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ペレ⑤知らせてくれる。守ってくれる。

ベティ・カーティスは1954年~1965年の平日、ハワイ島ヒロのラジオ局KIPAのインタビューと音楽の番組で、司会を務めていた。
1960年、彼女は友人2人を火山国立公園の観光に連れていった。ヴォルケーノハウスホテルに立ち寄り、食堂が開くまでロビーで友人とおしゃべりをしていた。

すると、首の後ろに、誰かに爪か針で突かれたかのような痛みを感じた。振り返ると、白いホロク(ハワイの伝統的ドレス)を着た年配のハワイアン女性が近づいてきた。
「あなたがカポホから放送したアナウンサー?」
「そうです、トゥートゥー」
彼女は1月にカポホ村を破壊した噴火を現場から中継した。

年配女性は彼女を長い間見つめてから、声をひそめて「3日以内に島をペレが訪れる。大災害に見舞われるだろう」と言うと歩き去った。
ベティはそれから5日間、昼のニュース後「恐ろしいことが起こる」と聴取者に繰り返した。
28日後、チリ沖から10mの津波が到達し、町は破壊され、61人が亡くなった。

Pele in White Holokū

1975年7月5日の夜、ハワイ火山観測所のジャック・ロックウッド博士は偶然マウナロアの上空を軽飛行機で飛んでいて、頂上火口からの噴火を最初に目撃した。25年ぶりの噴火は18時間続き、トレイルは閉鎖された。明るくなってから彼は観測所のスタッフとヘリコプターで頂上へ向った。

すると、モクアヴェオヴェオ火口の下のプウ・ウラウラ休憩小屋に3人の人間がいるのを見て、驚いた。その場所は危険なので、ハイカーは立ち入り禁止になっていた。2人の男性は小屋の前に立ち、もう1人の女性はポーチにいた。彼は国立公園の本部に連絡を取り、救出のために別のヘリコプターを呼んだ。

3人を救出するには2往復する必要があった。しかし、ヘリコプターは1往復して2人のハイカーを救出しただけだった。質問を受けたハイカーは「小屋には自分たち2人だけで、女性はいなかった」と答えた。
博士と観測所のスタッフのレジーが「その女性が裸足なのはおかしい」と思ったのは確かだった。

The sun rises beyond Mauna Kea as lava flows down the side of Mauna Loa on July 6th, 1975

ハワイ島は、ハワイの島々を合わせた面積よりも大きい。多くの島々は、浸食されて消えたり、鳥やアザラシの住む砂州や頂きが残るだけだが、ハワイ島は現在も成長し続けている。地質学者は、3200㎞北西にあるミッドウェイ島も、3200万年前は現在のハワイ島の位置にあったと考える。

地殻の下のマグマは、地殻の中のホットスポットと呼ばれる裂け目を通って上昇し、地球上で最大の海の底に広がる太平洋プレートを貫通して噴き上がり、島々を作った。太平洋プレートは、ゆっくりと北西へ移動しており、島が形成されるとホットスポットから移動し、また別の島がその場所に作られる。

ハワイ島の北側にあるコハラ、マウナケアは休火山。南側のフアラライ、マウナロア、キラウエアは活火山。キラウエアのハレマウマウ火口は、伝説によればペレの家だ。島の南には、まだ頂上は海面下にあるが、ロイヒと名付けられた火山が作られていて、1万年後には、海面から顔を出すと予想されている。

Volcanoes are progressively older

火山国立公園は、ハワイ島南部の海岸からマウナロアの頂上にかけて広がり、その中心にキラウエアがある。車でキラウエアに向かうには、東のヒロの町からか、西のコナから、農園や牧場を通り、オヒアやシダの繁る山へ登っていく。コナから行くと、数多くの溶岩流を横切ることになる。

国立公園では、月面のような荒地、山間部の牧草地、霧の立ち込める森、巨大な噴煙を上げる火口と、風景は変化する。金色に光る硫黄の丘、立ち昇る水蒸気、溶岩洞窟、木のようなシダ、きらきら輝く新しい溶岩流、巨大な円錐丘、オヘロが育つ灰と軽石の平原、レフアの赤い花が咲く荒々しい木肌のオヒア。

国立公園本部からは、海岸への道を下り、火口の連なりと溶岩流を横切ると、ワハラウの古代神殿へ行ける。コアの森を通り抜けキラウエアを見下ろしながらマウナロアの斜面を上がると、ハイキングトレイルの入口だ。トレイルは山頂がたびたび雪に覆われる荒涼としたモクアヴェオヴェオ火口に通じている。

National Parks on the Island of Hawai'i

1973年、カウーの大地主C・ブリューワーは、プナルウのブラック・サンドビーチ奥の池のほとりにレストランと歴史博物館を建設中で、私はそのデザインに関わった。1868年の津波で破壊された村があった場所だ。歴史センターの目玉は、計画では200年前のプナルウを描いた壁画だった。

その壁画用の壁は高さ3m、幅6mで、湾曲しており、地震の衝撃を吸収できるようになっていた。準備が整ったので、私はカウーへ行き、壁画を描き始めた。やがて、住民たちが見に来るようになり、私はカウーについて学び始めた。絵のテーマが、年配者から昔のカウーについての話を引き出してくれたのだ。

作業員は、仕事が終わるとビールを手にやって来て、物語を聞かせてくれた。作業が夜に及ぶと、夕食を終えた家族連れがやって来て、物語を話してくれた。そのうちのいくつかは、私が子供の頃のワイピオ渓谷で、老人たちが夜に語った、怖くてトイレに行けなくなる話だ。カウーでは時間がワープしていた。

