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プリズム(3)悩みをあじわう

悩み、苦悩。
生きていれば誰でも抱えるもの。子どもも大人も男も女も、住む場所、属性、人種を問わず。

夕食の献立や、起床時間など日常の中に点在するものから、何故わたしは生きているのだろう?彼女の苦しみに寄り添うにはどんな声かけをしたらいいのだろう?そんな沼にハマるような重い問いだったりすることもある。

悩むこと。それは行為。動詞なのだ。
悩んでいるのか、悩まされているのか。誰が、何によって、何を求めて?。
悩む事をやめる選択肢はあるはずなのに、大なり小なり、いちいち悩むんだから人間ってややこしい。

夕食なんてあるもので適当にしたっていいのに。
起床時間なんて気にしないで、好きな時間に起きて好きな事をしたっていいはずなのに。
何故生きているのかなんて考えなくても生きていけるし、楽しく過ごせるはずなのに。
彼女の苦しみなんて、彼女にしか解決できないのだから私が知った事ではないはずなのに。

それなのに、わざわざ、なんで?。
選んでいるのか、選ばされているのかわからないけど、わたし達は悩んでいる。

夫と気まずくなりたくないから、自分の気持ちにふたをしてみたり。
子どもの笑顔を見たいから、口うるさく指示をだしてみたり。

後悔しては、また悩みの種を生んでいるんだから、なんて不毛なんだろうって思っちゃう。

でも、本当に不毛なんだろうか?

献立に悩むのは、栄養あるおいしい食事をしたいから
起床時間を守るのは、仕事をスムーズにすすめたいから
生きている意味を見出した方が納得できる選択ができるから
声かけに悩むのは彼女の笑顔をみたいから
気持ちにふたをするのは夫との時間を楽しみたいから
口うるさくしちゃうのは子どもが苦しむのが耐えられないから

そう、わざわざ悩んじゃうのって、「より良く」「より楽しく」「より安心して」過ごしたいからだと思う。
悩むことそのものはとても苦しいし、なんなら悩みたくないから毎日、仕事に家事に育児に介護に精をだしているようなもの。
それでも悩みは尽きないのなら、悩めるだけ悩んだらいいと思う。
堂々と、安心して絶望すればいいと思う。
誰かと共有してもいい。
時と場合を選べば、八つ当たりだって許されるかもしれない。

悩みことさえ、絶望することさえ許されないということは、「より良く生きる」チャンスさえ奪われている事と同じだ。

今のその涙、悲しみ、悔恨、怒り、苦しみ・・・。
歯を食いしばり、時々叫びながら、十分味わうといい。
十分味わわないと、先に光は見えてこない。

それに気が付いた時、悩む自分、嘆く自分を愛おしく感じる自分も見えてくるはずだから。
悩む事が道しるべとなり一歩を踏み出すのだ。

わすれてはいけない。

その悩みを抱えるあなたは、世界で唯一無二の存在だ。
その悩みそのものが、あなたをあなたたらしめるものなのだ。


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