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【二人のアルバム~逢瀬㉖~煩雑憂虞(はんざつゆうぐ)】(フィクション>短編)

§ 1.煩雑憂虞はんざつゆうぐ

彼は血圧の事など、悩んだ事は無かった。
「血圧250で血管が爆発する」
と、如月医師から説明が入った際には、彼自身が彼女の為に爆発した様に感じたものだ。

血圧が人の身体に大きな影響力を持っていた、と言う事実が、まず健康な彼には驚愕の言葉だった。如月医師が話していたような影響力を、血圧が持っていた事自体が驚愕であった。実は身体医学について、知っている様でいて、彼は何も知らなかったのだ、と感じた。

彼女が芯に持っている大きな包容力は、長年の我慢強さと粘り強さで、彼は彼女のそんなところが大好きだった。実際、その分、強気であり、しとやかな表情とは別に、限りある彼女の体調がそんな終わりのない周囲の要求と重荷に影響された様に感じた。そして、そんな要求は全て彼から齎されていたのだ。

まさに今回の病は、彼女にはかなさなどは無かったが、彼に強さを見せる為の無理が重なり、他人から見えない内側で、彼女の身体を確実に壊していた。

彼は彼女を深く愛していたので、生活改善をする事で彼女の生命いのちが長くなるのであれば、身を削ってでも、助けてやりたいと思った。

如月が話している内容を耳では聴いているが、目に入るモノ、聴こえるモノは全て、横で彼女が起こす物音や、彼女の意思に頷き、発生する傾聴の声、納得の声、彼の横で彼女が動く微かな音ばかりだった。
まるで世の中の音と言う音が無くなり、彼女の創造する音しかない様に思えた。

「…さん、聴こえてますか」
気付くと、如月が自分の目を真っ直ぐ、医師の目で見ていた。
「分かりますか。大丈夫かな」
「—あ」
横で話を聴いていた彼女は看護師と共に検査室へ行ってしまっていた。如月は彼の瞳の奥を、医師の目で見ていた。
「大丈夫ですか?」
「—ご、ごめんなさい。妻の事になると私は—どうしよう、と考えて、…ちょっとボウッとしてしまった」
如月はニッコリした。
診察室外に出て、傍の待合用のソファに医師は彼を座らせ、動揺を落ち着かせた。
「大丈夫。彼女は死んだりしません。私が申しあげた事をきちんとしてくだされば、重篤になる事も無くなります。奥様と一緒に私が申しあげたルールを守ってくださいますか」
「あぁ、勿論です」
「良かった。じゃキチンと日報を作っていただけそうだ」
「あぁ、私は、彼女の為なら、何でもします」
「じゃ、安心です」


病院から帰る頃には、彼女の具合は大分よくなっていた。

2人を見送った如月は、彼女に点滴で投入された薬は、処方された薬と同様のモノだ、と言った。翌朝から、如月が処方した薬を呑み始めれば、毎日、継続して降圧するだろう、と微笑んだ。

暫くは忘れやすいので、朝からタスクメニューを作る必要を感じた。
●口に入れるモノの成分表を全てよく見る事
●塩分は絶対に採らない事
●食事のメニューを「成分から考える癖」をつける事
●血圧を一定時間で日に二度、血圧手帳につける事
●薬は降圧剤以外はなるたけ呑まない様にする事
●朝食を必ずストレスフリーで採る事
●夕飯は午後5時か6時に終わらせ、かっきり二時間後に夜の血圧を測定する事
●睡眠を一定時間に設定し、絶対にずらさない事
●朝は7時から日報をつける事
●診察の度、日報ノートを血圧数値を含めてすべて如月と彼女の管理栄養士
に提出する事。
…彼が走り書きで如月に指示された内容をメモ書きすると、彼女は少々戸惑いがちだった。アプリメニューで試行するのも良い事も如月が教えてくれたので、病院の腎臓病科が推奨する大学の栄養講座アプリに登録させ、自分も彼女の名前でログインするようにした。

