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美しくなりたい、在りたい

僕は常々美しくなりたい、在りたいと思っている。(そういう野心がある。)

それは、何か特別な理想を追求したいわけではない。

むしろ普遍的で、しかし時代を越えて倫理的に美しいような存在を目指したい。

内面的にも外面?的にもそう思っているのだが、きっと結局内面の話なんだろうと思う。

というのも、外見的な美しさは時代や文化によって異なるものであり、僕にとって外面は内面の表現型であるからである。

内面的な美しさには時代を越えて通用する倫理的で愛のような美しさがある。

僕にとって外面的な美しさを追求することは社会一般的なカッコよさを目指すとかそういうベクトルではなく、自己の内面を倫理的に高めることと同じである。

例えばファッションは深い倫理性を含んでいると思う。

デザイナーやプロデューサーの表現の中にはさまざまな想いが隠れていて、それを受け取り、日常へと落とし込むことで、単なる物質的な消費以上の倫理的価値が見出せるのではないかと思っている。

共感する詩を朗読するように、共感する想いのこもった服やものを身につけたい。

しかし、常にそうしなければいけないなんてことはない。四六時中そんなことをしていたら逆に窮屈だったりする。(倫理という)美しさのためのファッションと、日常を生きるためのある意味機能的なファッションを無理のないようミックスして過ごしたい。

それに、たまたまそんなわがままなこだわりを叶えられるくらい恵まれた環境にいるだけで、僕だっていつ全てを失ってしまうかわからない。

何かを持っているから価値があるとか、持っていないから価値がないとか、そういうのじゃないと思う。

だから、結局所有による美しさみたいなものはあくまで自分を幸せにするための美しさみたいなもので、自己満足に過ぎないのかもしれないな。

さて、所有できない外面的な美しさといえば、「表情」があるなと思う。

顔がかっこいいとかかわいいとか、そういう価値観もあるが、それはある意味生物的だったり社会的な価値観である気もして、ここで言う美しさとはまた違うかなと思う。

しかし、どんな人であっても、美しい心を持った人の微笑みほど美しいものはないと思う。

眼差しの深さにいつも心を洗われる。

ふと、どんな人でも、この世に微笑みという美しさを残せるんだなぁと思った。そう思えば、たとえ絶望が訪れるかもしれない未来にも、なんだか希望が見えてくる。。気がする。

僕も何を持っていなくとも、何を失っても、微笑みを残せるような生き方をしたい。

…さて、また毎度のこと話がそれてしまった。
何の話をしていたか、このnoteの題名すら覚えていない。最初のテーマと行き着く先が違うのはもうあるあるである。

…なるほど、美しくなりたいという話だった。

そうか、それならある意味「美しくなりたい」というのは「美しい微笑みを残せるようになりたい」とも言い換えられそうだ。

脱線したと思ったら実は同じ道だったみたい?

微笑みに関してはまた別で書こう。


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