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Short story_背徳の真理

Renard Constrictor_ SERGE LUTENS_ Section d’or_
composed by Christopher Sheldrake, 2015
セルジュ・ルタンス
ルナーコンストリクター

香りから想像される物語
物語から創造される香り
あなたはこの物語からどんな香りを感じますか

**********************
平日は、カラーブロックを並べたように車が隙間なく埋める駐車場。
日曜の朝に車は無く、そこは掠れた白線が延々と伸びたアスファルトの平野。
照り返される朝陽に私は目を細めた。

その瞬間からだったのだと、今では思う。
時空が破れ、突如開いた別世界へ私は取り込まれた。
そう感じたことから始まった。

門から敷地に入れば、目を閉じていてもエントランスまで歩いて行けるほど、毎日同じように通う職場。

それが、今はまるで自分がここでは場違いな存在のように、異様に浮き立っている。
思わず、立ち止まる。

今朝はまだ、私は完全に目醒めていないのだろうか。
頬に手をやり、意識を現実に戻す。

誰にも会わない建物の中、リノリウムの廊下にパンプスは思いの外、大きな音を立てた。
その足音を消そうと、ゆっくりと廊下を進む。
忍び込んでいるような後ろめたさ。

午後の約束の時間までは、まだ十分時間がある。
今週は読みたかった本がいくつか届けられていたので、オフィスでその本を読みながら待ち合わせの時間を待つことにした。

上司である研究部長の君島から神経科学実験に助言を貰える専門家を紹介してもらうことになっていた。
その日程は、多忙な先方の都合に合わせ、幾度かのリスケジュールを経て、今日、日曜日に指定された。
大学病院で脳外科手術の執刀もする多忙な教授が、休日にも拘らずこの研究所まで来て会ってくれるというのだから、得難い機会だ。
私から君島に無理を言って、協力者の召喚を依頼したことでもあり、休日の指定も厭わない。
その教授は、かつてこの研究所にも在籍していたことがあるという神経研究のパイオニア。
私が計画した研究内容に対する彼の意見を聞きたいと思い、またどうしてもアドバイスが欲しい実験がある。
文献を調べていて、かつて君島部長はその人と協働していたことを知った。
脳神経科学者、近藤信二。

古い真鍮の鍵を差し込み、軋む木製のドアを開けオフィスに入る。
部屋の標札だけが新しい 
主任研究員 三橋サナ 
この部屋はかつてこの建物が大学校舎の一部だった頃の教授室の一つだったと聞いた。
震災や空襲で部分的に改修されてきたがレンガ造りの躯体は100年以上前のもので都の文化財にも指定されている。
厚いガラスが嵌められた鉄枠の窓から静かな陽が射す。
先月からはここが私のオフィスだ。
主任に昇進し、この個室が与えられた。

コーヒーメーカーのスイッチを入れ、マグカップを温める。

コーヒーの苦みを含みながら、本を開く。

2時間ほどが過ぎていた。
ヒヨドリの鳴き声が近くで聞こえる。
窓辺に止まったその姿が飛び立つまで、その甲高い声に耳を澄ませていた。
慌ただしい日常を送ってきたオフィスとは、今は別の空間に思える。
ふたたび、現実感が薄れる感覚。
時の流れの感じ方を変えると、それだけで世界は別のものに変わるのかもしれない。

半分まで読み進んだ本のページにしおりを挟み、閉じると、
安息香が香る。
そのしおりは、香料調合を仕事にしている友人からの古い贈り物だった。
これまで、その香りに気が付くことが無かった。

今頃になって、その送り主からの目には見えない気遣いに気付くとは、何と無粋な、と自分に呆れながらも、安息香の香り立つ力に驚く。

香りに特に敏感になる日もあるということだろうか。

ふと、風に当たりたくなり、部屋を出る。
今日の休日出勤の代休をいつ取ろう。
どこかで週末と代休を合わせて数日間旅行にでも行こうか、と考えてみる。
デスク横にある空白の埋め尽くされたカレンダーは現実的に休暇を取れる余裕はないことを示すが、今はエスケープを想像するだけで十分。

