「マリオブラザース」VS「マッピー」


※マッピー



当時、まぁ凄いモノを目撃したと思っていた。
自分のある種の原点になっているし、頭の中が熱くなっていた。
当り前の様にマッピーのメロディが一日中鳴っていた。
実際、当時の自分からすれば現実逃避のカルトだったかもしれない。
愚者によるストレスで追い込まれすぎて依存しただけかもしれない。
しかし自分はその時、ビデオゲームに救われたのだ。

だからこそ、あんな惨めな欲太り連中を受け入れるわけにはいかない。
彼等はゲームが好きなんじゃなく、ただ単に自分が好きなだけだろう。
周囲に自慢するとか、コネクションの為、見栄の為の単なるファション。
ゲームコミュニティに取り入るポーズ、その為の個人攻撃、敵味方と。
そのどこにリスペクトがあるのかと。
大勢になびくだけの主体の無い利己主義者に忖度する訳には行かない。
平気で人をダシにする、気色悪い卑怯者の為に誰が魂を売るものかと。
お前の「好き」とこっちの「好き」は全く意味が違う。
あんな場当たりのファッション野郎達とは一切共感し得ないのだ。

そんなワケで。


まずは自分の中で変革をもたらした最大リスペクト「マッピー」から。

大前提として、この時点のゲームはまだ8方向レバーは定着していない。
つまり「ゼビウス」の大ヒット前だったと。
この時点での主流は2方向+1ボタンというフォーマットがあった。
作り手側の縛り、プレイヤー対応力に合わせたルールがあった。
そんな時代背景だ。

マッピーは立体迷路の上下移動を梯子やエレベーターじゃなく、
トランポリンという、特殊な手段で移動するのが特徴だ。
梯子であれば2方向では足りないが故の苦肉の策だったのかもしれない。
エレベーターと違うのが、移動装置を待つ必要が無くいつでも飛び込める、
連続して使用するとトランポリンは破けてミスとなるルール。
更に特筆すべきなのが、トランポリンエリアでは敵との接触判定が消える。
プレイヤーと敵キャラが接触してもミスにならないのだ。
この不思議な感覚。

おそらく最も革新的なルールがこれだろう。
最初はピンと来ないので、敵と接触する事に不安がありスリルがあった。
適との距離をフロアに乗ったり下りたりと調整し、その後の展開を読むと。
そこはしばしの安全地帯となり、ゲーム展開の緩急、メリハリを作り出す。
フロアでは挟まれないかと緊張し、飛び降りられてはホッとする。
緊張と緩和で心理的な波を作り出し、プレイヤー側の感情を揺さぶる。
実に上手くできたドーパミン発生装置、システム的エンタメだ。

また、当時のナムコの矜持として「敵を倒さない」がある。
パックマンがそうだったように、ファンシー路線は一貫していて、
如何に殺伐とした要素を消しつつ、世界観を演出するかに気を使っている。
これはターゲットを暗いゲーセン住民から一般向けへの移行アピールだ。
不良のたまり場、タバコや便所の匂いから、日の当たるジャンルへと。
当時のナムコは未来文化へのヴィジョンを担っていた。

マッピーは敵を気絶させるか追い出すかという対抗手段で反撃する。
これをボタンによるドア開閉で行うと。
配置されたドアギミックで敵の追跡を押し返す、距離を稼ぐ、追い出す。
敵をまとめれば、逃げ場のないフロアで挟み撃ちのリスクを減らせると。
敵をドアでまとめれば更にパワードアによる高得点への布石になる。
この仕様は戦略性があり、複合的な面白味を生み出していた。
各プレイヤー独自の工夫が必要となり、テクニックが生まれた。

このドアは移動のブーストも可能で、追跡者との速度差をカバーする。
プレイヤーは敵の追跡をかわせるかどうか次の展開を計算しつつ、
どのルートが有効かをアドリブで即断する為、非常にゲーム性が高い。
開閉というシンプルなドアギミックには複数の効果的な用途があり、
これは宮本氏の言うアイディアの定義に合致するハズだ。
長期スパンのマップ攻略と並行し、反射的な判断、独特な技術がいる。
ドアの開閉タイミング次第でブーストの有効性も微妙に変わるのだ。
しかもマップの大半は画面外にある為に、アルゴリズムを読む必要がある。
観察し、画面外で敵がどういう形で散らばってるかを予測するのだ。

あの時代にここまで大胆で緻密なゲーム性を持つ作品は他に無かった筈だ。
2D、しかもアーケード、固定マップの中で様々な展開が作られる。
プレイヤーは翻弄されるだけではなく意識的に介入し、リスクを減らせる。
この独自性に満ちて真似ができないゲームデザインにはほれぼれする。

