生きてみたかった時代
じいちゃんちのタンスに間違えて入ったような、そんな匂いがしてくるローカル線。
ファッションのように、20年の時を経てこの匂いが再流行することはあるのだろうか。
そう思える程、古臭くて馴染みの悪い、私が知らない時代の香りがそこにはあった。
それはしかしまぎれもなく、私が生きてみたかった時代の匂いである。
行きたい場所には携帯一つですぐに行けて、分からないことは少し手を動かして虫眼鏡マークに聞いてみればすぐ自分のモノになってしまう。買いたいものは気が付けば玄関の前に置いてあり、地球の裏側にいる人とも目の前の人とも同じ方法で言葉を交わせてしまう。
興味のほとんどは小さな画面由来で、既に存在していると知っていて、他人からのジャッジ付きの狭苦しいものでもある。そんな時代にドンピシャで21歳を生きている自分が惜しい。
生きてみたかった時代。
そんな匂いに包まれながら浅い眠りにつきたい。寝過ごしそうになり慌てて降りたローカル線の駅にその時代が広がっていたなら、それはどんな夢よりも見たい夢だ。
「知りたいけど知り得ない」に溢れた世界。
手帳片手に大きな地図を広げ、会いたい人や行きたい場所の想像を膨らませる時間。
シャッフル再生で流れてきた音楽を聞く。のではなく、好きだ!と真っ直ぐな愛に溢れたまぁるいレコードを落として音楽を流す夜。
一方的に愛を書き、僅かな切手代も愛おしいと感じる。手紙を出した後に迎える、ポストへの期待を膨らませる似たような朝。
広がる噂もすぐそこまで。近所に流れる悪口さえも丁寧な言葉に纏われた文学にすら思えただろう。
生きてみたかった時代だ。
等身大で見たいものだけ虫眼鏡で見て、不思議に溢れた世界に当たり前の疑問を持って、
「わぁ〜広いと思った世界が、ほんとに広い」
とアホ丸出しで感じてみたかった。
それが、私が生きてみたかった時代。じいちゃんちのタンスにしまわれている、魅力的な時代。
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