廊下に出て、外階段とバルコニーへ続く鉄のドアを開けた。
空を仰いで伸びをしようとした、その時、光を拒絶する影の塊が視界に入る。

それが何であるのか確かめようと少しずつ近づいてみたが、人なのだと分かるまでには時間がかかった。

「どうしましたか?」
踊り場のスペースに人が小さくなって屈み込んでいる。女性だ。
躊躇ったが、そっと肩に手を掛けてみる。
「大丈夫ですか?」
「あ、あの。大丈夫です。すみません。ちょっと外の空気を吸おうとして。ふらついてしまって。」
春の陽射しに似合わない黒いスーツを着たショートボブの女性は、研究所の人間ではないとすぐにわかる。職員なら、一体何に敬意を払う必要があって、ここで黒のスーツを纏うのか。
「具合が悪いようでしたら、良かったら私の部屋で休みませんか。」
「すみません。あの、もう大丈夫です。」
「まだ、顔色がよくないようですよ。休んだほうがいい。」
その女性の顔には血の気が無く、冷や汗で湿った額に、産毛が貼りついている。
「私の部屋はすぐそこですから。立てますか。」
ヒールパンプスの足元にまだ力が入らない小柄な女性の腕を支えながら、オフィスのソファに運んだ。


女性の白いシャツからは香り付き柔軟剤の強い匂いがする。
誰からも嫌われない香り。
意識的に清潔であること、洗濯、を連想させる香り。
誰にも敵意は無く、秩序を守り、集団の和を乱すことも無い、私は無害です。

だから私を攻撃しないで、と泣きながら訴えるような香り。

部屋に運んだ女性をソファーに横たえて、スカートの上からひざ掛けを掛ける。
「どうぞ、ここには、今日は誰も来ませんから楽にしてください。横になっていていいですから。今お水をもってきます。」
「すみません。」
コップにペットボトルから水を注いで手渡す。
「必要なら救急車か、それとも医務官も呼びますが、具合はどうですか?」
「いえ、ただの貧血のようなので少し休めば大丈夫です。ちょっと睡眠不足で。」
「では、ここでゆっくり休んでいって下さい。私はもうこの部屋を出て、夕方まで戻りませんし、オートロックなので他には誰も入ってはきません。回復したら、自由にお帰りになって結構ですから。」
「すみません。」
彼女の首から下げられた入館証を見る。
「業者さん、ですか?」
「はい、建築事務所で内装工事をやらせて頂いています。でも私はまだインターンなのですが。」
そう言えば、別棟が改装中だ。休みの日も什器の搬入作業などはあると聞いた。
「今日はお独りでいらっしゃったのですか?」
「はい。昨晩の作業が長引いて終電がなくなってしまって、今朝も立ち合い確認などがあったのでそのまま泊まり込んでしまって。」

建築事務所の内装設計デザインを手伝っている学生だという。インターンという名の下、無給で正社員と同じ仕事を任されているに等しい。
自立しようと夢に溢れる若者の情熱やエネルギーは、この世界では、結実する前に搾取される。いつしか疲弊し、気が付けば30代を目前に体を壊すか、仕事への愛情を失う若者ばかりが溢れる、それを現実と呼ぶ世界。

けれど、

別の世界を、望んでいる?

今世紀に入ると、歴史的経緯や政治動向もあったとしても、けれどそれらと全く別の要素で、何か禍々しい気団のようなものがこの国の上空を訪れて、そこに止まっている。
美しいものや優れたものを生み出してきた人間のもつ火が消えるように失われた。その代わりに、安ければ何でも売れた。ゴミクズのような商品が量産され、狂ったようにばら撒かれ、売られ買われて、そして捨てられていった。この空気は一体何なのだろう。

光のない闇の中を、進まなければならない若者たちの空虚。
私がかつて見上げてそこへと向かうべき光は、たしかに消えていた。
かつて見た光、その輝きを、私も思い出せなくなる日が来るのだろうか。

時間だ。
私は彼女を休ませているオフィスを後にし、君島部長たちとの待ち合わせ場所である別棟の実験棟に向かった。
オフィスのある古く厳めしい研究棟と、新しいガラス張りの実験棟を繋ぐ渡り廊下は中庭を通る。よく手入れされた花木や庭石が並び、今は躑躅が満開だ。
鮮やかな蘇芳色の景色と品のいい甘い香りが漂う。
足早に過ぎるのが惜しまれ、歩を緩めていると、上司の君塚が横に並んだ。