さらに、彼はビジネスカレンダをよく使用するので、自分のカレンダに如月から指示されたすべてのタスクを事細かに時刻で設定し、彼女が忘れない様に先手で確認するタスクリマインダーが出来る様に設定した。同時に鳳や三条に、彼女の病気都合でドクストが入り、今後はビジネスディナーが出来ない旨伝え、謂わば、彼女の全てが彼には今、新たに対応するプロジェクトとして、俯瞰出来る様に設定した。彼には、この方がやり易かった。

彼女は、事、彼にかかわると自分の事を忘れるので、彼が基本的に管理者となってケアを先手に廻って、リマインドして、完了確認をしてやる事にした。彼の手を煩わせたと彼女は謝ったが、彼は全くそんな事は思っていなかった。病と闘うのは彼女と共に自分である、と宣言して、とにかく彼女を支える、と約束した。

帰宅後、昼寝をして、彼女の上昇傾向の血圧は170まで落ちていた。
フラフラが無くなり、微笑も自然に出て来た。彼はホッとした。

帰宅後に冷蔵庫の中をあけっぴろげ、塩の入った調味料から食べ物まで、すべてゴミ箱に捨てた。
彼女の食べれないモノは彼も食べたくなかった。全く後悔しなかった。

彼女は、目を丸くして、
「…、でも、あなた。あなたも、お食べにならないの?塩麹なんて、あなたの好物じゃありませんか。其処まで付き合わなくて、良くってよ」
と言った。
彼は真摯な表情で冷徹に謂った。
「要らない。棄てよう。あなたが食べて病気になるモノは、私も食べない」
こう言う時の彼は強情だった。彼女は彼がトコトン彼女に付き合う姿を見て、何やら嬉しそうだった。

ウェブで色々な料理サイトを見て、公式の健康料理サイトで病院ケアを受けている患者向けの有償サイトを見つけ、彼女の名で登録した。
ユーザのメニューリストに彼女を追加し、自分も入会した。実際の管理栄養士の質問とか問合せへの対応もあるので、彼女には非常に使いやすかった。彼は、彼女がいずれ、メニューなどで苦労が無くなるのは分かっていた。彼女は、何をさせても馴れるのが早く、真剣に対応する性格だからだ。

人の基礎代謝は大体、3週間で一廻り、と言われている。塩分を除いてすべての成分が手に取る様に合計総数でアプリで表示された。解り易かったので、コレを日報に加えて、彼女の食事日誌につけさせた。

彼は自分の血液検査では、特に血圧に異常はなかったが、彼女の塩排除食は、良い事の方が多かった。また、塩麹以外は彼の好きな和食がほぼ排除されておらず、特に苦とする事が少なかった。塩分ゼロ主義にして良かった事は、彼女と一緒に彼も塩抜きダイエットで痩せた事だった。食べる全てが調味料で太るのか、と思う程、体重は減った。調味料をつけずに、さらに塩分カットをすると、二人共、最初の一か月で5㎏は軽く痩せた。やがて、彼女は疲れ気味のやつれが完全になくなり、肌がきれいになった。

治療のお蔭で若返った彼女は、仕事もしたいと希望したが、また仕事が集中的に増え、同様の事が想定出来る事から、彼女に、暫くは俺とウチにいてくれ、と頼んで自宅ベースを護って貰った。

自宅内で主婦をしながらなら、彼の為だけにコーヒーを出したり、手伝いを出来た。時々ウェブなどを経て会議や報告、電話やちょっとしたメールなどで彼女が対応してくれた。そんなお使いの様な仕事でも、彼が彼女が支えてくれているだけで、彼は嬉しいし、鳳側から問題は一切見えなかった。

むしろ、困ったのは、鳳の方のBPO先で三条が使えるカバーがいなかった事である。

彼女はほぼ管理まで対応可能なPMOプロジェクトオフィス管理も出来るPSOプロジェクトオフィスサポートアシストだったので、周囲から、彼女の様な器用な人材の代わりになる様な人財がいない事だった。

