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Short story_夏の月

夏の月 (Sunyata perfume) composed by Tokyo Sanjin

子供の残酷さと大人のずる賢さ

両方併せ持つ子供と大人の端境に立っていた刹那。
恋を恋とも知らず、扱い方も知らぬまま激しい花火を手にしたかのように、破裂する火の粉を輝き散らし、そして跡形もなく燃え尽きた。
行き場を失った心だけが、純粋なままに冷えて、結晶を作る。
それはいつまでも水晶のように透明なまま鋭く煌めく。

歳を重ね、物を識った顔をして、火の扱いにも長けた風な大人の振る舞い。
そして自分の恋も誰かの恋も、掴まえては消費する、いくらでも取り換え可能な消耗品になった。そんな事にはほとほと厭きて、いつしか恋など忘れてしまった。

ある夏、見上げた夜空にあの時とそっくりな月を見た。
いつの間にか見失っていた結晶が、不意にこの手から零れ落ちた。

18歳からの4半世紀を東京で暮らしてみれば、仕事も恋愛も趣味も結婚も離婚も、一通りを修了。この世の仕組み、知りたかったことを知るにつれ、それなりに満足した豊かな人生を過ごせるようになる。そうしてみると街は、旧バージョンの自分の場所になる。自ずと離れる時が来た。そんな時に、期を合わせたかのように新しい職場から声がかかり新たな土地への転職が決まった。

内に棲む獣を封印し、物解りのよい何処ででも好まれる人物を、
まるで別人のように少し背後から眺めている気分だった。
タフな交渉を成功裏に終え、オフィスの長い廊下を歩く自分の足音だけが響く。
自分の口から発せられる言葉が力を持っていることに気が付くと、多くを語らなくなる。
相手の中に沸き上がるイメージを読み取れるようになると、自分のイメージをそれに合わせ調整する癖がつく。

私は面倒を起こしません。
貴方にとって、都合の良い好ましい人物です。
私がここにいると、こんなことあんなこと、あなたにとっていいことがあります。
中性的な容姿や態度は、余計な情を生みません。

言葉では語らずに、相手の中にそのイメージを沸かせる。

長い修行を経て身に付いた職業技術。
私が求めるのは、ビジビリティでも、無駄に多い報酬でもなく、
自分の望むことを望んだとおりに進められる力。
それは周囲から仕事を「一任する」と言ってもらえる信頼に他ならない。
結局、私が何より手に入れたかったのはこの「自由」だったのだと今では分かる。
未熟な若い頃には決して手に入らなかったもの。
誰にも侵されることのない自分だけの領域の完全なる守備。
要らぬ波風は立たぬ方がよろしい。
ようやく手に入れたこの物理的にも精神的にも自由な生活を恒常的に保つために。

東京から2時間半。
海岸に近いこの街にたまたま見つけた空き物件。
高齢になった家主が手放した敷地の広い一軒家。
海を見下ろすこの土地は海抜が高く、どちらかと言えば山林に近い環境だ。
この敷地まではアクセスが容易でないから滅多に人は来ない。
静かに暮らしたかった私にはぴったりだった。
新しい職場までも車で30分以内と好都合だった。

ただ、築年数を重ねてきたこの家は、古くなった水まわりを改築する必要に迫られていた。
東京の不動産管理会社から工務店の紹介を受け、下見に来る施工業者を待つ。
作業のために業者の人がひと月以上も家に立ち入ることに気が滅入っていた。改装工事などできるだけ速やかに簡単に片付いてほしい。

一方で、自分が気に入るようにバス、トイレ、洗面所環境を作り変えることができると言う点では、いい機会でもある。
もともと陽が入らず、暗い水回り。もし好きなように作り替えられるのならば空気が淀まぬよう、水とともに風も光も通るようにしたい。
洗面所の外に広がる裏庭の芝生には、所々に水鉢が並ぶ。それを臨める窓も欲しい。
雨の多いこの場所では水草のある水面を打つ波紋が美しい。

全ては工事の腕と、施工者が希望を理解してくれるかどうかの感覚次第だ。
私一人と犬一匹の静かな城の中に、2度以上立ち入った人間はこれまで誰もいない。
このひと夏を要するであろう工事が、この静かな生活をどれ程波立たせるのだろうか。
不動産屋との電話を切って、大きく息を吐いた。

砂利の坂を音を立てて上り敷地に入ってきたのは脚立を載せた軽トラックだった。
玄関のベルが鳴るまでに、慌てて椅子の背にかけたシャツを羽織る。
三和土に横たわる犬を踏まぬよう避け、ドアを開ける。
分厚いカタログを何冊も抱えた、グレーの作業服姿に、夏の濃い陰が落ちる。