目を閉じていたとしても、そのシェービングローションの残香で彼が近くにいるのだと分かる。
「部長、おはようございます。」
私を認め軽く頷いた君塚は、私と目を合わせることはなく無言で半歩先を進んでいく。

建物に入る直前、突然立ち止まった君島は私に向かって言った。
「これから近藤に会うが、近藤にはこちらの研究内容の必要最低限の情報以外は話さないようにしてくれ。私は細かいことまで把握していないから、その辺りは君に任せるが。」
「分かりました。近藤さんは、以前こちらの研究所で、長く部長と一緒に仕事をされていたのですよね。」
「ああ、そうだ。」
君塚は面白くなさそうな、言い方をした
「三橋君は、近藤信二に会ったことはあるか?」
「名前は存じ上げていますが、直接会ったことはありません。私が入所した時にはもう近藤さんは退所されて大学に移られていましたから。」
「名前だけか。聞いているのは。」
「この研究所での彼の光子観測技術が神経科学の常識を変える結果に繋がった、と。」
「確かにそうだ。他には。」
私は首を横に振った。
「研究以外で、だ。」

近藤という名前を口にすると、その業績を知るものは彼を讃えるとともに、古くから研究所にいる所員たちの中には眉を顰めるものも多い。
彼がこの研究所を去った理由を、誰も明確には説明できない。

彼に関する昔の話を、事実を並べながら語る所員は、語っているうちに自分が話している内容が論理性を欠くことに気付き、話を最後まで続けずに、止めてしまう。
「とにかく。とにかく、彼のことは複雑なんだよ。」
定年後に嘱託職員となった研究員は、近藤の研究者としての突出した能力を表す逸話の数々を語った後、そう言った。

女性関係の問題を多く引き起こし、それが複雑だったようだ。
そして、込み入った男女関係には論理的な展開など無いから、時系列に話してみても、結論が混迷の中に落ちていく。
単に分かりやすくするために、「女好き、女誑し」という評判も近藤にはあった。

二人の女性を同時に妊娠させ、そのどちらとも一緒になることなく、そのことが公になり社を去った、などと言う噂も、実しやかに囁かれていた。
彼に関する豊かな女性関係の噂は、大方、彼との恋愛がうまくいかなかった女性の恨み節を含みながら拡がっていったものだろう。

噂好きの人間たちの間では、センセーショナルな話ほど好まれる。
研究所という閉鎖的な集団で、情報はその信憑性よりも如何にセンセーショナルな内容であるかどうかで価値が決まった。
人の関心を集める話を語った者は、他人の関心を惹きつけるパワーを得たと錯覚する。
そう思う人間たちの集団の中にあっては、どんな噂にも尾ひれが付いて拡がった。

それに対し、実験室内のメンバーたちは性差すら感じさせない中性的な冷静さで、他人の私生活を話題にすることは殆どない。
いや、興味がないのだ。
意識や心、恋愛感情すらも、神経という動物に備わるシステムと化学物質が織りなす儚い幻影。生じても、必ず消えていくもの。
ここで働く博士たちは、それを知りすぎている。
近藤信二がどんな人物であろうと、彼は神経科学のパイオニアで、現在は大学病院の脳神経科の教授。
それだけだ。

だから、君島部長が私に言ったことが意外だった。
「私は彼を紹介するのは、あまり。どうか、と思う人物なのだが。」

「どういうことですか。たとえ相性が悪かったとしても、私は構いません。個人的な相性は関係ありません。目的が明確に定まっている仕事ですから。」
「分かっている。君はそういう人間だから、近藤を呼んだ。君でなかったら、ちょっと難しい。」
実験棟に入ると、数人の女性スタッフがエントランスのレセプションカウンターで小さな奇声を上げ、はしゃいでいる。
それを横目で睨みながら、君塚は自分のIDカードをラボへと続くエントランスのカードリーダーに翳した。

ラボへのドアが開く。
入れ違いに奥からレセプションスタッフの女性の一人がこちらへと出てきた。その顔は高揚し、赤らんでいた。
「君、ラボには研究員以外は立ち入らないようにしてくれ。ここから先のエリアには白衣とゴーグルが必要だ。」
厳しい声で君島が言った。
「も、申し訳ありません、君塚部長。あの、案内を頼まれまして。すみません。あの、207でお客様が、近藤様がお待ちです。」

