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おじいちゃんの手習い

一緒に暮らしていたおじいちゃん。
私の小学校の教科書を見ながら、ひたむきに字を書いていた。
「カッコいい!!」
と思った。

孫の欲目としては、
ハリソン・フォードに似ている。

おじいちゃんは、洋服の仕立て屋さんに丁稚奉公に出されたので、
小学校に行っていない。
おじいちゃんのお母さんは、
若くして旦那さんに先立たれ、生きていくために後妻に入ったそうだ。
その時に、おじいちゃん達…兄妹はバラバラに奉公に出された。

夫婦になったおばあちゃんとは、仕立て屋さんで出会った。
結婚後は経済的に、とても厳しかった。
おじいちゃんは仕事が丁寧なので、美しい仕上がりだが、
一着仕上げるのにとっても時間がかかり、商売にならなかった。

5人の子供を育てるために、
おばあちゃんは一念発起して商売を変更。
土地も変えて、食堂を開いた。

そして驚くことに、
おじいちゃんのお母さんを引き取った。
親戚から、
またもご主人に先立たれて一人で困っているとの知らせを受けたからだ。
捨てられた思いでいるおじいちゃんを説得して。。

おばあちゃんのお母さんも同居して、文字通りの大家族だった。

その後、おばあちゃんのお母さんが晩年、今で言う認知症になってしまい、
おじいちゃんのお母さんがお世話をした。
きっと感謝の気持ちからだったと思う。

高校卒業した私の父も、板前修行から戻って商売を始めた。
修行先で知り合った母と結婚し、店を出して独立した。
私が生まれ、弟たちが生まれ、しばらくは親子水入らずで暮らしたが、
「じいさんの様子がおかしいから店をたたみたい。」
と、おばあちゃんから相談された。
考えた父は、私たち姉弟をおじいちゃん達に預けることを決めて、
借家のお店とは離れたところに家を建てた。

おじいちゃん達は、家計を助けるために畑をしていた。
日に焼けると肌が痒くなるおじいちゃんが、
白いタオルを被った上から麦わら帽子を被っている姿を良く覚えている。

老人会のゲートボールに行っていた。
おじいちゃんは、
ゲートボールのスティックとボールを入れて肩から掛けるケースを作った。
チームのおじいちゃん達の人数分も作って、お揃いだ。

私の制服のブレザーの丈詰めをしてもらったことがある。
当時の流行で、友達の分も頼まれた。

質素倹約、、
おじいちゃんは自転車で食料品の買い出しをしていた。
良く行った魚屋さんで
「爺さん、今日は安いものはないぞ!!」
と言われたそうだ。

私の両親が、定休日に来る日は「肉鍋」だった。
と言っても、豚肉とジャガイモが中心のボリューム節約鍋。

中学生の時、せっかくおじいちゃが作ってくれたお弁当を忘れて登校した。
しかも自転車で届けてくれたおじいちゃんが恥ずかしくて、
下を向いていた。
おじいちゃん、ごめんね。

テレワーク中の、私のデスク周りに子供たちの写真がある。
おじいちゃんが、老人会の旅行先で撮ってもらった写真もある。
顔出しパネルをのぞいた笑顔がある。







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