17歳麻雀代走屋の世界へ①

「おい、すぱろー。久しぶりじゃねえか。こんなとこで何をやっとるんだ?」

低く重たい声に振り向くとそこには車の窓を開けて話しかけてきた〇〇組のTさん。

「お久しぶりです。日向ぼっこしてただけです。」

と強がってみせた。

当時親への反抗心から若い頃に経験するヤンチャなことは一通りしてきた。その時知り合ったTさん。しかし久しぶりに再会した場所は私が公園のベンチで生活し、雑草を食べてる時だった。

異変に気づいたTさんは真っ黒のセルシオに異臭のする私を乗せ事務所へ連れて帰った。シャワーを浴びさせてもらい弟分の方が買ってきてくれたマクドナルドを食べさせてくれた。まともな食事が久しぶりな私にはとてもしみた。

私の荒れた生活を話し家に帰る気がないことを話すとTさんはおれのとこで働くか?と誘ってくれた。迷いはなかった。2つ返事だった。いくつかの仕事の中から麻雀打ちを選んだ

12歳で麻雀を覚え友達には負けることのなかった私は少しだけ自信があった。

翌日手始めにハコテンで約20000円払うレートのサンマの店に連れて行かれた。その日はTさんが精算の面倒を見てくれるということで私にとってはノーレートの麻雀だった。人生初めての外での麻雀がいきなりマンション麻雀だった。そこで私の麻雀力を試すとのこと。

お客さんは6人いたが3人は指がない人達だった。私は見たことのない世界観に震えを必死に抑えていた。先ヅモ、舌打ち、暴言、肘をついて打つなどの近年のフリー雀荘ではダメとされるマナー違反も当たり前のように行われていた。

殺伐とした雰囲気にのまれた私は何もいい所がなくあっさり15万程負けた。Tさんには

「お前大したことないな。」

と言われ違う仕事部門に回されてしまった。この一言が本当に悔しかった。

Tさんお抱え人の代走屋Yさんの仕事を見せてもらったがある時はハコテン30万のレートでお金持ち相手に快勝し給料として帯をもらってることもあった。

当時サンマの戦術本などは全くなかった時代。でもなんとか強くなるしかなかった。ヒントを見つけるため常にYさんの麻雀も観ていた。しかしYさんは麻雀を教えてくれなかった。自分の稼ぎを将来減らすことになるかもしれない行動は今思えば当然だったのかもしれない。そこから手探りで徹底的にサンマの研究をし、毎日麻雀のことを考えていた。自動卓なのでイカサマは使えない。自力をつけるしかなかった。そうするとある日1つの違和感に気づく。

普段と変わらず何気ないオーラスだった。Yさんはオーラスハネマンツモかマンガン直撃条件でトップになる。しかし手牌はメンタンドラの36p待ち。手牌は最終系でこれ以上形変化は見込めず渋々リーチを打った(オープンリーチ無し赤2枚ずつのルール)。

するとトップ目のお医者さんが1発目に危険牌の6pを切ってきてロン。8000のデバサイを取りYさんのトップで半荘が終わった。その時お医者さんが手牌を開けて

「親満テンパっちまったからなー。しゃーねーよなー」

と言った。

その時私の中でこれだ!と思った。その日もYさんは快勝した。私は帰ってからあの局面を思い返していた。その日は17歳の小さな脳みそがフル回転して色々な発見に一睡も出来なかった。

つづく

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