見出し画像

観世音菩薩になるには/仏教 写真

キリストには十人の弟子がいたそうですが

キリストが捕らえられた時にキリストの弟子かと問われ無関係だと嘘をついたそうです。


キリストはそれを知っても弟子に怒ったり恨むことはなく再びキリストのもとに弟子が来ても

許したと言います。

何故許せたり怒らなかったのか?

それはキリストは人間弱さを知っているかだと

読んだことがあります。


人は欲に負けたり自分を大事にしようとすると

裏切ったり嘘をついたり怒ったり
ゴマをすったり様々です。

そんな弱い人を受け止めてあげる事が出来るのも人間の心であります。



仏教で言えば観世音菩薩です。

観世音菩薩は慈愛の心で全てを受け止めてくださり三十三身の様々な姿になりその人の心の悩みに合わせて現れ 救ってくださります。

お経には観世音菩薩の様な尊い慈愛の心がどんな人にもありそんな存在になっていきなさいと説かれてあります。



そんな慈愛の心で人を見ていかれたら私達は

お互いに幸せでいられ平和な世界にたちまちになると思います。



それにはまずどうしたら良いのか?

と疑問に思われる方もいるかもしれません。

仏教はまず第一に正しく見なさいと教えてくださります。


この世の生きとし生けるもの全てはバラバラに

見えますが皆 繋がり合っている命だと言います。

だから優しくしたり困っていれば助けたり

その人の持っている知識や経験 能力で支えて

あげることもできます。

それを諸法無我と言いますが

世の中を見てもそんな価値観のないかけ離れた

愚かな人達が沢山います。



例えば

権力や暴力で支配する者 騙してお金を取る者

能力で人を見下す者

 お金や地位名声で人を判断する者

人と同じでないと差別的な目で見る人

などなど


もう挙げたらきりがありませんがそんな人達は

正しいものの見方を知らないばかりに欲望に負け

苦しみに負け身勝手な考えを作り出さなければ

生きていかれなかった人達です。


こういう人達を仏教では顛倒(てんどう)と呼び

物事を見る目がひっくり返っているため

そんな呼び方をされています。


ですので逆を言えば元々はそんな心ではなく

皆 優しい慈しむ心を持っているのが

本来の姿であります。

なのでそんな人達を憐れみの目で見ていく

優しさが本来は大切なことであります。



諸法無我とは

私達は仏様の御心を頂いた仏様の分身である。

そう言った方がこの諸法無我の本質を捉えていると思います。  

その自覚に立つ事が

とても重要になってくるのです。


そしてもう一つの見方

この世は変わらないものはなく

必ず変化していきます。


電灯はついたり消えたりすことによって

光っています

心臓も動き続けているからこそ生きていられます

止まってしまっては死んでしまいますね。


動くということは変化しているのです

変化しているから生きていられるのです。


そして私達は何処まででも高まれ

仏様の様になれるだけの無限に変化できる

最上の心を持ち合わせている。


そのように解釈してもよろしいかと思います。

この世の起きること全て変わらないものはないのです これを諸行無常と言います。


この2つが正しく見る即ち正見です。


私のnoteを読まれている方はまたこいつ同じこと言ってると思われるかもしれません(笑)


ですが私は仏教の根幹中の根幹であると

思っているのです。

この2つが、本当に理解できたら

この世の苦しみから解き放たれます。


私は正見に始まり正見で終わると言っても

過言ではないと私は思うのです。


何事も根が大事でありこの正見という見方を

信じること

それが観世音菩薩の様な慈愛の心を育む

根であるそう思います。


その見方を根底に大前提にあったうえで

人に施す心を持っていくことです。


それが相手の心をほぐし

救われていく道であります。


心は見えません、だから実践をしていく事

でこの世の真理に動きを与えていくのです。

そうすれば仏教がいかに素晴らしいか

感動します。

そうすれば悪い事をしようと思っても出来ません

何故なら

本当の心に目覚めたからです。

先ずこの心を取り戻す事だと思います。



この世の人達が優しさを取り戻すまで

願い祈り念じていきたい

そう思っています。












無断転載禁止とさせて頂きます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?