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踊りは口ほどに物を言う

長らくツイッターの波に揺蕩いながら、どこか表現そのものを信じられなくなってしまったり、何かを書くことが少し怖くなってしまって、キーボードをたたくことは仕事の時ばかりになってしまった。あんまり弱気なことは文字に起こさないようにしようと思っているのだけれど、感受性が裏目に出ることがこの数ヶ月は多くて、エネルギーを何に使うべきかを日々考えさせられている。

この土日は土日で踊りの稽古を4時間ずつぐらい入れて、踊りに耽った。踊りの稽古があると思うと、嬉しさの反面少し緊張感もあって、それは会社での何かの時とは少し異なる種類の緊張だ。今回振り付けをしてくれている会社の後輩は、踊りのキャリアで言えば私よりも土台もしっかりしているし、大学でもずっと舞踊専攻で、会社員になった今も自分で時間を割いて「振付」の勉強をしているのだから感心してしまう。

今回はコンテンポラリーの作品で、二人で試行錯誤しながらある主題について、いくつかのアプローチをとりながら振りを作っている。同じテーマでも、バレエからコンテンポラリーにいった彼女の体のベースと、ヒップホップなどのストリートダンスからジプシーになってインプロに流れ着いた私の体のベースは異なる。「そうくる?」「その動きは私になかったよ〜」と驚きが積み重なるのでその瞬間瞬間が純粋に楽しい。

「私たちの体には踊りの蓄積がありますね」

ふとした瞬間、彼女が言う。そんなこと気づかなかったし、ある種のコンプレックスを抱えた会社員ダンサーにも、それは希望だった。確かに20年踊りをやっているんだもんな。人生の66%くらいは踊りに触れた日日なんだ。踊りの蓄積は、ふとした瞬間に発露する。だから、踊りをしているのかもしれない。だから、インプロが好きなのかもしれないし。

さて、そんなわけで前回は公開稽古があって、振付の進捗を一流の先生たちの前で披露するという機会があった。私たちの他に、振付学校の生徒さんたちが年齢問わずいらっしゃって、10名にも満たないほどなのだけれど、先生たちがとても熱心で、そのスタンスに心が洗われるようだった。

それぞれの持ち時間で現状のパフォーマンスをする。私たちは、作っては壊し作ってはやり直しているので、目に見える進捗はそこまで多くはないけれども、その日のベストは尽くすことができて、他の方々の発表を拝見していた。その中で、ある方がコンセプトや内容を口頭でプレゼンした後に、先生が3回ぐらい繰り返していった言葉があった。

「今お話ししてくださったこと、ちょっとだけ体でやってみてください。どんな動きをするのか。踊ってみせてほしいです。」

物腰柔らかな先生なのだけれど、3回ぐらい繰り返すものだから私はとても気になった。そうしたら、彼は続いて、

「踊ってもらう方が情報量が多いんです。理解しやすくなるし、それによってアドバイスもしやすくなるので、気負わず踊ってみてください。」

ちょっとこれは画期的だった。実に、言葉の通りだった。踊ってもらう方が情報量が多かったのだ。これまで踊りをやってきて、そんなことに気づいたことがなかった。踊りは様々な情報を内包する。言葉にもできないことを。そこもまた、自分が踊りを好きな理由なのかもしれない。

怒れる日も、悲しい日も、嬉しくて飛び上がりそうな日も、恋しい日も。踊りは言葉にもできない感情や想像を、身体で映し出す。だから明日も踊ろう。踊るように生活しよう。今夜はそんなことを思った。おやすみなさい。