その時まではこれだけ野心的なゲームは他に見た事が無かった。
どんな偶然、インスピレーションがあればこんな作品が作れたのだろうか?
クレイジークライマーの複雑な操作系と違い、左右レバーとボタン1つ。
様ざまな縛りの中での完成度、まぁチャレンジャー、反骨心が詰まってる。
マッピーおそるべし。

また大野木氏のサウンドは、今思えば何か原型があったのかもしれないが、
PSG音源によるナムコサウンドはヒーリング的なバイブレーションがある。
メロディと同様、この独特の癒し効果は既に失われたモノだろう。
単なるビープ音ではなく、心地よさへの人為的な創意工夫がある筈だ。

当時のナムコは一枚岩の様に才能が結集し、業界の主軸となっていた。

そんなナムコに呼応するかのように、多くの他社も勝負を仕掛ける。
あくまで他人の物を奪うのではなく、各々が自分のセンスを誇示した。
つまり相乗的にライバル同士が高め合っていたのだ。
よりオンリーワンを目指すという、今とはまるで真逆のレースだ。
奪い合いではなく、豊潤なイメージの開拓地を競ったと。

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※マリオブラザース


一方の雄であったマッピーに対し、任天堂が放ったのが、
「マリオブラザース」、有名過ぎるスーパーマリオの原型だ。

これ最初、何が面白いのか判らなかった。
触る気にならなかったし、マップの変化も乏しくずっと固定である。
更には敵の出現地点まで完全に固定だ。
まるで卓球なんかの様に変化が無く、ルールの自由度が乏しいのだ。
視覚的な変化が無くワンパターンになり得る構造に食指が動かなかった。
しかしこれがやってみると違う、移動に慣性がつき加速すると止まらない。
そのせいで思ったような動きが出来ず、先を予測しながら行動する。
敵をかわすタイミング、ポイントをアドリブで計算しなければならないと。
更に天井にも味方にも接触判定があり、障害物になり得るのだ。

「これか!?」と思った。


明らかな面白味がこの物理演算的な動きにつまっている。
そういえば任天堂作品は他のゲームメーカーと比べると意識が違う。
初代ドンキーコングのジャンプも重力を意識させる自然な放物線だった。
ドット時代における自然な動き、物理的表現により存在感を作り出す。
任天堂の作品と他社の違いは明らかにこの部分、重力を意識している。
リアルの法則をゲーム内でどう生かすかという事だろう。

質感の表現というモノを効果音だけではなく、動きで作り出していた。
他社の作品だが、このゲーム表現はスイマー、バーニンラバー、
ディフェンダー等でも使われていた気がする。
後にSTGのエクセリオンをやった時、マリオの影響を強く感じたモノだ。
意図的に負荷を与え、単純なレバー操作にも緻密さが求められると。
原点はブロック崩し、ポン、もっと遡ればピンボールに繋がるだろう。
現在では当然だろうが、当時は意識しなければ得られなかった感触だ。
その部分を徹底して作りこんでいる。
この一点突破を残しマリオブラザースはBGMや背景などの無駄を排除した。

マッピーのイレギュラー性とある種の真逆、物質世界のルールを重視する。
子供の頃からの体感原則がそのままゲーム内の面白味に繋がっていたと。
ナムコが特殊さをエンタメにするのとは逆に、ゲーム世界でのリアル表現、
それが任天堂的な美意識だろう。
種類の少ない登場キャラは、動作やドットパターンが豊富で生きていた。
箱庭的な面白味、触ってみたいような重量感があった。
その時、意味もなく数ばかり増やすんじゃないという事を学んだ気がする。
これは全てに言える事だろう。
数ばかり並べて目移りしてる内に飽きてしまうのが人のサガだ。

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ここで「アレ? 忍者くんは?」と思う人もいるかもしれないが、
当時のUPLはスコアに対する意識が滅茶苦茶で、別路線というか、
アイディアを誇示してしまえば後はぶん投げていたような印象がある。
詰めが甘いのは完成後の調整期間が無いか、或いはどうでもいいと。
雑誌でも連載していた間違いなく優秀なクリエイターだが、
なんか反骨心が行き過ぎてヤケになっていたんじゃなかろかと。
その後の阿修羅の章の凄まじいセンスにも時代がついて来なかった。
作者の才能に周りがついてこれなかった、そんな気がしてならない。

当時のゲームセンターはゼビウスが方向性を決定するまで、
商業性を開拓精神が上回るだけの熱量が存在した。
ゲーム画面からはゲーム作家達のプライドがにじみ出ていた気がする。
そしてあれこそが未だに自分が期待している世界線だろう。

おしまい。

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