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138億年の時間の中で☆第17話☆「誰かの苦しみへどうやって思いを馳せる?」

「ちいちゃんのかげおくり」を国語の時間に読むのは、たしか小学3年生だったと記憶しています。「ひとつの花」は戦況悪く食料物資が乏しい頃に「ひとつだけちょうだい」が口癖の女の子のお父さんが悲しい結末を迎えるお話。4年生で読んだはず。

 話の内容を一通りクラスで確認した後に感想文を書くまでが授業だったと思います。主人公たちがあまりにかわいそうで、家族もみんなかわいそうで、子どもながらに「なんでこんな悲しい話を学校で読むんだろう?」とぼんやり感じていました。

感想文の結びはいつも「戦争はいけないと思います」。

これを書けば、丸を貰えました。

4年生にもなると、大人の言うことと世界で起っている実際は矛盾している事になんとなく気が付くようになっていたので、戦争は怖い、いやだという気持ちに嘘は全くないものの、それを表現するだけで大人に褒められちゃうのねと、何かがおかしいのだけど、それが何なのか分からない、もやもやした気持ち抱えていました。

中学受験の面接で「最近のニュースで気になっていることはありますか?」と尋ねられました。「湾岸戦争でペルシャ湾の海鳥たちが油まみれで真っ黒になっているのが悲しいです。戦争は人間がしていることなのに。」と答えました。面接官の数人が、うん、うんと頷いていたのを覚えています。後から母から知らされたのですが、その学校からは「ぜひ入学してほしい」とつよいプッシュがあったそうです。

6年生ともなれば誰かの悲劇で自分で得しているという、気持ちの悪い現象にある程度輪郭をもって気が付くことができたので、大人から教えられる戦争についてのアレコレにはとても冷めた気持ちを抱きつつも、ベルリンの壁が崩壊したのが丁度その頃か少し前。ニュース映像から伝わる壁を壊す人々の熱気、情熱のようなものに、「何がおこったのだろう」と強い疑問を抱き、その後の私の興味関心のアンテナが世界の出来事に広がっていくことになりました。

あれから30年経った今、息子、特に次男には、世界で何が起こっているのか少しでも知ってほしいと思い、折に触れ話してみていますが彼はあまり受け付けない様子。

情緒的なアプローチで教えられるのが苦手だった私は、できるだけ客観的事実(と一応されている)を知らせるのですが、彼は悲しく辛い話を十分に拒否します。耳を塞ぐ仕草まで。現実とファンタジーの境界線が未だ曖昧な彼にとって、私よりリアルに人の苦しみや破壊の虚しさを、理屈ではない部分で知っているのかもしれません(もちろん、今起こっていることはファンタジーではなく現実なんだけど、悲しいことに)。

誰かの苦しみにどうやって思いを馳せるのかには正解なんてないけれど、私は私なりの方法と、次男は次男なりの感じ方があるのだなあ、とうんざりするような悲しいニュースを見ながら、ため息が漏れてしまいます。

 

 

 

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