「こんにちは、武蔵工務店の者です。」
逆光がその顔も表情も隠した。
「今日は工事の下見にお伺いしました。」
作業服の下の白いTシャツだけが目に映る。人工香料と微かなニコチンが臭う。
茶色く染めた髪や僅かに伸ばした髭。
作業服を脱げばサーファーの出で立ち。
それでも躰を使って仕事をしている人の姿勢には、どこかごまかしがない。厚みのある肩。

リビングに案内する。
眩しすぎる外から室内に入ると視界は一瞬暗転する。
玄関先の蚊取り線香の残り香。
白いカーテンに落ちた庭木の影。
墨色に揺れる。
グラスに注いだ冷たい麦茶。
結露の滴が書類を濡らさぬように、そっとグラスをずらす真っ黒に日焼けした手。
外見ほどには、彼の仕事は若気でも乱暴でもなかった。
建築の素人である私にもわかりやすく専門的な工程を説明する。
私が挙げる希望を聞き取り、メモを取る。
参考までに出したジェフェリー・バワの庭園を集めた記事の写真を手に取り見つめている。
水回りの石の使い方。屋外の庭との風景の繋がり。土地ならではの植物。
私が希望する内容で発注が可能かどうか。
実際の工事は別の下請け業者が入るのか。
「自分がやります。」
「全部ですか?」
「ええ。私がすべて一人でやります。ですから、工事中にも、細かい希望は言って頂いて結構ですよ。」
後日見積もりを送って頂けるとのことで、打ち合わせは終了した。
見送りに出る。

玄関先に寝ている犬を撫でていく彼の背の高い後ろ姿。
雲が陽光を遮りすべてが影に覆われた瞬間、裏山の笹が一斉にざわついた。

数日後、郵便受けに届いた封筒。
見積もり書にはいくつかの空欄が残る。
連絡がほしいとメモされた付箋氏が貼られたそこには、バスルームの床に使う石材の種類によってオプション価格となるとある。

滅多に発信しない電話をバッグの奥から探し出してダイヤルし、その声を聞く。
「今日これからあと一軒回るんですが、その後で石材のカタログを持っていきますがいいですか。夕方になるかもしれませんが。」
「ご足労おかけします。お願いします。」

陽が暮れようとしている。これが最期の際とばかりに蝉が鳴く。
玄関の戸を開け放ち、蚊取り線香に火を着ける。
庭に水を撒いていると、敷地に車が現れた。
蛇口の水を止め、腕カバーの付いた農作業グローブを外す。
「ああ、そのままでいいですよ。カタログ持て来たんで、よかったら中に置いておきますね。」
「ありがとうございます。」
玄関先に入っていく彼を追った。
日除け帽を取って、汗に乱れた髪を搔き上げる。
玄関で寝ていた犬のシロは、彼にじゃれついている。彼は犬を撫で回し、歓び興奮した犬は彼から離れない。
私はその横で、カタログのページをぱらぱらと指で捲りながら、その光景を見つめていた。
桃色の夕日に全て染まっていた。

具体的なイメージを抱いて、それを強く望むと、本当に実現してしまう。
願えば叶う、などというそんなフレーズを聞くからには、私に限らず、きっと少なからずそういう種類の人間がいるのだろう。
その種の人にとって、それは真。
一方、それを経験しない人にとっては永遠の幻想に違いない。
誰にも等しく起こりうる幸運、などというものはこの世においてありえない。

もともと自分が臨んだことではありながら、偶然の重なりや理由なき運としか言いようのない流れによって、その通りに物事が動くと、歓びよりも、驚き躊躇う。
だから、想像したままを、安易に強く願わぬよう、意識的に抑制している。
自分が望んで起きたことの責任は、自分が負うことになるから。
願えば叶うなどと無責任なことを口にする人は、このような経験はないのだろうか。
しかし、妄想でしかない甘い想像は、次第に私の制御の届かないところでひとりでに膨らみ、怪物へと変わっていく。

