【創作】あわい

気づいたら病院のベッドで寝ていた。あとから思ったことだけれども、麻酔か何かで体も頭もいうことがきかなかったからかもしれない。気持ちは妙に澄んでいた。どうしてここに寝ているのか。しばし、わからなかった。今思出せるのは、午後10時にかかってきた携帯電話の向こうで、美和がずっと私を罵倒し続けていた、ということだけだった。

電話を切ればいいのに切れなかった。美和に未練があったからかもしれない。付き合い始めて、一週間。同棲を始めた。そこで美和の卒業制作を手伝った。手伝ったというよりも、私が美和の指示を聞いてひたすら手を動かし、美和が起きる頃に、出来上がったところまでを見せ、OKをもらうという日々が続いた。寝不足のまま、私は美和の卒業制作のプレゼンに、なぜか先輩枠で登壇し、アドバイザーとしての存在感を示した。美和の卒業制作には、かなりの評価が集まった。

卒業制作が終わると、同棲は解消された。同棲している間セックスは2回あった。全て美和が上で動いて私が果てただけだ。そして、私は実家に戻り、電話で寝る前に言葉を交わす程度の関係に移行した。付き合っていたはずだった。しかし、徐々に、寝る前の電話に美和が出ることが億劫になっていった。ショートメールで、「電話してもいい?」と送っても、「朝方ボディーボードに行くから早く寝る」だから電話には出れない、と言う返信をもらうことは多くなった。立川に住んでいる美和がボディーボードに行くには、誰かが朝方に車で迎えに来なくてはならない。そもそもボディーボードに必要な装備を美和の部屋で見たことはない。ただ、疑わなかった。

ボディーボードとは何かを研究ばかりしてきた私は知らなかった。ボディーボードとは、夜から朝までかかる大変なものなんだなと思った。自分には縁がないが美和が楽しんでいるなら、それもいいんじゃないかと思った。けれど、結局、美和は昔の彼氏とよりをもどしたからえ、と告げ、私と別れた。ボディーボードが本当だったのかわからない。そもそも医学部に入ったけれども、合わなかったのでやめて、東京に来て、美大受験を準備していたが、駒沢大学の日本文学科に入った、という経歴もよくわからない。どれが本当なのか、嘘なのか、判別がつかない。幼稚園児の時に、子役や子どものモデルをやっていたともいっていた。それも本当なのか今となっては定かではない。本当なのは、美和が大学院の卒業制作で、9割方私が書いたものを提出し、そして私が作ったものをプレゼンし、良い評価で卒業したということだ。いや別れて以来、行方はしれぬから、卒業できたのかどうかわからない。

私は、この私がした悲恋物語を、色々な人にした。わかってもらえなかった。美和は、どこまでも八方美人で、人に悪い印象を与えていなかった。本当のストーリーだと、みんなは思っていなかった。私は、コワモテでみんなから遠ざけられていたイ・ソンジェに話した。ソンジェは、深く頷き、「あの人はおそらく悪い人だ」とキッパリ言った。ソンジェのことを私は今でも立派な男だと思っている。一度会いたい。

私はそれで死のうと思った。それで部屋から飛んだのだ。奇跡的に助かった。単純に屋根がすぐ下にあり、音はうるさかったけれども打ち身で済んだに過ぎなかった。麻酔が切れて、親や弟から電話がかかってきた。私は泣いた。もう30を過ぎていた。大泣きした。泣くとスッキリするということを知った。また、憎悪と殺意を口にした。悪意を口にすると、これほどまでに解放されるということも知った。私が生きているということは、死ぬのはあいつだ、と考えていた。

ボディーボードに一緒に行っているのは元彼かときいた。元彼だと言った。そこから、堰を切ったように、私に対するダメ出しの言葉が美和から溢れ出してきた。曰く、食器を紙で拭くこと、トイレを立ってすること、性器が小さいこと、映画に関する感性が低いこと、感動しないこと、段取りが悪いこと、世間知らずなこと、気が利かないこと、お金を奢らないこと、ケチくさいところ、実家がボロいところ、実家が貧しいこと。

毎日電話は午後10時から午前2〜4時まで続いた。私は市場のバイトがあったから、起きるのは朝4時40分だった。寝不足のまま、バイトへ出かけた。疲れていたのかもしれない。浮気されて振られて、挙げ句の果てには罵倒されて、卒業制作と卒業論文を代行して、眠かったんだろう。寝たかった。それだけ。そして、飛んだ。飛んだら、電話は来なくなった。私ももう、話すことはなかった。生きて戻ってこれても、尊厳は残っていなかった。

のちの美和はユナイテッドアローズのデザイナーと結婚したと聞いた。本人がそんなことを言っていた。アレだけの虚言とモラハラを与えていながら、テヘペロという雰囲気で言われた。刺す、そうも思った。けれども、それではつまらない。私は仕方なく、中断していた学業を再開した。都心の部屋を解約し、美和と一緒に働いていた会社も辞めた。そして、東京23区のハジのハジの6畳1間で生活をはじめた。尊厳も何もなかった。バイトに変わった市場と、再開した学業を進めた。幽霊が出る部屋だったが、あまり気にならなかった。

国際学会で発表することになって、英語が上手く喋る訳でもない。けれども学位を取るにはやらなければならないということでエントリーした。わかっていなかった。同時通訳がいるからということで、当日、概要を日本語で持っていったら、「もっと早く提出するんだったんだよ!」と怒られた。尊厳が失われていたので、あんまり気にならなかった。用意していった原稿を4分の1読み上げたところで、時間が切れた。あとはただ、パワポの文章を読んで終わった。会場からは失笑が漏れた。ユーロプをヨーロッパと発音して、笑われた。学会の発表など、みんな忘れる。どんなに失敗したとしても、忘れるのだ。儀式だ、と思った。学位は取れた。製本が提出までに間に合いそうもなく、提出当日昼に届くはずが、渋滞に巻き込まれて、ギリギリに着いた。出した。まあ学位は取れた。国会図書館に入った。

振られ、死に損ない、罵倒され続け尊厳を失い、国際学会でヘマしても、博士だ。日本の学会大丈夫か。アカデミアとか、偉そうに言ってんじゃねーぞ。いつからそんな呼び方に変わったか。まあ、でも、そんなもんだ。こんなダメなやつの書いたものが日本が続く限りは国会図書館で検索できるようになっている。美和への復讐の半分は完了した。もう半分、それは私が幸せになることだ。それを、どう行うか。それだけで、今私は生きている。

(了)

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