見出し画像

僕たちを救うのは、自分自身へ向けた強い肯定だけかもしれない。

『今日は何を書こうか』

今朝9時ごろ、隅田川のほとりを歩きながら考えていた。
昨日一つだけ決めたことがある。
今年は、30年間ずっと様子を見ながら自分の中に溜め込んでいたモヤモヤや、イライラや、逆にホクホクや、ウキウキを、ちゃんと外に出してあげよう。
そしてまずは、モヤモヤから。

『あ、そういえば、社会に出てからいろんなところで耳にする、めちゃくちゃ嫌いな言葉があったな』

『嫌な仕事ほど自分を成長させる』

聞くだけで吐き気がする言葉だ。
なんで嫌なことを嫌な気持ちでしなきゃいけないのか。
ああイライラする。

そんなことを考えながら、ついさっき、『逃げるが恥だが役に立つ』を観終わった。

正月からなんてものを見せてくれたんだ。

僕がずっと感じていたモヤモヤや、社会のいろんなところでいろんな人が感じていたであろう、僕に見えなかったモヤモヤが、全て言語化されているようだった。

本当にいろいろなものがこれでもかと詰め込められていて、どれか一つを抜き出しても、語りきれないのだけれど。

平匡とみくりは、今回も呪いに立ち向かう。
でも、今回、以前のドラマよりも、もっと自分がのめり込んでいくのを感じた。
それは、今回立ち向かっていた呪いが、女性・男性といった物が対象なのではなく、人間に(少なくとも日本人に)かけられた呪いだったのだ。

そして二人は、この物語を通して

『〇〇しなくちゃいけない』の呪いに立ち向かい、『△△してもいい』の魔法をかけてくれた。

料理を頑張って全部作らなきゃいけないなんてない。調理器を使ってもいい。
一家の大黒柱にならなきゃいけないなんてない。二人で家族を作ればいい。
誰かと一緒にならなきゃいけないなんてない。一人だっていい。
自分のことは自分で全部やらなきゃいけないなんてない。誰かを頼ればいい。

そんな小さな肯定の積み重ねが、少しずつ、普通をアップデートしていく。

むしろ、そんな小さな肯定を積み重ねることでしか、僕たちはこの呪いから抜け出すことはできないのかもしれない。

今回の逃げ恥は、言葉一つ一つにとてもこだわっているように思えた。
それは、僕たちに呪いをかけているのが、何気ない言葉そのものだからかもしれない。

僕たちがこれから立ち向かうのは、この社会に蔓延る言葉の数々であり、それを塗り替えるのもまた、自分を肯定する強い言葉なのかもしれない。

とりあえず走り書きだけど。そう思った。

忘れないように、その日思ったことを書いていきます。ちょこちょこ文体変わると思います。