40日間を予定する工期が始まった。
底のない青空を手に触れられそうな積乱雲が覆おうとしている。
向こうの雲の下には濃い灰色の闇が落ちている。遠くの雷鳴。
どんなに暑くても作業の間には彼は作業服を脱がない。
作業が終わると作業服の下のTシャツを新しいものに着替えて、一日の作業内容の説明のために、リビングに居る私に声を掛ける。
基礎の木が朽ちて痛んでいた水回りの基礎部分を修理し、バスルームの古くなったタイルは水はけのよい多孔質スレートに敷き替える。ユニット洗面台はシンプルな鏡と陶器のシンクへと変える。
新しく明かり取りと窓を付ける。
デザインから言っても、通気性の面からも、よりシンプルな構造のほうがいいに決まっている。元の構造に如何に多くの部材が使われていたかが明らかになる。
彼の柔軟で回転の速い仕事の仕方を信頼できた。

工事のある日には、正午になると昼休みを取るために彼はいつも車で外に出ていった。
ある日、昼に台風を前に激しい風雨と雷に見舞われる。
傘も差さずに土砂降りの外に出ようとする彼を引き止めた。
「お昼ご飯は、いつもどうしてるんですか。」
「海沿いのコンビニで調達しています。その日の波を見たいから、海辺で食べてます。」
「サーフィンするんですね。」
「朝と夕方、波次第ですけれどね。」
「毎日、コンビニでは厭きるでしょう。こんな天気ですし、良かったらこの家で如何ですか。大したものはないですけれど。」
それから、私の手がキッチンに向いた日には、時々昼食を共にした。
オクラと湯葉のお浸し、薬味を盛った冷やしうどん。
水菜ときゅうりの豚しゃぶサラダ。
サバの塩焼きとご飯とみそ汁。
彼はいつも何でもよく食べた。
今年の台風の大きさ、この街にこれまでにあったひどい台風被害。強風に煽られ飛んで行ったサボテンの行方。それから、彼がジェフェリー・バワの建築について自分でも少し調べたのだと言う話。
「土地に溶け込んだ暮らしができればいいと思う。」
「ここもそういう家にしましょう。」
二人が笑えば、それはまるでずっと、ここで営まれてきた光景のようでもある。心地よさだけが流れる時間だったから。
職人と依頼者として、良好な関係でいられることは何よりだった。それだけだ。
それ以上の勘違いや想像をしてはいけない。
そうやって、いつも背負いきれぬものを背負うことになってきたのだから。

ある日の食後、庭での一服の間、彼の話す声や笑い声は携帯端末に対してのものかと思っていた。しかし、窓の外で、彼は首に巻いていたタオルをシロと引き合い遊んでいた。

喉が締め付けられる。
誰がこの状況の終わりを望むことができるだろう?
あれほど早く水回りの改装工事が終わるのを願っていたのに、今は終わりが来ることを苦く思う。ツクツクホウシの声を聞く。
工事は終盤。もう間もなく終わるだろう。

手持無沙汰だった日、無駄に水鉢の中の花を終えた水連を植え替えようと思いつき、裏庭の重い鉢や専用土を運んでいた。
不意に濡れた土に足を取られ、足首をまともに挫いてしまった。
土と鉢を地面に落とし、声も出せず、痛みにただ蹲る。
庭にいたシロが寄ってきて、私の背中や顔に強引に鼻を押し付け、何事か、楽しいことなのか、心配すべき事なのか、と顔を伏せている私を詮索する。
「どうしましたか。」
屋外で木材に丸鋸を当てていた彼が気付き、傍に来る。
痛みに声が出せない。出せたとして、この状況を口で説明するのは無理。
彼の手が背中に回ったかと思うと、身体が空中に掬い上げられた。
抱えられたまま工事中の洗面所の縁に運ばれた。
ひどく汗をかいた野良仕事着の恥ずかしさと混乱と痛みに目を開けられない。このまま意識を失くしたい。消えてしまいたい。
「脚ですか。」
私が足首を押さえていた手を掴んでそっと外し、ソックスを脱がそうとするので、意識を戻して慌ててそれを止めた。
「大丈夫です。打ったりとかは、してはいないので。挫いただけです。すぐ痛みも無くなります。」
背中に冷たい汗が流れる。
「病院へは」
「全然そういうのではないです。いつものことです、ちょっと挫いただけです。すみません。」
いつの間にか私の踝を包んでいたいのは自分の手ではなく、彼の手だった。
「ああ、ありがとうございます。もう、だいぶ良くなりました。」
「本当に大丈夫ですか。」
「はい、もう歩けます。おかげさまで。」
「すみません。昔、海でライフガードのバイトとかしていたので、つい余計なことをしました。でも重いもの運ぶときは言ってください。手伝いますよ。」

