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トイ・ストーリーとしては合格でトイ・ストーリー4としては不合格――『トイ・ストーリー4』感想

こんにちは、ダマシと申します。

先月トイ・ストーリー5などピクサーでいくつかの新作が制作されていると発表があり、世間を騒がせました。

この記事を見るとどうやら制作陣は観客のため驚くような新たなストーリーの制作を企画しているようですが、前作にあたる『トイ・ストーリー4』のことを考えると手放しに喜べないのが私の現状です。

というわけで今回はその衝撃的なラストから物議を醸したある意味問題作、『トイ・ストーリー4』についてレビューしていきたいと思います。

ところどころ口悪くなりますので、もしそうした意見が苦手な人がいましたらブラウザバックをお願いします。

またネタバレを含みますのでそうした部分を見たくない方もブラウザバックをお願いします。

感想

私個人の本作の感想としましては、タイトルの通り「トイ・ストーリーとしては合格だけど、トイ・ストーリー4としては不合格」というものでした。

実は私この映画2回見ていまして、1回目は劇場で、2回目は金曜ロードショーで視聴しました。

で、不思議かもしれませんが、1回目と2回目それぞれ見たときの意見がかなり異なるんですね。
具体的に言うと1回目は「なるほど、いいね!」って感じだったのに、2回目では「うーん、やっぱりこのラストはあんまり…」ってなりました。

このように評価が変わった理由としては、2回目の際はネットを一緒に見ていたので批判的な意見が目に入りそれに引っ張られたということもあるでしょう。

しかし一番大きいと思っているのが、私がシリーズ最高傑作だと考えている『トイ・ストーリー3』を見てからどれほど間が空いたかという点だと思っています。

私が『4』を劇場で見たのが2019年であり、『3』の公開年は2010年なので約9年も間が空いています。
一方金曜ロードショーでは『3』は『4』の先週に放送されたので、『3』を見てから『4』を見るまで1週間しか間が空いていません。

この映画の最大の問題点は綺麗にまとまった『3』の最後を台無しにするような演出の数々であり、劇場で見た際には『3』の知識がうろ覚えになっていたのに対し2回目は内容を覚えている上で見たため、このような感想になったのだと思います。

なのでこの作品は単体としてみるか前作からの続きとして見るかで大きく見方が異なります。

今回はその2つの観点双方について述べていきたいと思います。

単体としてみる場合

まず作品単体としては、普通に見れて面白い作品だと思います。

ストーリーの根幹は他のシリーズと同じ「持ち主のところへ戻るために冒険を繰り広げる」というものですし、ここが崩れていないので面白さは変わりません。

新キャラについても目立ちたがり屋だがトラウマ持ちで、そこと向き合うドラマもあるデューク・カブーン、皮肉屋ポジションのダッキー&バニー、そしてアンディにとってのウッディポジションであるフォーキーなどみんなキャラクターが立っていたので好きになれました。

フォーキー。吹き替えを務めたのは俳優の竜星涼さん。

そしてかつての仲間であるボー・ピープが登場したのは大きなポイントです。
1ではウッディとのラブロマンスや咄嗟のリーダーシップなど見所が多くしたたかなお姉さんという感じの好きなキャラだったので、再登場は普通に嬉しかったです。

まあ1のボーとキャラがわりと変わってたんですけどね、初見さん。

1の頃感じた魅力がオミットされていたオレの心はッ!

そして何よりこの作品の魅力は、「最後まで一緒にいられなかったオモチャを持つ子供たちの救済」になっている点でしょう。

『3』はあくまで「大人になるまで捨てられることなく、ある種大事にされてきたオモチャ」の物語でした。

ですが皆さんも経験があるかと思いますが子供の頃に買ったオモチャが全て残っていることは稀で、例えばどこかでなくしてしまったり、あるいは遊んでないから売られてしまったり…
そんな風に不本意な別れ方をしてしまったことも少なくないかと思います。

しかし本作はその「道半ばで別れたオモチャ」たちにフォーカスを当てることで、「別れたオモチャもどこかで元気に暮らしている」と罪悪感を払拭してくれるようなイメージを抱かせてくれます。

