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138億年の時間の中で☆隣にいる人が違ってくると             

例えばカフェで休憩しているとき。隣にいる人が困っている様子があって、その人が外国人だったら、私は下手な英語で「need help?」と声かける。
もし高齢者だったら、ゆっくりと少し大きめな声で、「大丈夫ですか?」と言ってみる。

ボランティアさんといる時と私といる時では、おしゃべりする内容や口数が全然違うらしいのが長男です。
私とはほとんどしゃべらないし、必要なことしか言ってくれないのに、ボランティアさんには、昨日見たテレビの話、今日の予定、忘れ物してしまったこと、パパがどうしたとかこうしたとか・・・。事実誤認していることや、勝手な妄想のようなことまで、ひっきりなしにしゃべり続けているって聞いて驚いたことも。

時と場所、一緒にいる人や場合によって、使う言葉やふるまい方が変わってくるは当たり前。
「わたし」は一人だけど、TPOに応じてキャラクターのバリエーション豊かになる。

長男の生活は自宅と学校の往復でした。学校が遠かったので放課後デイサービスの利用も難しい。平日夕方に気軽に遊ぶような友達も、親族も近所にはいません。

学校生活には満足していましたが、出会う人や行く場所、所属する集団が限られていたので、安心ではあったけれど、長男のキャラクターも限定的になっていたのかもしれません。

「今日はあーちへ行く」
毎週金曜の朝は、長男のほうから報告してくれます。私から聞くことは少なくなってきました。金曜の夕方、疲れているはずなのに、「行く」と言うのは彼なりに何らかの意義を感じ取っているのだと思います。

家から一歩出た、学校以外の「外の世界」。人が集まるところというのは目的とか意図とかが設計されているものだけど、あーちは、その目的のために利用者に何かを課すことはしていない(ように見える)ところが特徴かもしれない。

あーちにいる人は友達?先生?どちらでもない?よくわからない関係性。
気まぐれに参加して、気まぐれに休んで。
なんとなく気が合いそうな人を見つけて。
何かに取り組んでもいいし、しゃべっているだけでもいい。みんなの様子をただ見ているだけの時もある。なんとなくお互い影響しあっている。
学校で気の置けない先生をからかったりする時の長男はちょっと悪い子。

優しそうな学生さんといるときの長男は、無力な自分、健気な自分を惜しげもなくさらして、上手に甘えて、ちょっとずるい子。

ピアノを弾く人の隣に座ってたたずんでいる姿は、「ただそばにいますよ」と言っているようで、神聖な存在にすら見えてしまう。

そうかと思えば小さな子どもみたいにクレヨンで殴り描きをしている姿は、障害ある青年そのものだなあ、なんて思う。

隣にいる人によって変わる君。長男君、君は一体いくつの顔があるのかな??

あーちは自由に過ごせる場所だけど、無意識レベルで自分なりに目的を設定しているのかもしれないし、なんの指示も強制もない環境の中でどのようにふるまうかを探っているのかもしれない。ボンヤリしているようだけど、「自由」をどう扱うか。どんなキャラクターを使い分けようか、彼なりに考えているのだと思います。

明確な目的を持たず、自由な時間に来て帰っていく。ただ集まって、笑ったり、怒ったり、泣いたりして・・・。そんな環境と経験があまりにも少なすぎたまま、私は大人になってしまったのかもしれない。同じような人と、同じ時間に、同じ目的で集まってばっかりで。しかも多くの場合、その目的は自分で選んだわけじゃない。貧弱な自分キャラクターしか持ちえなかったことが、日々の根底に潜む「なんとなくしんどいな・・・」に繋がっているのかもしれません。


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