来ても、必ずそこでずっとアイスココアを飲み、ぼんやりして2時間休んだら、帰った。

それは10年ほど続いた。

いつも目の前にはこの空白の席があった。

いつか誰かが座ってくれないものかな、と空白を見つめるのが楽しみのひとつだった。

10年間、同じモスバーガーの同じ席に座っていると不思議なことも起こるというものである。

私が注文しようとするとバイトさんは、注文はいいから、と手でいつもの窓際の席を指差した。

そしていつものアイスココアが何も言わないのに運ばれてくる。会計すらその席で済ませる。

なんだかその習慣はバイトの女の子たちの間で伝達されているらしく、新人のバイトでもなぜか同じ繰り返しになるのだった。

そうやって私はいつも窓際のいつもの席で向かいの空白を眺め、ぼんやり考え事したり、頭を休めたりを続けた。

店内の音楽はいつも軽快で、席から見える外の景色も同じだが、よく見ると、天気によって変わり、同じ角度でも、光の具合や建物の色や、時折過ぎる人や車も変わる。

その味わいがとても好きだった。

私はその席にいると不思議と煙草が急に吸いたくなった。

なんだか肺が悪いと極端に重症化が多く、少し前から煙草はやめている。

もうモスバーガーから灰皿の存在も消えた。

煙草の不在。灰皿も不在。マスクの存在。アクリル板の存在。

私の心のなかに今でもいる確かにいる幻の誰か。

いつもその幻の存在に助けられた日々のこと。

(もうその幻が誰なのかはわかっていた)

私は以前、小説を書く時、よく煙草を吸いながら書いたものだ。

煙草が好きというより、吸っている時間、休憩して、また集中すると、リズムが生まれてうまく文章は浮かんだ。

煙草とコーヒー。それはいつもセットだった。コーヒーは濃いものがいい。濃いブラックコーヒー。

そういえば煙草をやめると、最近、道に落ちている吸殻って気になるのだ。

それを一本拾い、また散歩を始めると、また吸殻があるわけだ。それを一本ずつ拾うと、どこかまで拾い続けてしまう。

それでいつも目的地とは違う知らない場所に行ってしまう。

そういえば遠くまで来たなあ。

向かいにはいつもの白い空白の席がある。

空白の席。

私はやがて席を立ち、また外の景色の一部となり、家への道をとぼとぼと帰ることにした。

外に出ると空気が澄んで、少しの風がそよそよと吹き、やはり空も青く、太陽光線はあたたかい。

そのモスバーガーは小さな駅のそばにあり、一度大きな車道を渡らなければいけなくて、横断歩道が遠いのが難点だった。

だから道路を渡るには車列が途切れるのを待つ必要があり、それにいつも時間がかかるのだった。

通勤時間は車列が途切れるのには、少し遠くの信号が赤に変わる必要があり、私はなんとなく今日は少し遠回りしようと歩きはじめた。

下を向くと、煙草の吸い殻が気になるけど、人目があるから、拾えない。

家に帰って洗濯しなきゃな、とか、掃除もしなきゃな、といつものように考えていたので、道行く人は足音だけ。

ふと顔を上げたら、まるでいつもの普通の景色がスローモーションのように姿を変えた。

彼女は長い髪をかきあげ、ヒールを履き、マスクをして、駅へと向かっていた。

なんでもなく私の横を過ぎて、ただそれだけのことだ。

私は、髪がもうボブではないんだな、と思って、すれ違った彼女を振り返った。

身なりも薄いベージュのジャケットとジーンズで、また神戸まで電車に乗るのかな、出勤なのかな、と思った。

やがて彼女は駅に向かう人のなかに紛れて見えなくなり、私も信号のある交差点へと歩を進めた。

再会はそれだけだった。

多分、今はきっと8時半。

確かにもうそれは柔らかな、いい思い出となって私を今でも温め続けてくれている。

ありがとうね。

信号機がやがて青に変わり、朝のその道路を渡った。

5

【ある朝、太陽の光が降ってきた。ある朝、キスの嵐が降ってきた。ある朝、森の香りが降ってきた。ある朝、5時起きの魚たちが降ってきた。ある朝、大統領の間違いが降ってきた。いろんなものが降ってきたけどゴミとも呼べない気持ち。私は空を見上げる。もっと触れ、気持ちの雨】