Ancient Punaluʻu Hawaiʻi Island

夜は、私が作業する区画に通じるドア以外は鍵がかけられた。そのドアも私の不在時は警備員が鍵をかけた。ある晩、私は夕食後、警備員に鍵を開けてもらい、自分の作業用照明だけを点けて絵を描いた。1時間ほど作業をして振り返ると、暗がりにハワイアンの老婆が立って絵を見ていた。

「こんばんは」と声をかけると、彼女は微笑みながら絵を見ていた。仕事に戻り数分後に振り返ると、彼女の姿は無かった。しばらく仕事をして外に出ると、警備員がベンチに座っていた。
「今ここにいたトゥートゥーは、この辺に住んでいるの?」と尋ねると、彼は「誰も出入りしていませんよ」と答えた。

6週間後、絵は完成に近づいた。私は調子が良く、絵筆がひとりでに動いた。夜11時過ぎに話し声が聞こえてきた。ハワイ語だった。私が描いた浜辺にいるチーフたちが話をしていた。左の方で何かが動いたので見てみると、座っている女性たちの一人がこちらを向くのを止めて私が描いた通りの横顔に戻った。

Ancient Punaluʻu Hawaiʻi Island

1975年の秋、私はコナでキング・カメハメハ・ホテルに飾られる絵の仕事をしていた。ある晩、大きな地震があり、夜が明けると、プナルウの施設の現場監督ジミー・マーティンソンに電話した。
「6mの津波が来て、レストランもキッチンも歴史センターも中まで破壊されて泥だらけだ」

「壁画はどうなった?」と私は尋ねた。
「不思議だよ。水が建物に流れこんで何もかも片側へ押しやった。壁には1mの高さまで泥の跡がある。それなのに壁画は濡れていないんだ」
2時間後、私はその場にいた。泥の筋が1mの水が建物の中を襲ったことを物語っていたが、壁画には泥がついていなかった。

「現実を直視しよう。カウーに住んでいて何かが起こるのを見る。それを説明しようとしないことだ」誰かが言った。
「トゥートゥーだ。間違いない。彼女が地震を起こし、地震が津波を起こす」別の誰かが言った。
「トゥートゥー・ペレのことかい?」私は尋ねた。
「いつでも彼女が最終決定を下すのさ」

Ancient Punaluʻu Hawaiʻi Island

この本は、私が解釈したペレの性格を表現しようとする試みに何度も失敗することから始まった。数か月もの間、鉛筆で沢山のスケッチを描いたが、どれも「私がペレよ」とは言わなかった。激しい噴火や彼女の土地の独特な溶岩やシダのジャングルでなく、なぜ彼女を人間の姿に描くのだ。

それにペレは気分によって容姿や年齢を変えている。
ある朝、私は再びスケッチを始めた。満足いかないスケッチが床に散らかり、私は汗をかき始めた。鉛筆や絵筆が勝手に動く珍しい瞬間だった。突然、探し求めていた顔が現れた。「これだ!」。私はそれをキャンバスの上にトレースし、顔を仕上げた。

数か月後、ジョン・エリクソンからハワイの火山に関する新ミュージアムへの参加を求められた。それは科学博物館とのことだったが、何か物足りないように思われた。火山に対する人間の経験は、科学だけでは表現できないからだ。それを体現するのがペレだ。私はハワイの火山伝説と科学的展示を統合した。

Pele

ペレを描くため、モデルを探そうと考えた。ある朝、ホテル・ハナ・マウイでの朝食の時、私の席を担当するウェイトレスの顔に探していた特徴を見つけた。私が自己紹介すると彼女は答えた。「存じています。私はモナ・リン。あなたと共にホクレア号に乗ったサム・カララウの娘です」。

彼女はその午後、私のために、写真のモデルになってくれた。その後、いくつかのポーズをスケッチに起こし、そのうちの1枚を絵画に仕上げた。
しかし、キラウエアに新しく開館するトーマス・A・ジャガー・ミュージアムのためにペレを描こうとすると、モナの写真はどれも役に立たないことがわかった。

彼女は、たくましく美しいハワイアンの顔をしているのだが、「私がペレよ」と語る肖像画に描き直すことはできなかった。モナの顔に、傷つきやすい人間らしさがあったからだと思う。
私のペレの絵や彫刻はすべて、最初の作品のように、人間のモデルからではなく、私の心に映った幻影から創られている。

On the Lanai

ミュージアムの作品を完成して資料を片付けている時、本にするだけの材料があると思った。
1987年に本書を出版後、私書箱に、手紙を添えた溶岩の小包を見つけることにも驚かなくなった。ペレの土地から溶岩や砂を持ち帰ると不幸が起きるという迷信に根拠はない、と本書に書いた。

それは誤りかもしれない。取り乱した送り主が自分の持っている火山の土産を手放したいと、本書の連絡先に送ってくる。そこにはいつも悲しみに満ちた手紙が同封されている。「信じるべきか分かりませんが、ハワイから石を持ち帰って以来、私の人生は地獄です。どうか私の代わりに火山へ返してください」

ハワイ火山国立公園(Hawaii National Park, HI 96718)は、何年も前から、このような手紙を受け取っている。
さあ、何を信じるべきだろう? 人間は宇宙のすべてを説明したいという思いに駆られるかもしれないが、ペレの島に住む私たちは、説明のつかない出来事の現実を、ただ受け入れているのである。

Pele Honua Mea

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