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ギリギリZ世代の25歳若者が感じるルッキズムと行き過ぎた資本主義について

同じ若者のみんなに。
僕より先輩である皆様に。
「若者の1人である僕はこんなことを考えているよ〜」
と共有したくて、こんな記事を書きました。


25歳、ギリギリZ世代

僕は98年生まれの25歳、ギリギリZ世代です。
正直、自分のことをZ世代だなんて思ったことがなく、Z世代を名乗るのに違和感を感じています。
しかし、Z世代と調べると「1990年代後半から2010年生まれのことを一般的に指す」とのことです。
なので、自分も大人から見ればZ世代なのかと首を傾げながら「ギリギリZ世代」を名乗ることにしました。

今回はそんな僕が、最近の若者の中で広がっているように感じる「ルッキズム」「行き過ぎた資本主義」について考えます。



染み付いてしまったルッキズム

Z世代とルッキズム

ルッキズムとは、外見こそが最も価値のあることだという物差し(価値観)で生きている「外見至上主義」であったり、容姿を理由に差別的な言動を取ることです。
自分の顔/容姿をSNSにアップロードし、Likeをもらうシステムが大人気な現代に生きる僕たち若者とルッキズムは切っても切り離せません。
そして、若者の間でルッキズムがどんどん広がっていることに僕はすごく不安を感じています。

ルッキズムでもよくね?は生きにくい社会につながる

「そんなこと言ったって、見た目は整ってる方がいいじゃん」という考えはわかります、しかし「顔や容姿が整っている方が良い!」と高らかに叫ぶことは生きにくい社会につながってしまうんじゃないでしょうか。
僕は決して、「他人の見た目について一切何も思ってはいけない」とは思っていません。
人として姿形を持つ以上、容姿という言葉は嫌でもついて回る言葉で、自分や他人の容姿について何かを感じてしまうのは既に染み付いてしまっていることだと思います。
しかし、他人の見た目について良いだの悪いだのを声を大にすることが当たり前になってしまうことは避けなければいけないと僕は強く考えます。
他人の容姿を評価することが当たり前になると、たとえ自分や他人の容姿を特に気にしていなかったとしても気にするようになります。
そうすると、容姿が原因で自信をなくしてしまったり、容姿を基準に優劣をつけ始めるようになってしまいます。
自信喪失は孤立や自殺につながるかもしれないし、容姿の優劣判断は差別や格差を生み出すかもしれません。
「え〜でも結局人は見た目やし、ルッキズムでもよくね?」という考えは生きにくい社会につながると僕は考えています。

「整形したい〜」と言う友達と顔が弱い僕

改めて、僕の考えをまとめると以下のような感じです。
・自分や他人の見た目についてあれこれ感じてしまうのは仕方がない
(僕も感じてしまう、極力減らしていきたい)
・でもそれを声や言葉にし過ぎると生きにくい社会になっちゃうんじゃないか

容姿について声や言葉にし過ぎることの危うさは、僕たちにルッキズムが染み付いているからこそ難しい問題だと思います。

ある時、友達が「整形したい〜」と軽い口調で言っていて、すごく驚きました。
僕は整形を悪いものだとは思っていません。
しかし、整形が当たり前になってしまうのはどうなんだろうかと思います。
どうしても自分の容姿が嫌で、辛くて辛くてたまらないという方は整形を選ぶという手もあると思います。
けれども、「今より良い見た目になりたいから〜」とお化粧やファッション感覚で整形をするのは、ある種ではルッキズムを肯定し、加担することになってしまいます。

また、SNSなどで顔が整っているアニメキャラや芸能人・アイドルに「顔が強い、顔が偉い」と表現しているのを目にします。
その表現を初めて見た時、「じゃあ容姿の整っていない僕は顔が偉くないのか?顔が弱いのか?あぁん?」と、1人で何かと戦っていました。

「整形したい〜」と言った友達もSNSの「顔が強い、顔が偉い」という表現をする方々も、ルッキズムを肯定したいと考えているわけではなく、ただ特に何も考えずに声や言葉にしていると思います。
なので、僕がここで何だかんだ言うのは鬱陶しいかもしれないし、説教臭くなるかもしれません。
ただ、「自分たちの無意識の言動がルッキズムに繋がるかも?」と考えるのはとても大事なことではないでしょうか。
僕も「背高くてイケメンやな!」とか「顔小さいなぁ!」といった言葉を褒め言葉だからとポジティブな気持ちで吐いてしまうことが多々あります。
この記事を書いている途中で気づいて、敢えて修正しなかった前文の「容姿の整っていない僕」と自虐的に表現した箇所も、ルッキズム的な思考にまだ囚われているということの表れな気もします。
染み付いてしまったルッキズムを完全に振り払うのは難しいかもしれませんが、たとえ褒め言葉であっても、自虐的な言葉であっても、その言葉がルッキズムを助長することに繋がるかもしれないということを忘れないようにしたいです。



金、欲望、消費。行き過ぎた資本主義

拝金主義者になりつつある僕たち

僕はアンチ資本主義とかではなく、資本主義についてどうこう言えるほど経済学の勉強に勤しんできたわけではないのですが、行き過ぎた資本主義は拝金主義に繋がってしまうのではないかと不安に感じています。
拝金主義とは、お金こそが最も価値あるものだという物差しを持つことです。つまり、「とにかく金」「なんとしてでも金」という考えです。