空さん、のツイートを見ているといつも不思議な気分になる。たぶん、どこかの遠い街から空さんは打っているのだろう。

遠い街。

【私は老婆です。人生の最後のひとときを、ゆっくりと暮らしています。もちろん車椅子なしでは移動できず、食事もひとりではできません。ひとりの少女が胸の中にはいます。こんな老婆の心のなかでもひとりの少女がスキップしています】

【絶交】

と、そよりんからLINEが入ったのはあの大雨の日からしばらくした夜のことだった。

私は部屋のパイプベッドの上で膝を抱えて座り、そのひとことをじっと見つめた。

部屋は小さな音でYOASOBIを流していた。いつもように暖色系の光が辺りを染め、私はいつもの白いホットパンツ姿だった。

【絶交】とのLINEになかなか返事は返せないのだった。確かに同じ人を好きになるということは、それは、そよりんの気持ちも納得できた。

ハジメ君の彼女は私の親友であり、この状況からすると、私の方が、気持ちを封印して、ふたりから遠去かるのが普通で、それに落ち込むのだった。

【マジで絶交?】

【そりゃそうさ。三人で付き合う? ないでしょ?】

【いや、もち、それはないよ。もともとハジメ君もそよりん、好きでしょ? 自分の秘密まで話して、それを最初に理解してくれたのは、そよりんだけだったってことだよね?】

【そだね】

【わかったよ‥‥でも】

【何さ?】

【私とそよりんは仲良しのままでよくない? 私は切り替えて他の人好きになるよ】

【そか‥‥わかった。なら用意して?】

用意? 

しかし本当の私の気持ちはもはや輪郭を持った確かな片想いであり、悪いけど、嘘をついているのは自覚していた。

【どこ行くの?】

【私、今、渋谷】

【マジ? 渋谷にいるの? どして?】

【夜遊び中。ハジメ君はいないから。すぐに京王線できなよ。藤沢から1時間だよ】

私は、絶交する前に、彼女と話がちゃんとしたくもあり、急いで着替えて、京王線で久しぶりに渋谷に向かった。

今、夜の渋谷は人通りは戻っているのだろうか?

