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『アリスとテレスのまぼろし工場』感想ー岡田麿里200%と新海誠とのシンクロニシティ

『アリスとテレスのまぼろし工場』を傑作と呼ぶのは、少し違うと思う。世界観や仕掛けについて説明不足だし、疑問に思う部分も多い。

けれど自分のなかでは、ここ数年で最もぶっ刺さり、心揺さぶられる作品となった。その魅力を言語化すると鮮度が失われてしまうような気もするが、感想をしたためてみたい。

【ネタバレ前提です】

コロナ禍のメタファーではなく岡田麿里の自叙伝

本作は、コロナ禍の閉塞感を表現した作品に思えて、やはり岡田麿里監督の自叙伝なのだと思う。もちろん、原因不明の事故によって時が止まった見伏市と、コロナ禍を重ねる意図はあるだろう。

しかし物語が進むと、主題は閉じた世界からの脱却でも打開でもなく、「異常な世界でも、自分を変えることはできたんだ」と、閉塞した世界を含めての肯定が描かれているとわかる。

これはやはりコロナ禍よりも、岡田麿里の「どこにも行くことができなかった青春時代」を指していると考えるほうがしっくり来る。

つまり、引きこもっていた時代も、何もなかった秩父も、捉え方ひとつで自分を変えることができたという過去への肯定。これは『あの花』『ここさけ』などを経ることで得た変化であり、MAPPAからの要望通り「岡田麿里200%」の作品になっているのだと思う。

新海誠作品とのシンクロニシティ

まさか岡田麿里作品から「新海っぽさ」を感じるとは思わなかった。

新海作品といえば東京、岡田作品といえば地方(秩父)と、お互いに明確な土地イメージを連想させるアニメ監督(脚本家)だが、『すずめの戸締まり』と『アリスとテレスのまぼろし工場』で「衰退していく土地の物語」というシンクロニシティが起きた。

ただそれ以上に、本作の「新海っぽさ」は「どこにも行けない感覚」に依るところが大きいと思う。
※ただ新海監督は『すずめの戸締まり』で、この「どこにも行けない感覚」からの脱却を果たしている。詳しくは拙稿「『すずめの戸締まり』は世界を肯定するためのセカイ系だった」にて

過去の新海作品の主題は、社会や環境などを起因とした閉塞感に縛られる物語が中心だった。もちろん、「セカイ系」自体が閉塞感から発生したジャンルであり、90年代・00年代の作品の多くに共通する性質ともいえる。

この感覚は岡田麿里作品にも共通する部分ではあったが、作品の発表時期が10年代という時代性もあってか、退廃的な雰囲気に支配されることはなかった。

しかし本作は「あの頃の雰囲気」を真空パックしたかのように、90年代前半の風景を退廃的に描いている。岡田麿里本人も「ここから出れないと感じているという設定については(中略)今回はそこにとことん特化してみよう」と語っている。
引用:パンフレット・48P

個人的には、この美術と空気感だけで飯3杯いける。MAPPAは本当に素晴らしい仕事をしてくれた。

話を戻すと、岡田麿里と新海誠はいわゆる「ロスジェネ世代」にあたり、ほぼ同世代だ。やはり作家性として、閉塞感は原風景のひとつなのだろう。

そして、物語の締め方が「次世代へのバトン」となっている点も、両者の年齢による変化を感じさせる部分だった。

『すずめの戸締まり』のクライマックスでは、鈴芽が「あなたはちゃんと大きくなる」と過去の鈴芽を送り出す。同様に本作のクライマックスでも、睦実が五実に対して「あなたにはいろいろなことが待っているよ」と送り出している。

両作品ともに、取り返しがつかない悲痛な過去を背負っていても、未来を肯定して進んでいくシーンをクライマックスにあてたのは、両監督が近しい感覚を抱いていることの証左ではないだろうか。

ただ、本題は新海作品とのシンクロニシティではない。この共通点と踏まえると、岡田麿里のえげつなさがより際立つのだ。

そもそも本作では、このクライマックスを成立させるために「近親間での三角関係」という悪球を観客へぶん投げてくる。本当に岡田麿里は業が深い(誉めている)。

挙句の果てには、純真な五実に対して「正宗の心は、私がもらう」と言い放つ睦実。この台詞は、群雄割拠のアニメ業界でも岡田麿里にしか書けないだろう。書いても普通、リライトするって。

この両作品のシンクロニシティと作家性の違い、過去作からの変化などを追っていくと、さらに興味深い発見がありそうだ。

あなたは岡田麿里のことが好きですか?

結局、本作の評価は「岡田麿里作品の個性を好きになれるか」に左右されると思う。その生々しさや遠慮のない下ネタは、食べ物に例えるならパクチーのようなものだ。合わない人は、許容できないレベルのマイナスになってしまう。

ただ個人的には、「○○ウォッシュ」で溢れる現代において、岡田麿里の作風には痛快さすら感じ始めている。アニメなんて気持ち悪いくらいでいいんだよ。

正直、構成や脚本も「上手い作品」ではない。「ああすればいい、こうすればいい」と突っ込みたくなる部分は多い。

ただ、時間のズレと閉鎖空間に対して理路整然と説明しようとすれば、円城塔の『ゴジラS.P』のような作品になってしまうだろう。岡田麿里の作品群はSF(サイエンスフィクション)ではなく、SF(少し不思議)なのだ。

とどのつまり、この作品の本質は「感情」にあり、設定はギミックに過ぎない。そうでなければ、自分の恋愛のために、友人も親戚も関係なく潰し合うクライマックスなんて描けないだろう。最高にエゴイスティックだ。

美麗の背景から漂う閉塞感や、気持ち悪さを隠そうとしない生々しいキャラクターたちに、どうしようもなくシンパシーを感じる人々にとって、本作は岡田作品の最高傑作として届く。

こんな結論で落ち着きたいと思う。

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