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宗教の宗とはどんな意味か?

昨今 宗教と言うと怪しいものと
認識されていますがこの「宗教」の宗とは
どんな意味かご存知でしょうか?

宗とは大元、つまりこの世の真理とか根源と言う意味になりますから仏教では
仏様と言えます。
ですので宗教とは仏様の教えとなります。


皆さんが怪しむのは恐らく新興宗教団体だと

思われますが本来は怪しいものではなく

一般の人にもお経を読み先祖に感謝し教えを学び

世の中をより良くする為に心を清め教えを

お伝えしていく団体
だと言えるのですが

現実は程遠いと言わざるを得ません。

仏様に帰依し

に帰依し

サンガ(仏様や教えに帰依した仲間)に帰依していく事が大切なのですが

その仏様や教えを第一に考えず人の不安を利用し

献金などの布施をさせ

組織のルールや儀式に従えと先祖や仏様を

粗末にする一部の団体がいます

これが所謂皆さんが怪しむ

カルト教団と言うものだと思います。


儀式やルールは絶対ではない


必ずルールや儀式というものは

時代と共に変化します、諸行無常でありますから

変化しないと決め込んだらそこから苦が始まり
ます

人や先祖を粗末にし儀式等を第一と主張し

人や幹部に迎合するなど立派なカルト教団であり

根本に仏様や教えを第一に考えなければ

これは邪教と言わざるを得ません。

正見で観る、諸行無常と諸法無我

2つの見方があります

まず1つに

先程申したように

この世の物質的なもの、時間、心、出来事等

変化しないものは一切ありません

これを諸行無常と言います 

そしてこの世の一切には自分勝手な世界も

繋がりが全くない支配するようなものも

存在せず、生きとし生けるものと

支え合い寄り添って助け合う世界であること

一切のものは我が無い、即ち

これを諸法無我と言います

この2つが正見と言って始めにしていく事が

大切だと教えて頂いています。

これが始まりでないと邪見になってしまい

組織のやり方に従え幹部に従えと

変化を無視し仏様や法を拠り所とせず

人を拠り所にし

相手を抑圧し泣き寝入りや我慢をさせられ

洗脳されていきます。

人間はどんな人であれ完璧ではありません

嘘も付きます、自分の地位名声を守るためなら

人も騙します、汚い事も平気で出来ます

嫌われたくない為に身を切らず

大切な事を言わず自分が好かれる事を

優先にします

こうして完璧ではない人間を絶対的帰依

信奉する対象にするから

間違った方向に行ってしまうのです。

こう言った輩は組織を守る為だけに力を入れてる

だけであって仏様や教えを広める事は

全く持って考えていないのです。

自らの地位を守る為、浄財を頂く為だけに

教えを利用している、浄財泥棒の悪人であります。


仏教、ことには法華経では

人に依らず、法に依る

という言葉があります。

人という不完全な儚いものを信じるのではなく

その奥にある仏様と同じ尊い心を

帰依する気持ちを持ちなさい、という意味です。

これは生きとし生けるもの全てに対して

言える事であります。

だから法華経に

  人間や生きとし生けるものの奥には

「如来の全身います」と

   書かれているのです。

私達はそれだけ尊い心、命を頂いた

存在なのです。

これは宗教家 特に法華経行者は己自身に対し

厳しく戒め、心に止めて置かなくてはならない

言葉であると思います。


ですので

仏様や法に帰依せずやりたい放題の

間違いだらけの新興宗教団体が浸透していくと

本当にとんでもないものが生まれ

世界平和など起きるはずもありません。

ですので新興宗教団体が怪しいと思われても

当然の結果だと私は思います。

大きな組織の力で支配し

黙らせようなどという団体は

その内そんなものは消えていくでしょう

早く己を見つめ洗脳から目を冷めて頂きたいと

願うばかりです。

宗がなくなれば身勝手な「我教」と言ったところでしょうか、哀れでなりません。

日蓮聖人が残されたお言葉にこんな

言葉があります。

蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり。
身の財より心の財第一なり

どんな家の家宝よりも

頂いた体が第一であります

ですが

頂いた体よりも奥底にある仏様と同じ

温かい 人を思いやる心が

どんなものよりも第一であります。

どんなに組織が大きくなろうとも

大きな大元の心を大切にしその心を


第一に考える

それこそ宗教ではないかと思うんです。

一刻も早く正法に立脚して頂きたい

そんな願いを持ってお話しさせて頂きました。



最後まで読んで頂き有難うございました。


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