渋谷‥‥。

2020年7月初旬。

私はスクランブル交差点を渡り、センター街を歩いた。

もう夜の11時半で、これは、オールだよ、と思って不安だった。

漠然と道行く若いカップルたちを見て、なんだか一癖ありげな男の子たちを避けて、一番端まで歩いた。

マスクをしている人は疎らだった。閑散としていつもの渋谷の景色とは少し違っていた。

スケボーが流行しているのか、男の子たちがやたらと目立った。

スケボーは外でできるし、気分転換になるし、感染はまずしないし、それが流行るのは当然なんだろう。

そよりんとの待ち合わせ場所は東急ハンズの隣の雑居ビルのバーだった。

バー「ウイングロック」の扉を開けると、そよりん、が顔じゅうピアスだらけの中年男と話していて、客はそのふたりだった。マスクはしていた。

内装は地味だけど、奥にピンクのボックス席があるので、バー&スナック といった感じだった。女の子の従業員は客が少ないのか、もういないらしい。

私はカウンター席の端に座り、そよりんに視線を送っら、あ、未成年来たからすぐに出ます、とバーデンに告げた。

バーデンは7月なのに革ジャンパー姿だけど、マスクはしていた。痩せていて、どこか不思議と遠い目をしててやけに白い顔をした人だった。

しかし、そよりんは全然、話をやめず、私は、ひょっとして、このピアスだらけの中年男さんを紹介されるのでは、と嫌な予感がしていた。

「あ、ミズホ? シャウさん、こちら。シャウさん、ミズホ。ヒガシカワミズホ。17歳。中年好き」

私が首を傾げつつ、会釈すると、シャウさんは無視して、バーデンと話しはじめるのだった。

「ジョン? 彼女に何か作ってやって? アルコール抜きで」

「いや、アルコール高めで」

あれ? そよりん? また何か企んでいる? アルコール高めとか。

これ、もしかして、このピアスの人もバーデンの人も、そよりんのボーイフレンドじゃないのかな。きっと。

濃厚接触。。。絶対絶命のシチュか? またか。

ジョンさんは右手をポケットに入れたまま、左手だけで、簡単なカクテルを作って差し出した。私は疑問に思った。

「どうして右手を使わないの?」

「右手はいつもポケットの中だよ。彼女にしか見せらんない。あんまそこ、気にしないで。ミズホ?」

え。もはや呼び捨て。早速、仲間にされてる? これは早く帰らねば、と、思い、そよりんに言ったら、こう返された。

「シャウさんもジョンも紳士だよ。全然、優しくしてくれるから」

って、何をだ? 何を優しくされるのだろうか。会話のことか、わからないので、私は落ち着くために、iPhoneを取り出して、(空)アカウントを確かめた。

ツイートがあった。

【手紙が降り始めた。雨のように手紙が降り始めた。私は人がまばらに行き交うスクランブル交差点で、空からはらはらと降ってくる無数の手紙に気づいた。ニュースにはならなかった。世界中に手紙の雨が降った。手紙は世界の心かもしれない。ふと一通を開ける。涙が流れた】

いつも素敵な(空)アカウント。

世界の心よ、もっと降れ!

ふと会話に耳を澄ますと、ある「名前」が気になった。

(ユメジ)???

ユメジ。。。私は思い出して、会話に耳を澄ませた。(ユメジ)って、あの自殺した若い女優さんの名前だった。あの(クッション)という遺書を残した女優さんのことだ。

このお店の常連だったのか。

また点と点が繋がって、点在する星たちが線になり、新しい星座になるような会話だった。

「ユメジさんって、あの自殺した若い女優さんのことですか?」

シャウさんがドクロの指輪をつけた指でパチンと指を鳴らした。体形は、ガリガリで指の長い人だった。

「そうだよ。でも知らない方がいいんじゃない? 死者はいつまでも死者であり、沈黙してるよ。だから生きてる人が何か言っても、死者は何も反論できない。だから書物もワイドショーも死者を憶測で語っても、真実じゃない。友達だけが知ってる顔もある」

シャウさんはとても知的な喋り方をする。へんな「魂」とかプリントされたTシャツを着ているのに、なんだか不思議な男性だ。

「シャウさんのお友達だったの?」

「まあね。この店にも来てたよ。何年前かなあ。忙しくなる前だから5年くらいは経つかなあ」

ジョンさんも相槌をうつが、どうもそこ話題は触れてはいけないようだ。

当然だ。芸能人の話題をバーデンダーはあまり話してはいけないわけだから。

でもお店の外なら?

