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消えた銅鐸の謎 2

【2】銅鐸はガラパゴス

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銅鐸の起源は、中国古代国家「越」の銅鈴、 または朝鮮半島の小銅鐸からきたと言われています。 
呪術師が衣装につけ、鈴のように鳴らし、祈りの儀式に使ったようです。 
しかしそれが日本に渡ってくると、みるみるガラパゴス化。全く独自の進化を遂げていくのです。

銅鐸のルートをざっくり説明しましょう。
 紀元前3世紀頃、まず北九州に伝わった小銅鐸ですが、なぜか九州では定着せず、 出雲の地でサイズが大きくなり、本体に文様や絵画が描かれ、使い方も含めて独特の発展を見せるようになります。
さらに大阪・兵庫の大阪湾沿岸、岡山・香川の瀬戸内海沿い、
 そして鳥取・滋賀・徳島・和歌山でも作られるようになり、
多少模様は違えど、これらをひっくるめて「近畿式銅鐸」と呼ばれています。

それとは別に、明らかに様式が異なる流派が、愛知・岐阜・静岡で製作されるようになります。
「三遠式銅鐸」です。
 そして2世紀になると、近畿式と三遠式、それぞれ競うように数多くの銅鐸を作り出すことに なったわけです。

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またその大きさも、1世紀を境にどんどん大きくなり、もはや叩いて音を聞くものというより、置いて崇めるような装飾祭器へと変わっていきました。
                       (聞く銅鐸から見る銅鐸へ)

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ただ、いち早く銅鐸を取り入れた出雲では、1世紀にはその製作をやめてしまいます。 推定できる理由は後にお話しするとして、とにかく2世紀、大和を中心とする日本の情勢は、 大きく分けて近畿を中心とした近畿式銅鐸と、 濃尾平野を中心とした三遠式銅鐸の、2大勢力が存在していました。

ところが2世紀末、なんと近畿式と三遠式が合体。突如、琵琶湖湖畔の大岩山遺跡に、両方の特徴を兼ね備えたハイブリッドで史上最大な銅鐸が作られるのです。両者の力が結集したとも言えるわけですが、いったいなぜそんなことが起こったのでしょう?

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そのダイナミックな動きの理由ははっきりわかっていません。
 が、ひとつ考えうるのは、”外敵”の出現
 銅鐸の民がひとつの王国として力を統一させ、最大の祭器を作り、外敵と対峙しようとした、 そんな推測ができます。

大岩山遺跡から6キロ離れたところに、伊勢遺跡というのがあります。
 ここは人が生活した形跡がなく、円を描くように大型建物が並び、真ん中に神殿のような建物を 配しています。
おそらくここが、巨大銅鐸をもちいて特殊な祭りをした聖域だったのでしょう。

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伊勢遺跡こそ卑弥呼がいた邪馬台国だった、と主張する学者もいるほどですが、その是非はともかく、ここが500年間続いた銅鐸の歴史の、最高にして最大の祈りの聖地。
それが、2世紀末を最後に、忽然と消えてしまうのです。

やはり、銅鐸の民は“外から来た敵”に敗れ去ったのでしょうか?
それとも‥?
次章は、いよいよ新たな視点で銅鐸の正体を検証します。



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