職場を3つ以上絡めて、此処其処を廻って歩いて、手品のように、彼女は全ての作業を旨くほぼ完ぺきにやっていてくれていた。が、同時に、それだけ片付けるにはかなりの苦労があり、このストレスのせいで彼女は高血圧が開始したと言う事だろう。彼は、彼女にまた任せる積りは無かった。彼女は充分仕事をやり切った、と思っていた。

賃貸物件の方は、管理会社のサービス管理料を少し高く払えば、間波磔さんが自ら対応してくれて問題なかったし、時間の空いたバイトも三田君などが間を埋めてくれていた。が、三田君がちょっとしたバイトでオフィスにいてくれても、パークウェイや美容院のプロジェクトの現場PSOが足りていなかった。鳳が夫人のやよひを一時彼女の代わりに遣わせてくれたが、どうもやり辛くて、固辞してしまった。それでも、彼女を代わりに一時的にでも再度、遣う事はもうしなかった。

彼は、彼女は彼のミューズとして傍にいて欲しかったが、同時に、気を遣い過ぎて高血圧で倒れる程のハードワークは、仮にも社長夫人の彼女には、必要ない、と思っていた。彼女は働く事で彼の役に立ちたい、と言う希望だったが、彼は、彼女が其処に居てくれるだけで好い、と説得した。

如月医師は彼の気持ちも十分聴いたうえで、彼女の治療を続けていた。
後継チーム選定時に困り切っていた時に、三条が後輩で無職の 居度端 努いどばた つとむ君を連れて来てくれた。彼は居度端君と話をして、鳳チームのプロジェクトの方に、まず居度端君を追加した。

居度端君は、彼女以上にIT知識に長け、非常に才能あふれるSEだった。彼は、せっかくだからSEとして遣いたかったし、アシストとして使うに忍びなかったが、居度端君は、社会経験に欠ける部分があり、変り者で、三条と働く以外の場所には行きたがらなかったし、三条に現場で頼まれた事以上の事項を対応する気も、興味の範疇もなかった。

だが、一応、三条の用を足して鳳を旨く巻き込んで行ける、特異な才能が有り、鳳の方から、問題は一切、持ち込まれなかった。結果的に、管理会社が賃貸の管理、居度端君がパークウェイを支援し、彼の支援は、変わらず彼女が少しづつ対応した。以前に比べて、責任範囲も事務責任も対応する事が随分減り、彼女には、楽になった。

§ 2.古民家ホテル

数日して、父から、
「幸子も認知センターに入院したし、そろそろ帰宅したい」
と言う話が持ち込まれた。

彼が話をしに父の部屋へ行くと、荷造りが出来ていた。
「世話になったな。もう、此処に着て、数か月経ったから、そろそろ帰ろうと思う。この町立の病院の心療医からも許可が出た」
地域で古民家を廉価で買い取り、古民家ホテルに建替えたい、と言う話があり、この件でどう回答すべきか、と大塚がオーナーである父に助けを求めたらしい。

いずれ主が無くなる屋敷の今後をどう管理するか、彼も、父同様、大塚と相談しなくてはならないと思っていた。ホテル案件の責任者は、屋敷の従業員をホテルの作業員として雇う用意がある、とまで言ってくれたらしい。

彼は、独立直後から暫くの間、仕事が始まって、
「いずれ暫くしたら彼女と屋敷に引っ込んで」、
と何となく思っていたが、現在の仕事が思いの外、調子が良く運んでおり、すべてを管理出来る部分が、彼には楽しかったのと、金を稼ぐ事で彼女にも楽をさせてやりたかったし、此処で落ち着いて仕事が出来る事は、彼には楽しかった。

今後の屋敷の方向性などを探るにあたり、いずれ、大塚とも、父と彼、彼女が加わって4人で話したかった。父も彼に同意した。

(つづく)

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