「もう閉めます? シャウさん?」

「OK。未成年いるもんな。外行こう。そよりん?」

そよりんはシャウさんの腕に手を回し、私に首を傾げた。

そよりんは花柄のワンピースでオシャレしていた。私はいつものUTとカーキ色のキュロットで悔しかった。

それから私たち4人は不思議な行動を取った。

もう深夜でセンター街にはあまり人はいなかった。

閑散としたセンター街を、自然とシャウさんと、ジョンさんと、そよりんは道端のゴミを拾うのだった。

もちろんそれに私も参加してペットボトルや空き缶、チラシ、などを大きなゴミ袋に詰めた。

いつかニュースで見たことのあるセンター街を掃除する人たちって、彼らや、彼らの仲間たちのことなんだ。きっと。

それはとても素敵な体験だった。
道を掃除すると、私の心までも掃除されるわけだ。そんな秘密に驚いてもいた。

そよりんってほんとわからない女の子だ。何人もボーイフレンドがいて、でもそれはみんないい人達なのだ。何故か。

センター街の端までゴミ掃除が終わると大きなゴミ袋が4つできた。それをシャウさんと、ジョンさんはシャッターの下りた渋谷駅の脇に固めて置いた。

そよりんは、私に手招きしてそっと耳打ちした。

「ミズホ、どっちにする?」

「いやいや、ダメダメ。どっちとかそんなのダメ」

「うまくやるからさ。任せて」

そよりんはふたりを言葉巧みにホテルに誘った。

私は、逃げようと、おしっこしたい、と嘆願すると、それは逆効果で、すぐにホテルに着いてしまった。

ふたりが常連らしいその小さなホテルは道玄坂にあった。

大きなホテルは感染初期の人やアフターケアの人の為に使用されていた。

ホテルの部屋に着くと、ただシャウさんとジョンさんはベッドの上でお酒を飲むだけでいつまでも話し込み、私とそよりんもソファーで話した。

そよりんはノンアルビールなのにそれでも酔っていた。

「絶交は嫌だよ」

「いや、絶交は必然だし。ミズホ? 絶対、ハジのこと思い続けるしさ。私は謎に置いてきぼりな訳さ」

「何故に?」

「さあてね‥‥あのふたりたぶんゲイだよねー」

「マジか?」

「バイセクシャルかも。それとも高校生はガキすぎるのかも。襲ってくれないよなあ。高校生の性欲はどこへやら?」

「それはハジメ君と発散してよ」

「そだねー。ミズホって他に誰かいないの? いいなあ、って思う人‥‥」

実はいるんだけど。その人はインターネットのなかにいて、それはとても複雑である。たぶん女性だし。そよりんには言えないことの存在。

「ならやはり絶交!」

「嫌だよ! そよりん!」

やがて何もなくいつもの朝が来て、私たち4人はそのまま外へ出たら、あまりにも車も人の姿もなかった。

ただ朝焼けが綺麗で、みんなでふらふらと、間隔をあけながら歩いた。

距離。人と人との距離。

見上げると鳥が群れをなして飛んでいく。それがぐるぐると回転しては、どこかへ消えて、また戻ってくるのだった。

私はシャウさんとジョンさんに尋ねてみた。あの、ユメジさんのこと。

あの自殺した若い女優さんのこと。

まあ、もうミズホも仲間だから、と言って、ふたりは話し始めた。

その事実の前に私は言葉をなくしてしまった。

ユメジ‥‥若い時はアイドルだった。しかしある時期から、女優に転向した。それはよくある話だった。

次々とオファーが来た。それで、その役ごとに彼女は風貌や性格までも変えた。

だから髪さえもも役柄が決まるまでは切らなかった。役柄に合わせて体重も変えるバイプレイアーだった。

やがて次々と役をこなしていくうちに本来の自分の素顔がわからなくなっていった。

自分は常に偽物のような気がして、誰かのダミーのような気がして、常に役のなかにしか素顔はなくなった。

彼女は事務所に引退を申し出ていた。

何か女性ってこの時期、精神疾患になる人が多かった。

命を経ってしまう人も多かった。

シャウさんに、言わせるとこうだった。

「女性って瞬間で変わるんだ。瞬間を信じてる。だから足場のなくなったある層の人たちって、グラグラしちゃう。女性にはとくに結婚適齢期とかあるし、妊娠の問題もあるのかもな。社会的に確立されてなから、不安になるんだよ。ちょうどユメジもそんな時だった」

「遺書のクッションって?」

「実は彼女は妊娠できない身体なんだ。だから好きな男がいても、悩んでた」

ジョンさんが言った。

「その欲しかった柔らかな何か、なんだろうね。受け止めてくれるもの」

私はジョンの朝の少しの涙を見逃さなかった。切なくて、走り始めたかった。

その柔らかな何かに向けて。

私は朝焼けの空を眺めて、ぐるぐる舞う鳥の群れを目で追った。あまりにも赤く、雲も赤く、光もまだ生まれたばかりの空だった。

だから遺書が(クッション)だったのだろう。

いや、もっと大きな(ふかふかの受け皿)なのかもしれない。

おそらく。

その言葉はただの偶然の一致だよ。

空さん。

渋谷の朝焼けのどこまでも赤い空。

まだ紫色も残っていて、それも赤さに負けていく。

私はそっと(空)アカウントを思い出すのだった。

【手紙が降り始めた。雨のように手紙が降り始めた。私は人がまばらに行き交うスクランブル交差点で、空からはらはらと降ってくる無数の手紙に気づいた。ニュースにはならなかった。世界中に手紙の雨が降った。手紙は世界の心かもしれない。ふと一通を開ける。涙が流れた】

