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哲学的思考とAIの出現

一昔前までは「人生とは?」「生きるとは?」なんて語り出すとちょっとダサい・・・というイメージがあった。

それより、もっと身近なこと、実利的なことを語れることが重要視されていたように思う。

すぐに役に立って、変化がわかりやすいものが重宝された。

しかし、時代は変わりAIが本格的に日常生活に関わってくるようになった。
一人一台スマホを持っていつも情報を引き出している。引き出すどころかあちら側から常に提示をされている。
無意識のところにまでAIが侵食していることは否めない。

基本的にわからないことはホイホイ何でも聞けば良い。
巷で話題になっていること、役に立つことなどは、基本的には合理性の上に成り立っているから、そういう分野はAIが常に処理し続けている。もうここには敵わないと誰もが気がついている。

そうなってくると、私達、人間は何を思考すれば良いか?私たちの知能とは何か?そういったことを考えざると得ない。

つまり、それまでダサいと思われていた哲学的思考だ。

AIにはなぜ、哲学的思考ができないか?

それは、AIは既存の情報、データをたくさん集めて、それらしいことをまとめているからに過ぎないからだ。
どこまでいってもそれらしいだけ。
AIはそれ自体を知らない。
そう言われていることをたくさん集めて、多くの人が言っているから、そうなんでしょう?という推論の上に成り立っている。

だから圧倒的にというか、全く、体験、経験が無い。
経験するための体がないのだから、当たり前だけど。

そこがAIと人間の本質的な違いであることに気が付く。

つまり哲学的思考とは私達人間の原体験をベースに考えるものだ。
だから、一人一人違ってくる。それを統一する必要も無い。

原体験があって、そこから感情や意識が生まれ、ひとつの思考が出来上がっていく。
だから与えられている思考ではなくて、能動的な思考になっていく。

こういった能動的な思考は、教育の場ではほとんど鍛えられていない。
誰でも思い当たる節はあるだろう?いつも何かを覚えさせられていた、考えさせられていた。

受け身の思考に慣れてしまっていて、能動的な思考は苦手な人が人が多いだろう。
刺激に、問いに反応することは得意だけど、そもそもの問いを考えることが出来ない。
今やスマホを持っていれば、常に24時間、刺激が降り注ぐ。誰かの考えたことがどんどん流れてくる。
どうしても、それに反応する癖がある。
それは長年の思考癖だろう。

しかし、これかた重要になってくるのは能動的思考だ。

そもそも、なぜ私は・・・?

という立ち位置から思考をしてみること。

その為に自分の体験を大切に振り返り、とても重要なものとして受け止める必要がある。

その経験は唯一無二。その経験があるから、私はその立ち位置から思考を深めていくことが出来る。
それこそが人間として存在していることの大きな意味。
AIの出現が、それをより露わにしてくれた。

原体験とは子供の頃の体験と位置付けられるけど、AIとの対比で言えば元体験という漢字を当てても良いかも知れない。

常にいつでも私たちは体験の元を把持し続けている。

その元が万物の創造の種になっている。

創造された側から、創造する側へのシフト・・・

それを加速させていくのがある意味、AIという存在なのかも知れない。

哲学的思考、そもそも、なぜ私は・・・?、に根気強く、答えていくためには自分と仲良しにならねばならない。
そうでないと、ついついスマホに手が伸びる。
スマホはいつでも私を忘れさせてくれるから。

そんな時間を持つこと。

自分をしっかり深めること。

自分と仲良しになること。

それがAI時代において、とても大切なことかも知れない。