君塚は小さく舌打ちし、険しい顔のまま早歩きで奥の207室に向かう。私はその後を、リズムの合わない足音をたてぬようつま先で小走りで追った。

207と書かれた実験室のドアを開けてその姿を認めると、君塚はその男に詰め寄った。
「近藤、エントランスで待っていてくれ、と言ったはずだ。」
「新しい実験室の中が見たかったんだ。繕っていない、そのままの状態をね。」
君塚は慌ててラボベンチの上のノートパソコンのディスプレイのいくつかを閉じた。

「受付で親切に案内してくれた女性に名刺交換を求められたよ。ほら、携帯の番号まで書いてある。」
「ふざけるな。セキュリティ上、ここには外部の人間が単独では立ち入れないことは君も分かっているだろう。」
「じゃあ俺を警備員に突き出すか?産業スパイの嫌疑が掛けられれば、此処に呼んだお前にも同じ嫌疑がかかるだろう。」
君塚は彼に掴みかかりそうな勢いで詰め寄ったが、視界の端に私を認め、ため息とともにそれ以上の動きを抑えた。
「こちらは、メールで伝えた三橋君だ。主任研究員で今回の件のプロジェクトリーダーだ。」
「初めまして。近藤です。よろしく。」

驚いたのは、君塚と同期とは思えないその容姿だけではなかった。
中年以上のさまざまな男性が多くを占められているこの業界の中でも、近藤は見たことがない種類の男性だった。
「三橋サナです。お忙しい中ご足労いただきどうもありがとうございます。」
近藤は外国での生活経験からか、会釈ではなく手を伸ばし握手を求める。
私の手は数秒間、彼の掌中にあった。

耳にした近藤についての様々な噂が、イメージの中に現れる。
女性に対し異性であることのアピールを躊躇わない人物のようだ。

実験室に、いやこの研究所の雰囲気にはそぐわない白金のチェーンが揺れる開いたシャツの胸元。下品には見えないのは、紺色の仕立ての良いトラウザーズと、引き締った筋肉があるためか。
光を湛えた瞳で、躊躇なく私の目の奥を覗く。
巷の成人男性からは絶えたとも思える、自然な笑顔を浮かべている。

男女問わず、彼のこの笑顔には魅了されてしまうだろう。
口さがない人たちの噂話しが、あながち出鱈目でもなかったのでは、と思えてくる。
社会的規範を逸脱しないための自制心から、彼の色気を警戒こそしても、嫌悪することは難しい。

しかしここは、洗練された社交場ではなく、試薬の匂いが染み付いた実験室。
泥臭い私の戦場であって、職位や異性を意識することのない神聖な場所だ。
実験に個人的な感情は余計だ。

近藤の存在が実験室の中にいることの不自然さは否めないが、彼のもたらす情報や考えこそがプロジェクトの成功への鍵を握る可能性もある。

私は君塚と近藤をラボ内のミーティングルームに案内した。
「じゃあさっそく、研究のご相談というのを聞かせてもらいましょうか。」
一通りスライドを使った説明を終えると、近藤は実験フローを実験室で実際に見せてほしいと言う。
「三橋君、あとは大丈夫か。私は、これから別の用事が入っているので行かなければならない。」
君塚は時計を気にする。
「はい大丈夫です、部長。あとは実験室のほうで細かい説明をさせて頂きます。」
「では、あとは任せるよ。」
君塚は、部屋に残る近藤と私に睨むような視線を向けながら部屋を出ていった。

実験室の照明を点ける。
近藤を実験ベンチへと案内し、プロジェクトで使う予定の機材などを説明する。
近藤は口をはさむことなく私の話を聞き、時々、目が合えば相槌を返してくる。
説明が一通り済んだ。
「こちらの状況はこの通りなのですが、何か近藤先生からお気づきの点やご質問はございませんか。」
「うん、そうだね。君は何年目なの、ここ。」
「あ、はい。10月で14年目になります。」
「ふうん。」
彼のからだは私よりもはるかに大きい。
だから彼が近づくと私は視線を合わせるために首を上げなければならない。
なぜ、今、彼はこんなに私と距離を詰めているのだろう。
この場所は決して狭くはないのに。
「ところで、話を聞いていると、手順というよりもコンセプト自体に多少無理があるように思うけれど。これはあなた、三橋さんが全て考えたの?」
直球だ。でも、その直感は間違っていない。
「いえ、大元のアイディアは君塚部長のもので、それを実験に落とすところを私が担当しています。」
「君塚らしいな。変わらないな。彼はまだ神経を物質としか捉えていない。」
「と仰いますと。」
私は近藤の意見を聞きたかった。