『3』で光が当たりきらなかった子供にもこうした形で希望を見せてくれるのは、やはり夢と希望を与えてくれるディズニーとピクサーの優しさを感じさせますね。

というように、この後解説するような欠点がないわけではないですが、『3』とストーリーとキャラクターを切り離して見れば本質的な面白さやメッセージは変わらない良い作品である、ということは皆さんに知っておいてもらいたいです。

『3』の続編として見る場合

絶対『3』アンチが作っただろこの作品。

この映画を一言で言うならば「『3』という美味しいハンバーガーを食べてたらいきなりそれを取り上げられて不味いニシンのパイを口にぶち込まれた」というような感じです。
あたしこのパイ嫌いなのよね。

とにかくこの映画はシリーズファンである私からすると『3』の今までのシリーズの積み重ねが生みだしたディズニー史に残ると言っても過言ではないあの感動のラストシーンに唾を吐き、
「今まで俺が見てきた子供とオモチャの友情を描いたトイ・ストーリーは何だったんだよ!」
と嘆きたくなるくらい見ていてキツかったです。

先ほど私はこの映画は「最後まで一緒にいられなかったオモチャを持つ子供たちの救済」となっていると語りました。

でもそれはずっと大切にされてきたウッディたちとは真逆のテーマなんですよ。
個人的にこの映画の最悪な点は、この真逆のテーマを展開するために多くのキャラクターが作品の犠牲になっているという点なんです。

例えば前作までと性格が変わっていたり、精神的に辛い目に遭っていたりと、他の作品でも行ったら炎上するような目にあっています。

もしこれがウッディたちではないまた別のオモチャの物語として描かれていたならば、ここまで賛否両論にはなっていなかったと思います。
むしろそうだったら私はこの作品のことをかなり高評価していたとも思います。

今までのナンバリングの続きとして制作されてしまったことが、この映画最大の悲劇だと言えるでしょう。

冗談抜きにこの作品は今までのトイ・ストーリーを見てきて楽しんできた人には観てほしくないし、個人的には『4』を名乗ってほしくないです。

ここからは大きく4つのポイントに分けて酷かった点について語っていきます。

俺の知ってるボニーはそんな子じゃねぇ!

最初の怒りポイントはボニーの改変です。

諸星すみれさんのかわいい声が聞ける吹替版がおすすめだぞ!

おもちゃを大事にする優しい心の持ち主として『3』で登場し、それまでの持ち主であったアンディからウッディやバズなど多数のオモチャを譲り受ける感動のラストシーンを作り上げた彼女でしたが、今では検索エンジンのサジェストに「嫌い」と出るほどヘイトを買っています。

こうなってしまった理由はただ一つ。今作のボニーはウッディを大切にしていないからです。

『3』ではウッディを他のオモチャとお茶会のままごとに参加させたり段ボールで作ったロケットに乗せて遊ぶなど楽しそうな様子が描かれていましたが、本作の冒頭では保安官バッジだけを取ってウッディ自体では遊ばず(しかもここ最近ずっと)、クローゼットでほこりを被らせるなどぞんざいに扱っています。

なんでこんなシーンにOK出したの?ウッディと楽しそうに遊んでたボニーはどこに行ったんだよ。

そもそもウッディはアンディにとって大学で一人暮らしをする際に持っていこうとしたほど大切な相棒だったんですよ。
そんな大切なものをこれから遊んでくれるボニーのために手渡したのに、結局ぞんざいに扱われるとかキレられても文句は言えないです。

こんな扱いされるくらいならアンディと一緒に大学に行ったり日本の博物館で展示される方がマシだったんじゃないの?

まあでもこうなった理由は「オモチャが増えたことでウッディが選ばれにくくなった」とか「アンディにとっては大切だったが、ボニーにとっては普通のオモチャと変わらなかった」みたいに一応説明することはできます。

でもね、そんなリアルで世知辛い話なんて観客は求めてないんですよ。
シリーズファンの俺が見たかったのはなぁ!ボニーがウッディと一緒に和気あいあいと遊んでいるところだったんだよぉ!!