拝金主義者の若者が増えていると言うと大袈裟かもしれませんが、お金に強い執着を持っている若者は確実に増えているように感じます。
そこにはやはり、SNSの発達が原因としてあるように考えています。
Youtuberが自宅である豪邸の紹介や爆買いしている様を動画で公開することは非常に人気の高いコンテンツです。
「お金持ちの華やかな生活」をSNSを通して簡単に覗くことができるようになってしまったので、僕たち若者の中には、それらの華やかな生活に憧れて幸せの基準が大きく上がってしまっている人がいます。
「お金持ちの生活と比べると僕/私の生活なんて…」と、気にしていなかった人まで気にするようになってしまうかもしれません。
それらはいつか、「お金がないと幸せになれない」という考えに陥ります。
もちろん、お金はあるに越したことはありません。
しかし、「幸せ=お金」と言う考えは、緩やかに、しかし深く、根強い拝金主義的な思想に変わっていくでしょう。

転売、学割整形、稼げれば良いのか。

「金を稼ぐことが正義!」とする拝金主義がなぜいけないのか。
お金を生み出すことは社会にとって良いことです。
しかし、そこに倫理観がなければ、治安はどんどん悪化します。

身近なことを例に挙げると、転売があります。
スニーカーやポケモンカードの転売はニュースでも取り上げられるほど規模が大きくなり、副業の一つのように考えている人もいます。
しかし、残念ながら転売というのは良くないことだと僕は思っています。
「安くで仕入れて、高くで売っているだけ。商売の基本だ。」とか「需要と供給が成り立っているから悪くない」と言う人がいます。
それでは、「コロナ禍のマスク転売」はどうでしたでしょうか?
スニーカーやポケモンカードが正規の値段よりも高くなってしまっても、欲しかったファンが悲しい思いをするだけかもしれません。
しかし、マスクが高騰し、買えない人が現れることはどうでしょうか?
感染症を予防するという命に関わることなのに、お金儲けをしたい人たちのせいでマスクが買えず、命を脅かされることになります。
もしも、お金とネットワークがある悪い組織が僕らの日用品や市販薬を買い占めて、正規の値段の10倍で売ってきたらどうでしょうか?
「欲しけりゃ金を積みな」の世界に、法律以外で対抗するには、こちら側もお金を持っていなければなりません。
拝金主義に対抗するために、こちらも拝金主義になってしまう負の循環が発生します。
小さな転売を肯定することは倫理観のない金儲けを肯定することになってしまうということが、僕が転売を良くないと考える理由です。

倫理観のない金儲けは、個人の域にとどまらず、企業にも見られます。
僕が驚いた広告の一つに、「学割でお得に二重整形!」というものです。
ルッキズムの章でも前述した通り、僕は整形自体が悪だとは思っていません。
ただ、この広告・キャンペーンには、不必要にルッキズムを煽っているように感じざるを得ません。
「学生のうちだったら安いよ!ほら、あの子もやってるし!夏休みの間に二重になろう!」と言っているのと同じではないでしょうか。
そう言われると「確かにそうかも……可愛くなれるなら!」という気になってしまう子も出てくるでしょう。
これらは誰かを幸せにしてお金を生み出しているのではなく、「今の君は不幸だよ?大丈夫?」と不安を掻き立ててからお金を生み出す行為です。
元々は気にしていなかったのに、企業側が不安を煽ったり欲望を生み出し、利益をあげることはあまりにも倫理観がないように感じます。

それでも「お金を生み出すことが正義なんだ!」と言えるでしょうか?
行き過ぎた資本主義は拝金主義につながり、これもまたルッキズムと同様に生きづらい世の中になってしまうんじゃないかと僕は考えています。



25歳の若者が考える「ぼくたちにできること」

こういった容姿やお金に関することについて、意見を言うと、
「てめぇが稼げねぇからだろ」とか「てめぇがブサイクだからだろ」と言われてしまうかもしれません。負け犬の遠吠え、負け惜しみで片付けてくる人もいるでしょう。
僕たちは、どんどんと自分たちで格差や分断を生み出し、生きにくい社会を作っているような気がしてなりません。
僕自身も含めて、そんなつもりはなくても、生きにくい社会を助長させているかもしれません。
軽い気持ちで投げた小石が、誰かを大きく傷つけることもあります。

そんな僕たちにできることはなんなのでしょうか?
それはひとえに「誰かのことを考える」ということだと思います。
自分には関係がないことかもしれなくても、誰かのことを考える。
自分の行動や言動で傷つく人はいないか、結果的に良くない流れの一端を担うことにならないか。

社会活動なんかしなくても、日々の生活の中で誰かのことを考える。
そんな人たちが増えると、社会はきっと生きやすくなっていくと思います。
世界を変貌させるのは認識なのです。

おわりに

ルッキズムも拝金主義も脆いものだと思います。
事故で顔を怪我したらルッキズムのあなたの価値は下がってしまいます。
お金の価値がなくなってしまったら拝金主義者のあなたは指標を失います。
自然災害や戦争が起こると、見た目とかお金とか言ってる暇はありません。見た目やお金を中心にする物差し(価値観)は簡単に崩れてしまいます。
見た目やお金も気になるけど、愛や思いやりを物差しの基準にする。
「誰かのために」という物差しを持つことは難しいですが、決して簡単には崩れません。
いつかくる価値観の崩壊に備えて、自分のためにも「誰かのために」を考えていきたいですね。

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