私がスクランブル交差点の真ん中で急に叫ぶので他の3人が驚いて、どした、酔ったか、と笑った。

「世界の心よ! もっと降れーっ!!!!」

そよりんが続けて叫ぶ。

「私の心よ! もっと降れーっ!!! 絶交だーーーーっ!!!」

「嫌だっーーーー!!!」

シャウさんとジョンさんは微笑んでなんだかふたりとも遠い目をしているだけだ。

どこまでも続く朝焼けはなんて美しいのだろう。どこまでも高く舞う鳥たちの群れはなんて自由なんだろう。

きっと今もアフリカではフラミンゴは飛んでいるんだろう。きっとナイアガラの滝も流れ落ち続けているんだろう。

私はその早朝のスクランブル交差点で高い空を見上げた。

朝だよ、空さん?

朝焼けの空は赤く、その雲の隙間からひとつの星がこぼれ落ちようとしている、と私は思った。

6

2017年。

その日は彼女の誕生日で、私たちはフレンチ・レストランで、誕生日をささやかなランチで祝った。

真っ白い内装で、私たちの為に何人かのウエイターやウエイトレスが順番にフレンチ・コースを運んできては、また皿を戻していった。

店内にはキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」が流されていて、窓の外はとてもよく晴れた冬だった。

とても静かに我々は食事をすすめ、時折、彼女は私の顔を見て、クスクス微笑んだ。

彼女は白いタイトなワンピース姿で、私はいつものベージュのジャケットとアーミーグリーン色のチノパンツだけど、一応靴だけは普段は履かない黒い革靴を選んだ。

「なんだか静かだよ」

「とても静かだよね?」

「ちょっと緊張してるの。実は。フォーマルなお食事とか、子供ができてから、あまりしたことないもんね。いつもは主婦業だし、普通にママはそれどころじゃなくて大変なの。なんだかお姫様みたいになった気分で面白いよ」

「煙草吸いたいな」

「えー。今は我慢」

彼女は食事の途中でナイフを落としてしまい、やってきたウエイターに詫びを言い、新しいフォークとナイフが運ばれてきた。

「ほら、私、下手なの。お肉切るのが。美味しいんだけど、何故に逃げるかな。このお肉さん」

私たち以外は誰もいないけれど、ふたりとも小声で話した。

レストランは幾つも空白の席が並び、その上にペーパーナプキンが整頓されて配置してあった。天井には大きなシーリング・ファンが回転していた。

「いろいろあるんでしょう? セイ君も? これまでも。これからも。いつも2時間しか会えなくてごめんね?」

「うん。今日は?」

「今日は誕生日だから、大丈夫。お友達とお食事って言って、子供たちおばあちゃんに預けてきたから。いつもよりゆっくりね‥‥」

なんとなく彼女の誕生日を祝うのはこれが最後だろうな、と思っていた。

彼女は私の誕生日には小さな子供用の弁当箱でお弁当を作ってくれた。誤魔化すのが大変だったよ、とくすくす笑っていた。

「セイ君って若い頃、いろいろお付き合いもあった?」

「うん。君は?」

「私にもあった。もうハマっちゃったなあ。重症でしたね。人には言えない秘密の存在もあるし。そのためにも働くしね」

食事が終わり、彼女にワインを勧めた。私は運転があるのでジンジャエールを頼んだ。

すぐに彼女は酔い、お酒弱いの、と言ってこんな話を始めた。

「いつかみんなご老人になるでしょう? 私もね。そしておばあちゃんになったら、あの時のあの人は誰だったんだろうって。楽しかったなあって。秘密にね、思う。明るい日差しがあって、ぽかぽかしてる日にね」