なんで前作で好きになったキャラクターを嫌いにならないといけないんですか?とても悲しかったですし私が序盤から本作を嫌いになった大きな要因となりました。

酷すぎるウッディへの虐待

そして個人的にこの映画で最も怒ったポイントが、ウッディの不憫さです。

見ててこんな感じになりました。ウッディのメンタルも同じ感じだと思います。

先ほど紹介したように新しい主人であるボニーとうまくいっていないウッディですが、人間だけでなくオモチャとの関係も良くありません。

例えばアンディの家ではみんなをまとめるリーダー格だった彼ですが、ボニーの家では他のオモチャがその役割を担っているため思うように力を出せず空回りしてしまいます。

さらに中盤ではさらわれたフォーキーを救出しようと無茶な真似を行い作戦を失敗させたことをボーに嫌みったらしく何度も言われたり、他の仲間からも愛想を尽かされるなど、制作陣はウッディに恨みがあるのかと思うぐらいどんどん孤立し辛い思いを抱えるんですよね。

で、なんでフォーキーを無茶してもわざわざ救出しようとしたかという話なんですが、あくまで個人的な考えになるんですけど、フォーキーこそがウッディにとって自分の存在価値になっていたからではないかと思います。

フォーキーは幼稚園でボニーに友達ができないことを心配したウッディが手助けしたことで誕生したオモチャで、ボニーはフォーキーのことを一番の親友のように大事にしています。
だからこそウッディはそんなフォーキーを守ることがボニーに遊ばれない自分の役割だと考え、自分を卑下してゴミになろうとする彼のことを寝る間も惜しんで止めようとしていました。

先述のフォーキー救出作戦が失敗し仲間から愛想を尽かされる中、ウッディが叫んだ「俺にはこれしかないんだよ!」という言葉が全てを物語っていると思います。

誰にも苦しみを打ち明けられず、仲間から孤立してもなお一人で乗り込んでいく姿は見ていてあまりに悲しく、あまりに気の毒で泣いてしまいそうでした。

もっと感動して泣きたかったよ…ウッディ…

さらに辛い展開は続き、本作の(一応)悪役にあたるギャビー・ギャビーというキャラクターがいるんですが、このキャラクターはボイスボックス(紐を引くと人形がしゃべるアレ)が不良品なので、ウッディのボイスボックスを奪おうとしています。
そのとき一緒にいたフォーキーが彼女にさらわれてしまったので、ウッディはフォーキーを救出しようとしているんですね。

ギャビー・ギャビー。吹き替えは新木優子さん。ディズニーのゲスト声優上手な人多くない?

で、先述のように仲間に愛想を尽かされ単身彼女のもとへ乗り込むわけですが、このときに彼女はボイスボックスが不良品だったことで誰にも遊んでもらえなかった寂しさを語り、フォーキーの身柄と引き換えに、ウッディにボイスボックスを譲ってくれるよう頼むんです。

前作までのウッディならばきっとこの誘いはきっぱりと断ったでしょう。だって「俺のブーツにはガラガラヘビ」などアンディやボニーが楽しんでくれたセリフを話せなくなるわけですから、自分のアイデンティティを失うわけです。
それを楽しんでくれる人がいるからこそ、失いたくないと考えるのは当然でしょう。

しかし本作では遊んでもらえないギャビーと自分の現状が運悪くリンクしてしまったために、ウッディは悩み、揺らぎ、ついには悲しそうな表情で自身のボイスボックスを差し出してしまいます。

このシーンを見たとき私は言葉を失い文字通り絶句しました。この展開考えた制作陣は人の心とかないんか?

このシーンのウッディ、ギャビーを助けよう、っていういつもの真剣な表情ではなく何かを諦めたかのような表情でしたからね。
もはや自分に価値がないと思っていなければこんな自らのアイデンティティを放棄する行為はしないでしょう。

仮にウッディが自分からボイスボックスを渡すと言えばまだ私の中で不満は少なかったと思いますが、これは自暴自棄になっての行動にしか見えないので本当に辛いです。

ウッディは今まで主人公としてファンと一緒にトイ・ストーリーの物語を紡いできた私にとって思い入れの深いキャラクターなんですよ。
皆さんの思い入れのあるキャラクターが仲間から見捨てられ誰にも必要とされなくなり、その現状に絶望し今まで大事にしてきた物を手放してしまう展開を見せられたらどう思います?怒りたくなりませんか?

