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38年越しで完成したドキュメンタリー映画『黒澤明のライフワーク』制作迷走記


#天職だと感じた瞬間
 大学受験に失敗して浪人が決まった昭和55年(1980年)の春、フジテレビで放送された『用心棒』と『椿三十郎』を観て黒澤明監督に魅了された。まず驚いたのは画面の上下に黒いマスクをしてシネスコ画面をトリミングせずにテレビ放送させたことだった。
 1971年以来NHKが進めていたアナログハイビジョン開発も当時は4:3だった事を考えると、黒澤監督の映画への拘りが画面の上下を黒いマスクで覆うという発想を生んだから、16:9のワイドテレビへの移行が上手く行って、世界的に普及したと言ってよい。
 そしてアナログハイビジョンテレシネ合成の粗悪さに怒りを覚えたコダックが、フィルムのデジタル化を考案しデジタル合成を始めたのだから、CG合成誕生の遠因に黒澤流ノートリーミングシネスコテレシネがあったと言えるのではないだろうか?

 私は「どうやって黒澤監督は映画監督になったんだ?どうして他の邦画とこんなに違う映画が作れるんだ」と思い始めて、黒澤監督に関する本を探し始めた。
当時はまだ『影武者』が完成する前だったので、佐藤忠雄著『黒澤明の世界』と都築政昭著『黒澤明』上・下巻、植草圭之助『けれど夜明けに』くらいしか出版されていなかった。その4冊を貪るように読んだ時、「映画学校に行っても映画は学べない。映画監督に必要なのは、人間を研究することだ」という言葉を見つけて、大学に進学して法学部で人間の犯罪心理を学んで、8mm映画を作って賞を取る事が黒澤映画への近道だ、と考えるようになった。翌春第1志望の関西学院大学に合格したら、直ぐに文化総部映画研究部に入部した。
 そこは映画を研究するところで作る倶楽部ではない、と言われて半年で辞めてしまったが、2年生になって世代が変わると8mm映画を作りたいという3年生の先輩が声をかけてくれて『きつねがはら』(由谷健一監督)という映画の主役に抜擢された。90分の大作で、半年かかって撮影した時に、映画がワンカットずつ撮影するものと知ったり、繰り返し編集してサイレントで完成し、アフレコする工程を学び、それが如何に楽しいかと実感した。
 その映画を見た映研OBの森正樹さんが、次回作の主演にと声を掛けてくれた。森さんは関学卒業後、大阪と神戸で8mm映画の上映会を広く催す『二十世紀シネマ再開発』を立ち上げていた方だ。映研を辞めて体育会系のボウリング部に所属していた私に当てた『レーンでキッス!』という脚本まで書いて下さった。3年生の時にクランクした私の初監督作品『これでもまだ君は彼女が好きか?』(以下『これ君』)が完成したのは昭和59年(1984年)の2月だった。ぴあフィルムフェスティバルに応募したものの、程なく落選し、「映画の道はあきらめて就活でもするかな」と思い始めたが『これ君』を直してCINEC関西の上映会に出した時には5月になっていた。『これ君』の脚本で応募した『乱』研究生募集も落選の通知が来て、黒澤監督に会う絶好のチャンスも逃していた。
 すっかり落胆していた6月1日、1本の電話が掛かって来た。
「森正樹さんの紹介で電話してます。中山伊知郎と言います。ヘラルドに『乱』のメイキングビデオの企画が通ったので、スタッフを探しています。やりませんか?」
「えー!やります、やります!」
この日、私の人生が変わった。大学の単位はほとんど取れていたので、就活の一環だという事でゼミの先生には休学届を出す必要はないと背中を押された。
 そして、1か月後の6月31日の夜には、姫路城近くの大きなホテルのロビーで黒澤監督に握手で迎えられ、黒澤組の晩餐会でメインスタッフ全員に紹介されるところとなった。
 その夜から、翌昭和60年(1985年)6月1日『乱』公開日まで、夢のような日々が始まった。
 あれから38年が経った。映画『Life work of Akira Kurosawa』日本語字幕解説版が完成した今でも、夢のような日々は続いている。

「黒澤監督 お別れの会」で再会した井関プロデューサーに「あのビデオどうなりましたか?」と聞いて所在を知った時には、プロの編集室はU-maticビデオに代ってβカムが主流となっていた。だから編集して作品化しようと思うと、150時間分のβカム用ビデオテープを買ってコピーし直さないといけないことが分かった。デジタル化してもD1テープにコピーするしかなく、1億円必要だった。そんな費用があるわけもなく、途方に暮れた。
 
 時は流れてDVDの時代がやって来た。黒澤監督作品も全作品が東宝から発売された。そしてその中に『黒澤明・創造の軌跡』として、VHS版としては早々に廃盤となった『メイキングオブ乱』が復刻販売された。
 黒澤監督自身が、自分の映画作りをビデオに記録して後世に伝えたいと考えて、我々の取材を受け入れてくださったと聞いている。このままこの素材を眠らせるわけには行かない。私はサラ金に借金して70時間分のビデオをDVDにした。

 2020年黒澤明監督ご生誕110年の年にコロナが猛威を振るい世界中が自宅に引き籠る事態となった。私は考えた。このままではこの貴重なビデオ記録はゴミになってしまう。何とか1本の映画にして世界の人に観てほしい。まずは短編のドキュメンタリー映画にして国際映画祭にオンラインで出品しよう。そうすれば映画人の目に触れる。運よく賞が取れれば日本でも公開できるかもしれない。私はもう一度70時間を見直して構想を練った。
 
 1998年9月6日に黒澤明監督がお亡くなりになってから24年目にして、1本のドキュメンタリー映画が完成した。10月21日には、映倫「次世代への映画推薦委員会」推薦映画に選ばれた。    
 題して『Life work of Akira Kurosawa』(監督:河村光彦、撮影:谷口裕幸91分)。1984年から1985年に掛けて撮影した『乱』撮影現場記録ビデオ素材を使って、38年越しで製作したこの映画のTVOD配信が2022年11月1日から始まる。
・ Google Play/YouTube(有料配信)・Amazonプライム・ビデオ・U-NEXT
・ J:COMオンデマンド・ひかりTV・VIDEX.jp・MOVIE Full +・ビデオマーケット
・ GYAOストア・RakutenTV/楽天ShowTime・dTV
 AmazonでDVDも販売される予定だ。


『Life work of Akira Kurosawa』40分版の国際映画祭受賞歴 http://tokyowebtv.jp/

東京ショーツ(日本)で                                ドキュメンタリー短編映画賞
T.I.F.A. - ティエテ国際映画賞(ブラジル)で  
                ドキュメンタリー短編映画・アンフマ銀賞
ニューヨーク映画祭(アメリカ)で   ドキュメンタリー短編映画・特別賞
ミラノゴールドアワード(イタリア)で ドキュメンタリー短編映画・特別賞
スタンレーフィルムアワード(イギリス)で
                  最優秀ドキュメンタリー短編映画賞
ブルーズドルフィンズ毎月オンライン国際短編映画祭本選(インド)で  
                            最優秀監督賞
ニューヨークネオリアリズム映画賞(イタリア)で
                                                                         ベストドキュメンタリー映画賞
オニコフィルムアワード(ウクライナ)で         ベストドキュメンタリー映画賞
ロンドン国際月例映画祭(イギリス)で                                             特別名誉賞

ありがとうございます。https://tokyowebtv.jp/