君塚部長が近藤という人物に好感を持っていなかったとしても、彼を選んで私に紹介したからには、彼の研究者としての知識や実験者としての腕や観察力は信用しているはずだ。

「神経の電気化学は物質の存在ではなくてダイナミクスを追う必要がある。今分かっている以上の事を追跡しようと思うのなら、従来の分析法を使っていては、君たちが見たいものは見えないだろう。」
彼の言う通りだ。
研究者の大半がそのブレークスルーを見付けられずに、皆、同じ地点で藻掻いていた。
私と目線を合わせるためにラボベンチに腰かけていた近藤の、長い袖が徐々に私の横のベンチの縁に伸びてくる。

何としても彼の考えを聞きたいし、技術を知りたい。
しかし、何故か彼の身体は窓沿いに立つ私を覆う。

「このプロジェクトの先行きには興味が持てるよ。」
「ありがとうございます。ご興味を持っていただければ嬉しいです。」
「いや、僕が興味を持っているのは、このプロジェクトを君がこれからどう動かしていくのか、ということだよ。」
「は」
彼の手はいつの間にか私の腰に添えられていた。あまりに悪びれることなく自然だったので、それに抵抗するきっかけを逸し動けない。

我に返り、こんなところを誰かに見られたらあらぬ誤解を受ける、ということに思い至る。
体を離し近藤の腕から逃れた。
自然さを装いミーティングルームへと戻ると、近藤は椅子に腰を降ろした。

「電極を使った実験のほうを優先するように提案したい。代謝物解析はその後だね。」
暫く、詳細を説明した後、彼は私に笑顔を向けた。
「そうですか。貴重なご意見を有難うございます。」
メモを取り気にしない振りをしながら、私は、親密すぎる彼の態度に混乱していた。
それでも実験について彼の提案をさらに聞く必要がある。

彼は、私の手にあるメモ用紙とペンを渡すように要求した。
手渡すと彼はそのままそれをテーブルに置いた。
「え。」
彼は両腕を私に向け微笑む。
「おいで。」
「は?」
あまりに自然で、強引さを感じさせないので、その目的が全く分からない。
恋人の相手でもしているように、私を捉えようとする。
彼のペースに呑まれ掛かっている。
私は今、怒るべきなのだろうか?

何を、怒ればいいのだろうか。

「え、あの、困ります。あの、その電極の実験の事を教えていただきたくて。だから、あの、そういうのは、困ります。」
「僕が嫌いか。」
近藤の悲しそうな表情を見せられ、不意に傷付いたのはこちらの方だった。
彼を嫌ってはいない。
研究に対する彼の彗眼には殆ど感動すらしていた。

出来れば否定したい、しかし彼への個人的好意は否定できない。
「ここは。あの、職場ですから。困ります。」

「僕を嫌いでないのなら、おいで。」
いや、駄目に決まっている。

そもそも、男だの女だの恋だの愛だのというのは、映画や小説の中のものでなければ、
他人のことには興味はなく、まして自分事なら面倒でしかない。
この年齢までいろんなことを経験してきた。もはや自分の恋愛など、その先の成り行きが全部透けているようで、私にはもう面白くもなんともない。
そんなことは重々思い知っていること。
しかし、力が抜け、彼の強い腕で引き寄せられて体重を預けてしまう。
その瞬間、身体に感じるその体温に反して、冷たい香りに包まれた。

花の香りがする。
何処から香るのだろう。こんな香りを放つ花がどこに咲いているのか。

とても冷たい。

彼は腕の中の私の耳元に言った。
「君は君塚とは違う。その気になりさえすれば、もっと物事の本質に迫れる。」
何の話をされても、この状況では頭の中は真っ白だ。
精一杯の体力と精神力を振り絞って、その腕の中から逃れた。