最後の展開に繋げるにしてもこれらの酷い目に遭わせる展開はもう少しどうにかならなかったのかと考えてしまいます。

そして最後ウッディは今までの仲間であるバズたちと別れ、ボーたちと各地を巡って様々な子供に遊ばれる未来を選択します。

ここが1回目と2回目で大きく見方が変わったポイントです。1回目ではウッディが新たな未来を選ぶ展開はそこまで悪いものに見えず、むしろ今までボニーのもとでうだつの上がらない日々を送り苦しんでいるのを見てきたため、「幸せになる道を見つけられてよかった…」という気持ちになりました。

しかし2回目ではウッディが理不尽に苦しんできたことが目につき、前作の決断をなかったことにするようなラストであるという認識が強くなったことで「やっぱりこの結末はちょっと…」となりました。
この気持ちは2回目に見てから数年経った現在も変わっていません。

アンディは『3』の最後で「おもちゃを大切にして遊んでくれる子」という理由でボニーに宝物のウッディを渡していて、それはウッディもわかっているはずなんですよ。
なのに今作でボニーはウッディを大事に扱われず、ウッディ自身もそうしたアンディの気持ちをガン無視して離れることを選んでいます。

もちろん辛い状況なのに恩や思い出に縛られてそこから動けない状態は良くないことだと認識はしています。
けれど本作は今までのナンバリングで培ったアンディとの思い出を説き伏せ、離れる選択を納得させるほどの説得力を持っていないんですよね。

例えばアンディが休み期間に実家へ帰ってきたとして、ウッディで全く遊ばず雑に扱うボニーやその家族を見てどう思いますかね?
もしくは、ウッディだけがいなくなったボニーのオモチャたちを見てどう思うでしょうか?

ウッディはアンディにとって大切な幼少期の思い出です。誰しもに存在しアンディと同じように大切に持っている象徴とも言える存在を無碍に扱う姿を見せられて、果たして共感できるでしょうか?

私もアンディと同じように大きくなりオモチャで遊ばなくなったと同時に、オモチャに幼少期の思い出が詰まっている人間ですから、もしそんなことになったら悲しいし許せないです。

こうした前作を否定しようとして今までと整合性が取れなくなったり、ファンが望んでいないような前作のハッピーエンドのあとの曇らせ展開が大きな批判点です。

レギュラーキャラは雑に扱うもの

ここまでの批判点は主に『3』に関わるものが多く、そこから本作は「『3』とはまた異なるトイ・ストーリー像を作ろうとして失敗したのでは?」と見ることもできます。

しかし本作はそんな甘くありません。個人的には本作が唾を吐きかけているのは『3』だけでなく、今までのナンバリング作品全てだと思っています。

例えばウッディの相棒であるバズ・ライトイヤー。彼は今までの作品では強い自分を持ち、高い行動力やリーダーシップで仲間たちを救ってきた、実にかっこいいキャラです。

ですが本作では自分についているボタンを押すことで流れる機会音声のセリフを「内なる声」とか言って何をするにしても内なる声任せというポンコツへ変わってしまいました。
前作までの魅力が台無しじゃねーか!

どうしたんだバズ!スペイン語モードだった頃のお前はもっと輝いていたぞ!

そして個人的に許せないのが相棒であるウッディへの対応です。
ウッディが先述したフォーキーを救出するために見捨てられても一人で乗り込もうとした際は着いていくことなく、「内なる声」が何度押しても行けと言わないため帰ってしまいます。

普通はここで「内なる声は行けと言わない!でも私はウッディを助けたいんだ!それが本当の私の内なる声なんだ!」とか言って助けようとする展開にするでしょうが!なにのこのこ帰らせてんだ制作陣!
それともあれか?「今まで二人が築いてきた友情は『内なる声』一つで行くのをやめるほど薄っぺらかった」っていうのかよぉ!?

最後の別れのシーンでもウッディに「ボニーは大丈夫だ」とか言ってんじゃねえよ馬鹿野郎!
どう見たって大丈夫じゃないのは精神的に追い詰められてる目の前のカウボーイだろうが!!

相棒が『3』で身の危険を冒してまで助けようとした長年過ごした仲間と別れようっていうんだぞ!?もっと何か言うべきことがあるんじゃないの!?