「うん」

「また喋らないね、あまり」

「そだね」

「でもいろんな経験の先には私がいるの。きっと。忘れないでね、そこ」

「うん」

「私はそのことをそれをよく考えるの。介護職だからかなあ。きっとご老人ってきっと最後は私に出会うの。そういうものでしょ? 介護って、私がご老人たちの最後に出会う人なんだって、そう思う。おじいちゃんおばあちゃんもいろんな人生だったよね? きっと。いろいろあって、でも人生の最後は私と出会う。ふかふかの存在。そういう存在になりたいっていつも思う。うまくないけど」

「そか」

「ほんと、うん、とか、そうか、とかしか返って来ない。うー。ほんとなんだかセイ君といるとねむーくなる。心地よいんだけど」

キース・ジャレットはずっと流れ、彼女はいつものボブの髪をかきあげ、またワインを飲み続け、頬が染まっていた。

「俺の心のなかにいる誰か、の話って覚えてる?」

「うん。心のなかにいる幻の誰かのお話?」

「そう」

「‥‥その幻っていつも助けてくれたんだよね? いつもセイ君の身代わりになって」

「そうだよ」

彼女はにっこりと微笑んでこう告げるのだった。

「それは奥さんの姿だよ。なんとなくわかるの。きっと奥さんなんだよ。あと子供さん。その姿なんだよ、きっと」

彼女は天井のシーリング・ファンを眺め、あたりをキョロキョロ見渡し、またこっそりと話し始めるのだった。

小鹿みたいな眠いのか目がとろん、としていた。

「ねむーい。ママは朝早くからお弁当だから」

彼女は私をじっと見て、明るく、手を叩いて、さ、セイ君、記念にダンスしよ、と言った。

我々は席を立ち、フロアに歩き、ぎこちなく抱き合い、軽くチークを踊った。

もしかして、と私は心のどこかで思っていた。

始まりはただの偶然。

その偶然の記事は悪いところばかりようで、いいこともたくさん連れてきてくれた存在だったのかもしれなかった。

偶然の一冊も。

やはりそれは受け流すことはできない。何故なら、私はあの少年にどこかで微かな希望を持ったただの小さな作家だった。

作家とはなんだ? 

私のなかで、それは翼をなくした鳥のようなもので、それでも鳥はどこかに向けて飛ばなくてはならない。とても無力な旅を選ぶ。それは無意味だが、やがてそっと着地点はちゃんと見つかる。始まりはただの、0。