漸く口を出た言葉に自分でも驚く。
「誰にでもこういうことをするの?」

近藤は驚いたような顔をして私を見つめていた。

「僕は、君が好きで、今君も、僕に同じ感情を向けている。」
「待ってください。ほんのさっき、会ったばかりです。なぜ、私のことを、そんなに分かったように言うの。」
「間違っているかな。」
静かにそう尋ねた近藤を前に、私は微かに震えてさえいた。
「いいえ。」もはや、研究協力者との会話ではない。
「なぜ自分の中の感情を殺すんだ。感情の力を知っている。その君の感情はこっちに向けられている。」
「どうしていいのか、私は。分からない。」
こうすればいい、といって近藤は私を再び抱きしめて、強引に唇を重ねた。

何という事になってしまったのだろう。
君塚が去り際に私と近藤に向けた厳しい表情が思い浮かび、
君塚を裏切った自責から辞職も頭をよぎる。

私はこの状況を、自分の意思で止められない。私は近藤を離すことができなかった。

また、冷たい花の香りがする。

これは、背徳なのか、正しいのか、自分を支配するものがもはや何であるのか、分からない。
現実感が薄れる。
開いたままの瞳で、実験室ではない光景を見ていた。
懐かしさかを感じているが、過去には経験の無い光景の中にいた。
会ったことのないはずの人。
そこにいるはずの無い、心を奪う存在。
白い地平が切り取る空の青。
伸びる影。
いつのことだろう。ここは何処だろう。
知らないのに、懐かしい。
何処で花が咲いているのか。
花の香りだけが漂う。

「感情を否定して殺しているうちは、神経の本質は見えないよ。人にとって愛情以上の強いイメージはない。動物の本質が愛だということは客観的にも自明だろう。それが進化圧にもなってきた。」

近藤の言葉が暗示のように滲み込む。
応えようとする理性が効かない。
「僕たちは、真実を知ることが出来る。こうやって。愛情を交わせる今この瞬間が真実だ。だから知ることができるんだ。君は神経や脳の本質を知りたいのだろう?」

「なぜ私の感情が自分に向けられていると、そう思うの?」
「それが捉えられないのなら、脳神経なんかいくら研究しても無駄だよ。本質には辿り着けない。」

近藤の瞳には影が全く無い。濃い睫毛に縁取られているその目は子供のものと全く同じだ。
美しいと思った。
しかし、そこにあるのは優しさだとか、頼もしさだとかといったような男性に対する好意となる要素ではない。

会ったばかりの彼のことを私は何も知らない。
この場では、彼についてのどんな判断もできないし、どんな判断も正しくないはずだ。
しかし、彼の言う通り私の中から突然に湧き出した愛情は彼へと向かっており、そしてそれは、彼からの流れと繋がっていたことを確かに感じた。
感情が個人単体のものではなく、繋がるものであること。
愛情が他の感覚と結びつく力であると言うこと。
そこに進化の潮流と脳神経の本質が。

目を閉じ、彼の胸に頭を預け、香りを深く吸う。
社会人、大人、職業人、そういった世の中の歯車として評価され生かされている人間にとっての深い背徳の中に、研究という手段で必死に解き明かそうとしている真実があることを知った。


陽が沈み薄暗くなったオフィスに戻ると、休ませていた彼女はもういなかった。
短く礼が書かれた名刺がテーブルに残されている。
空気に微かに芳香柔軟剤の香りが残る。

この世界で生きていく場所を得るために、心も身体も自分ではない何かに呑まれてしまった彼女の、青白い顔。もう、その顔を思い出せない。

他人の中に自分への愛情を生ませ、抑圧されたそれを引き出すことを躊躇わない近藤。
彼の振る舞いは組織化した社会を不安定にし、秩序を脅かす。
彼の所業を多くが知るところになれば、激しく糾弾されるだろう。
周囲の嫉妬を生み、怒りを呼ぶ。

しかし、彼が人という動物の実体を誰よりも知っている。動物の進化と愛の起源を理解している。
人を生かすことも殺すこともする力を、彼はおそらく操ることができる。

それは神か悪魔のみが持つ力。

私が触れたのは、毒だったのか、薬だったのか。
破れてしまった世界から、私はもとの世界に戻ることができるのだろうか。
この世の仕組み本質を理解したいという、この好奇心を抑えることができるのだろうか。

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