さらにバズだけでなく他の元アンディのオモチャメンバーの扱いもあまりよくなく、ほとんどウッディや新キャラと絡みがありません。
なんなら出番もありません。ずっとキャンピングカーの中でお留守番です。

そのため個人的にはウッディが別れを告げみんながそれを爆速で喜ぶのが納得いかないんですよね。
長年一緒にいた仲間に数日ぶりに再会したらなんか急に「悪いけどお前らとはここでお別れだ!これからはここで出会ったこいつらと新しい人生を歩むから!じゃあな!」って言われたんですよ?
普通なら「お...お前 変なクスリでもやってるのか」と疑ってもおかしくない場面です。

さらにさらに、本作再登場でありレギュラーキャラのボー・ピープも先述のように前回よりキャラがかなり変わっています。

まず動きの変化です。かつてのボーは陶器人形だったこともありキビキビ動けるキャラクターではなかったのですが、本作はかなりアクロバティックに動いています。
ここはたいして気にならない人もいるかもしれませんが、個人的にはマイナスポイントです。

今作までのボーはアクションが出来ない分リーダーシップの発揮など別の点から魅力的にキャラを見せていたんですね。
けど本作ではアクションに比重が置かれそうした魅力がなりを潜めている状態です。

それだけでなく、性格もかつての「おしとやかだが芯が強い」というものから「おしとやかさ」が消え、自分が強い性格へと変わってしまいました。
無論それが悪いことだとは言いませんが、そのせいでウッディへのあたりが強いと感じる部分が多々あったなどよくない部分が多く感じられたのも事実です。

新キャラを活躍させるためレギュラーキャラの活躍を削るのは仕方ない部分はあると思いますが、それで魅力や整合性まで削ったら意味ないでしょ。

オモチャのルールは荼毘に付したよ

他に過去作品に共通するルールとして、「オモチャは人間に干渉しすぎない」というものがあります。

人間に動いているところは見せないし、声を出したり話しかけたりもしません。ましてや危害を加えるなんてもってのほかです。

ではこの映画ではどうかというと、まず人間に動いている姿は見せていません。
ここは最低条件であるためクリアしていて当然ですね。

そして最終盤ではカーナビの声のふりをしてボニーの両親を騙したりアクセルとブレーキを勝手に操作して危うく事故を起こすところまでいきこれまたボニーの両親を恐怖させています。

裁きの神ジャスティスさんでもブチ切れ案件です。

完全にやってることがホラー映画のそれです。人間に捨てられたオモチャたちが復讐のため事故を起こし次々と人間を殺害していく…どうです?アルバトロス社あたりこの設定で一本作ってみません?

冗談はさておき上記のような下手すれば死人がでるような行動をするのはさすがにヤバいですし、被害に遭ってるのが何も悪いことをしていないボニーの両親なのも酷さに拍車をかけます。

せっかく家族で楽しい思い出を作るために旅行に出かけたら娘はお気に入りのオモチャをなくし不機嫌になり、ウッディを待つためにオモチャにパンクさせられ、ようやく直り出発しようと思ったらオモチャに車を暴走させられ警察のお世話になったお父さんはさすがに泣いていいと思います。

ロボットですら三原則で人間を傷つけることは禁じられているのに、オモチャは堂々と人間を危険に陥れています。まだ名前のない犯罪でしょこれ。

…あくまでウッディを助けるためであって悪意はないからセーフだって?車暴走のシーンのときにバターカップが「これでパパも牢屋行きだ」って嬉しそうに言ってたんだなこれが。

まとめ

ということで今回は『トイ・ストーリー4』を「単体の作品としてみる良かった点」と「続編としてみる悪かった点」のそれぞれの観点から話していきました。

コンセプト自体はよいと思うのですが、いかんせんそれを人々が愛着を持ち、かつ本作のテーマと真逆のテーマで前作にハッピーエンドを迎えたウッディをそこに当てはめて映画を作ってしまったのがすべての間違いだと思います。

その結果ファンの怒りを買い、『4』を私のように嫌う人間も多く出てしまうという続編物としては最悪の結果となってしまったと言っていいでしょう。

それでも私はトイ・ストーリーが好きですし、またウッディやバズがスクリーンで活躍する姿が見たいと思っています。

果たして『5』では地に落ちた評判を回復することができるのか、期待して今後の展開を待ちたいと思います。

それではまた。

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