そのトラウマは悪いところばかり連鎖反応していたようで、いいこともたくさん連れてきてくれた存在だったのかもしれなかった。

苦しみの底に私はいたようで、それでもなお、ふかふかの何かが生まれることを信じよう。

それはやがてそっと着地点はちゃんと見つかる旅だろう。

席へ戻ると、さて、と彼女はまた手を叩いた。

「さて、行こう」

もう時間だ。

ウエイターやウエイトレスはただ笑顔で私たちを見守り、静かな空っぽの白い部屋で、その誕生日のランチは終わった。

それから彼女は海が見たい、と言って、近くの小さな浜辺にドライブして向かった。

昼の浜辺は誰もいなく、ただ打ち寄せる小さな波の音と冷たい風の音が聞こえた。

彼女はひとしきり、波とキラキラした光と砂とと遊ぶと、セイ君! とベンチに座って眺めていた私に遠くから大きく手を振った。

背後には青い空が広がっていた。

あの静かな誕生日のランチで彼女はが、私がいたこと、忘れないで、そこ、と告げたことは今でも心に浮かぶ。

それでも私は忘れるだろう。

この8時半のことを忘れていくのでしょう。

そう思え、私は今も時折、壁時計を見つめている。

午前8時半。

その時間は今、離れて暮らす、息子たちに、時々、おはよう、とLINEする時間となっている。

なかなか子供たちに会えない日々が続いている。

7

私たちがどうやって星に傷をつけたのか、私たちたちがいかにして光に傷をつけてしまったのか。

深夜の静かな時間の中で、きっとそよりん、は言うだろう。

壊すしかなかったのよ。

ガラスを壊すように、星の瞬きが実は光と影の交互に映る現象のように。

星にどうやって傷をつけたの、と、そよりんは今でも私に問いかけ続けているんだと思う。

その一本のLINE電話が鳴ったのはもう深夜0時を過ぎていた。

私はベッドで横になり、眠ろうとしていたが、あまりにも寝つけなかったので、天井をぼんやりと見ていた。

LINE電話が入ったが、設定が「非通知通話」になっていて、私はそれが不思議で、これは、もしかしてTwitterのフォロワーさんじゃないかな、と思っていた。

よく通話希望というDMは来るが、私はもちろん無視していた。

そういう趣味はなく、Twitterはただのツールだけの使用と決めていたのだった。

しかしLINE電話が入るということは、知り合いの誰かか、もしかして私のLINEアドレスを誰かが教えてしまった可能性もあった。

私は通話に出るか迷いながら、ベッドから立ち上がり、窓辺まで歩き、その壁にもたれて、小さく丸まった。

そよりん、ではないし、きっと渋谷で会ったシャウさんか、ジョンさんか、もしや藤沢北口のバーの人か、クラスメイト? かつての友達や知り合い?