全てを自分の力で行うのは、自分の思う事を自由にやるための最低条件だから、
そんなことで誰かの助けを求めたりはしないのよ。
シロがいてくれてよかった。シロがその時、ふたりの間に入って遊びを要求してこなかったら、彼は仕事に戻れず、私は泣き出してしまったかもしれない。

膨らむばかりの怪物から目を向けたい。
いけない。駄目だよ。
彼に恋心を向けてはいけない。
あの街で散々知った面倒。この街ではもうごめんだ。
だから私はフェミニンにもマスキュリンにもならない。
この孤立した城の中、一人の自由な生活を失いたくない。
不安や嫉妬、時計や端末を見てはやきもきして、連絡の無いみじめな憂鬱を味わう。
そんなことにはもううんざり。
彼をそんな気持ちの対象にしたくはない。

彼の素直な気安さは職人として依頼者との間の仕事を円滑にするためのそれだ。
私自身が仕事において常にそうしているのと同じ。
気難しさより、気安さを。
彼のこれまで、これから。彼の生活、知る由もない。
其処に私は存在しない。
私の事情、ここでの暮らし。
別のもの。

大人の分別というものは、そう、こんなにも邪悪だ。
望んでいることを、まるで望んでいないことのように、苦い味を付け自分を騙す。
そんなことをいつの間にか完璧にマスターしていた。
無邪気に彼への好意を全身で表現し、甘え、喜んでいるシロをうらやましいと思う。
なぜそうできないのだろう。

いけない。
想ったことを強く望み過ぎると、現実の歯車が動き出してしまう。
ただそれは、いつの間にか罹患している感冒のようで、
気が付いた時にはもう遅いのだ。
もっと、彼にここにいてほしい。
今が、ずっと続いてほしい。
私のために差し出された手の、その体温に触れていたい。
ねえ、あなたは何が幸せ?何が楽しい?何をしてきたの?何をしているの?どんなことが好き?
全て打ち消すように、まな板の上で青菜を延々と刻んだ。

ある夕方、シロを連れて海辺に散歩に出かけた。
シロはもう後ろ足が老いて、駆け回ることはないが、急にリードを引っ張るので引きずられるように付いていく。
サーフボードを片付けている数人の男性の中に彼を見た。
「おお、シロ。散歩ですか。」
「ええ。」
日に焼けた彼の背中をどこまでも追おうとするシロ。
「じゃあな、シロまた明日行くからな。」
私は会釈し、シロを引きずるように家の方へと進路を変えた。
振り返った時、彼がこちらを向いたので、もう一度頭を下げた。

次の日、昼に家でそうめんを啜りながら、海の話をする彼。その足元に横になって鼾をかくシロ。私は薬味を大量に刻み続けていた。彼は面白がってそれを大量に自分の器に取る。

盆休みを含む一週間、工事は夏休みで休工になった。
久しぶりに家で独りになり気遣いなく穏やかな時間が流れる。
その心が、工事が早く再開すればいいと思う気持ちを、嘲笑っている。

盆休み中、地元で花火大会があった。花火見物には最適な高台の我が家の庭で、職場の同僚と花火を見た後、海辺の繁華街に近い居酒屋に行き皆で食事をした。見慣れない私の浴衣姿に興奮気味の男性の同僚は、私を家までの送ると言って聞かない。私はそれを固辞し、空車のタクシーを止めた。ドアが閉まるタクシーに彼も無理に乗り込んできた。皆からの冷やかしの声。
「どうせ方向が同じだからさ。送って行って家で降ろしたら、もちろん自分はこの車でそのまま帰るよ。」
タクシーは車道にはみ出した人波を避けながらゆっくりと走りだす。ヘッドライトが照らし出した外の光景の中、こちらを見て立ち止まる彼を一瞬見た気がした。陽気になって私にしきりに何かを話しかけている酔った同僚。
私はひとり、全ての力が抜け体温が失われていく。
これでいいのだと、私はシートに凭れた。

休みが明け、この街の海に来る観光客も減った。
地元の人は、秋に向け海にはクラゲが出ると言う。
クラゲが押し寄せた海でも、彼はサーフィンをするのだろうか。
種ばかりになった朝顔の、名残りの一輪も萎んだ。
工事は順調に進み、洗面所に広げられていたブルーシート、工具や建材は片付いた。
ベニヤを裁断する音も、タッカーの音もしなくなった。
事実上、改装工事は終了だ。

洗面台に並べた陶器のボウルには使い慣れたものと合わせて新しいタオルを加えた。
何も置かない棚には、小さな水鉢にノウゼンカズラの花を生けてみる。
ひと通り作業は終わった。1週間の間、試しに使ってみることになった。
微調整の希望があれば、それを終えてから検収を迎える。
「ではまた、来週来ます。」