わからないまま、通話ボタンを押した。

耳にiPhone7を当てて、無言のまま黙っていら、相手も無言だった。

無言勝負のようになり、いったい誰だろう、と耳を澄ませるばかりだった。

やがてそれはわかった。

男子がどこかの部屋でマスターベーションをしているのだ。微かな吐息に気づくまで、随分と時間がかかった。

確かにこの時期は通話でそういうことをするのは流行っていることは知っていたけれど、よく私はあまりピンとはこなかった。 

そんな趣味はないんだけど、その吐息は私を秘密へと誘い、訪れる性欲もあり、目を閉じてただ聞いていた。

本当は私もマスターベーションをしたくなっていたけれど、やはりそれを録音でもされたらと思うと怖くて、じっと黙っていた。

やがて男子は果てて、そして通話は切れた。

私はベッドに戻り、やはり秘密の時間を過ごすのだった。

そよりんからも、空さんからも、それからLINEが入ることはなかった。

いつも通り、朝になると藤沢駅前の小さな三角公園でブランコに揺られ、iPhoneの(空)アカウントの更新を待つ日々。

この日も更新はなく、なんだかブルーな気持ちで初夏の青空を見上げ続けた。

そこに、そよりんが突然、歩いて来た。ハジメ君の黒いジャージ姿だった。 

サイズが大きいので、足元を折って履いていた。

そよりんは挨拶もなく、私の隣のブランコに座って、しばらく目の前で遊ぶ子供たちを見ていた。

「ハジ君のバイト先が見つからなくてさ、この時期、バイト見つけるのも大変さ」

「心当たりはないの? クラスとか先生とか‥‥」

「どうかな? 先生に相談しよっかな? それより、ショックでさ‥‥ハジ君、黙って私の携帯見てんの。監視かな?」

「監視? なんか意外‥‥どうして彼女の携帯なんて見たんだろ?」

そよりんは、頬杖をつき、そっと地面を見て、またしばらく黙った。

いつもの元気さがなくなっていて、声のかけようがなかった。

「ミズホと仲直りしたくてさ。絶交なんて私らしくないからさ。それ、謝りたくてさ。こうして来てみたら、ミズホ、いるし」

「気軽にLINEくれたら、私も仲直りするつもりだったよ‥‥」

私がケラケラ笑うと、そよりんはこう言うのだった。

「あーあ」

そよりんはそう言うと急に立ち上がって、私を抱き寄せて、仲直り、と言った。

その言葉と、そよりんの体温があまりに私を光のように射すのだった。

そよりんも、わー、と楽しそうに私をもっと抱き寄せた。

久しぶりの体温。気持ち。距離感。

そんなものが私を射す。

「ミズホ、私たちはこれからだ!」

「これからだ!」

それから、私たちはまたブランコに座り、いつまでも揺れる心と心を確かめあうのだった。

親友との距離が縮まったり、離れたり、その揺れる心が嬉しくて泣いた。そよりんはまたハンカチを差し出すのだった。

私たちはやがて公園のくぼみにできたひとつの水たまりを見つけた。

ふたりで水たまりにそっと裸足で入って微笑んだ。

そんでもって、一気にバシャバシャ。

私達はルールを乱した気になったけれど、そのかわり、洗われた。

そよりんとはそれきり会ってはいない。携帯にかけても番号も変わっていたし、LINEをしても通じなくなった。

私はいつまでも彼の左手の4本しかない指が好きだ。

いつまでも私の秘密だ。

(空)アカウントはそれからしばらくは存在していたが、もう更新されることはなくなってしまった。

私もDMを送らなくなって、空さんからDMが来ることもなくなった。

空さんが彼の母親かもしれないという仮説はやがて、だんだんと姿を変え、むしろ遠くなり、やがて私のなかから消えてしまった。

(空)アカウントの最後に見たツイートは不思議なものだった。

【神様が私の手を取ったように思える。それは老いぼれているけれど優しい手だった。私はその手を掴み温かみを感じた。神様の手は温かかった。でも出産が終わったその時、触れたのは生まれたばかり我が子の小さな体だったのだ】

私は驚き、ヒントのつもりで、私はハジメ君のバイト先の住所を送ったら、(空)アカウントも突然、消えてしまった。

やっぱり空さんは空さん。

どこまでもインターネットのなかの(空)さんでよかったのかもしれなかった。

私は自分の行動を恥じていた。

それがきっかけで私はTwitterを開く意味はあまりなくなり、あのお天気を美しい言葉で綴るツイートは優しい思い出に姿を変えていった。

私は自分の歩幅だけを信じている
だけのただの高校生だ。ただ自分の歩幅だけを信じて、この世界を歩いて行きたいのだ。

親友の彼氏を愛して、ただそれだけで、何も手を触れることはなく、ただそれぞれが星のように点在するこの世界。

人と人とは誰もが、繋がりとは、と感じていた。

やがてまた世界は人と人とが手を繋げるなんでもない日が来ると信じる。

離れた距離。

その世界ももしかしてすべて元どおりではなく、4本しか指のない世界かもしれない。

でもその指が何本であろうがいい。

その未来を信じよう。

私はそう気づいた。

きっとたぶん、この広いインターネットのどこかで(空)さんはいるんだろう。

もしかして、もう名前は変わっているのかもしれない。

でもどこかに(空)さんはいるような気がしてならない。

(空)さん?

さようなら。

私の名前はヒガシカワミズホ。どこにでもいるちっぽけな高校生です。

空を見上げると、どこかで(空)さんに会えるようです。

この大きな空のどこかで。

この地球を覆った空をどこかで。

広いなあ、とちっぽけな私は思い未来へ向かってその一歩を歩み始めた。

私はスフレ・プリンをまた食べたくなったけれど、この場所からもコンビニは遠い。

エンディング

彼の左手の指は生まれつき4本しかなかった。

その彼の左手が私はとても好きだった。

私がその彼に恋人ができたと知った時、とても微笑ましかった。

彼の恋人がその指のことをどう受け入れていたのかわからない。

とても仲の良いカップルだった。

でもある夏の日、突然ふたりはダメになったらしい。

私は今でも彼の4本の指が好きだ。

高校の同窓会があり、その二次会の席でふたりが別れた理由をそっとクラスメイトが教えてくれた。

「結局、体だけが目的だったみたい。あの子泣いてたよ」

「え? とてもじゃないけどそんな風には見えなかったよ。少なくとも高校生の時は」

「さあて」

今でも時々、私はその左手に四本しか指のない彼がバイトする中華料理店に行く。

彼はいつも右手を使って料理を差し出す。

差し出された料理を無言で食べ、彼も私に話しかけることはもうない。

無言で食事して、その小さな中華料理店をあとにするのみだ。

私がその店を出ようとした時、ふと優しい瞳のほっそりとした女性が小さく丸くなって入ってきた。

私は何気なくその横を抜けて、中華料理店の前の並木道を歩こうとして、ふと振り返った。

(おわり)





「もしかして」 藤岡みなみ&モローンズ YouTube より


この小説はKADOKAWAからささやかに発売されている「プラネタリウムに星がない」という文庫本の続編です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?