新しくなった浴室でシャワーを浴び、広くなった洗面台の鏡の前に、チェアを置いた。
底に腰をかけて足の爪にブラシをかける。
それができる程に明るい外光が入るようになった。
足先に念入りにスキンオイルを塗る。
暮らしやすい、という心地の良さ。
仕事と生活をギリギリの時間の中で駆動するのに精一杯で躰のメンテナンスなど頭になかった若い頃に比べ、多くの歳を経ても現在の手入れをした肌の方がはるかに滑らかだ。
あの頃、あの街では若いエネルギーに任せて乱暴な生活をしていた。
同じことを今はもうできない。
それなりの努力を惜しまなければ、肌と髪は年齢も性別も感じさせないようになる。
透明に近づけば、人は私に決まったイメージを抱かなくなる。白紙になる。
次に彼が訪ねてくる日も、私は白紙でいたい。
それは彼が工事の検収のために来る、最後の日。

見慣れたトラックが坂を上ってくると、シロは弱った腰を起こして尾を振り、出迎える。
新しい材の木の香りがする洗面所に、彼と二人並んで立つ。
「前よりはるかに使いやすくなりました。結構です。」
私の頭の後ろから伸びた太い腕が、窓の開閉の状態を確かめる。
窓の位置が少し高かったかな。
踏み台あるから、平気だと思う。
換気扇、夏場は出来れば日中も回しておいた方がいいかも。
そうね。そうする。
ぽつりぽつりと、思いつく限りを並べて、改装箇所の造作を検査する。
それは私たち二人の注意深さや真剣さでもあったし、事業の終わりを前にした最後の態度だった。
「今後、何かお気づきのことがあればいつでもご連絡下さい。」
「長い間、工事お疲れさまでした。お世話になりました。」
「では、こちらにサインをお願いします。」
リビングのテーブルに書類を並べる。
あ、ペンを取ってきます。
これ使って下さい。彼が作業服の胸ポケットからボールペンを取り出す。
ありがとうございます。お借りします。
2枚のカーボン紙に用心深く日付を記入しサインをする。
「はい、こちら控えですのでご確認ください。」
「確かに。どうもありがとうございました。」
「どうもお疲れ様でした。お世話になりました。」
玄関を開けると、最後のツクツクホウシ、林の奥からはヒグラシの声。

あ、月。
山の端から昇る白い月。
次に上る満月はもう中秋の月になるだろう。
「今日は満月ですね。」
少し冷めた風を肌に感じた。
じゃれつく犬をあやしながら、バンへと向かう。その背中に向かって、声をかける。
あ、あの。

「お借りしたペンをお返ししてなかった。ちょっと待っていて下さい。」
彼も胸のポケットに手をやって、そして言った。
「ああ、ペン、僕も忘れていました。」

もう声を大きくしなければ聞こえないほど離れたところから彼が言った。
「いや、ペンもういいですよ。」
その言葉に私は不意に深く傷付いた。
それを彼は見逃さなかったからなのかもしれない。精一杯の慰めを付け足し叫んだ。
「またの時で。いつか。」

乗り込んだ軽トラの窓が開いた。
「明日からは別の現場です。ここにもう来れないのは、つらい。」
私は手を振った。
彼も手を振り、去って行った。

十分だった。
同じ気持ちを抱けた仲だったなら。
もう一つの別の道に手を伸ばしたならば、ありきたりの展開、飽き飽きする男女物語があったのかもしれない。

そうならなくてよかった。

彼が去った後、シロと一緒に庭にいた。
緑ばかりに見えた草むらに金色の月見草の花が無数に咲いている。
白かった月は群青のグラデーションの中、銀色に輝く。
消費しなかった恋だけが、濃度を高めて結晶へと変化する。
それは胸を刺す痛みによって知る。

小学校からの帰り道、もう少し話をしていたくて、家へは少しだけ遠回りの道を行った。
ただ、一緒にいることが楽しかった。それをどうすることも知らなかった頃の記憶。
制服の夏服の袖を捲って、ホースの水をかけ合ってふざけ合った校舎の影。眩しすぎた午後の校庭。
皆で屋上に上がってビールを飲んでいた時、新宿副都心に反射していた夕日の茜色。

今年も夏は過ぎ去る。
二人の時間は終了。
奇跡のような時を、もう一度、もう一度だけと後ねだりすることはできない。
それは再現できない込み入った奇跡なのだから。

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