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イーロン・マスクの在宅勤務批判と、働き方が多用化する時代のマネジメント

イーロン・マスクが、在宅勤務を「道徳的に間違っている」と批判したと言う。個人的には彼の道徳観念が一般的だとはあまり思えないが、コロナ禍で広がった在宅勤務という働き方に対して、経営者やリーダー層が感じている課題意識を端的に示すものだと感じながら、その記事を読んでいた。

動き始めてしまった時代の流れを逆流させることに成功した人間は、これまで歴史上ひとりもいない。

「仕事は職場でするもの」というかつての常識は、すでに過去のものになりつつある。先日の記事でも書いた通り、日本では新卒学生の65%が働き方の柔軟性を就職先の選定条件に加味しているという。

もっと踏み込んで言えば、会社が従業員に働き方を強制すること自体が、今後ますます難しくなっていくのではないかと感じている。


ドラッカーが1969年に出版した『断絶の時代』で指摘した通り、社会の中核的な資源は「資本」から「知識」へと既にシフトした。新たな中核的資源たる知識は、人の頭の中にあり人とともに移動する性質をもつ。

すでにそうなりつつあるが、間もなく働く人自身が、自らの働き方を意思決定することが当然の社会になることは間違いない。

当然、マネジメントの前提は大きく変わる。これまでは、人が集まって働くことを前提としていたので、マネジメントは中央集権的な構造を持っていた。しかし働き方の主導権が労働者側に移ると、自治分権型のマネジメントを機能させる必要がある。


さらなる課題として、働き方の変化は一時的に「階級闘争」のような社会課題を生み出す可能性がある。物理的なサービスを提供する仕事においては従来の働き方が継続し、知識サービスを提供する仕事においては場所と距離の制約がなくなっていく。

テスラのように物理的サービスと知識サービスが1つの企業体を形成している場合、問題は非常に悩ましいものになることは間違いない。イーロン・マスクが在宅勤務を感情的に攻撃する背景には、このような課題意識があるのだろう。


この問題への処方箋は、働く人自身のセルフマネジメント能力の向上しか存在しない。逆説的に感じるかもしれないが、主導権が働く側に移れば移るほど、この問題は自然解決へと向かっていく。

「階級闘争」は過渡期の問題に過ぎず、イーロン・マスクのようにそれを力で抑え込もうとしても、問題の解決にはならない。

一人ひとりが自らの人生とキャリアについてのミッションを持ち、自らが実現したい価値観について理解を深め、自らの強みを使いこなす能力が高め、自らの働き方に主体性を発揮できる面積が増えれば、もはや他人の働き方など気にはならないはずなのだ。


ここでちょっとだけ、我が家の話をさせてもらおうと思う。

我が家では、私は知識に関わる世界で仕事をしており、奥さんは保育園という物理的サービスの世界にいる。幼児教育に20年以上関わる中で、この先のキャリアに悩んだ時代もあったが、最終的に幼児教育の世界で貢献することを自らの意思で選び取った。

コロナ禍の頃は奥さんが私に「在宅勤務できて羨ましい!」と言い、今は逆に犬の介護で私が外出を制限せざるを得ないので、奥さんに対して「外に出られて羨ましい!」と言っている。我が家では、それが日常だ。

奥さんも私も、長年ドラッカーを学び実践してきた。この先のキャリアを考えるに当たっては、2人ともドラッカーのセルフマネジメントを基盤にしている。互いに自分の道を決めているから、働き方が違っても特に問題は起こらない。かと言って、家族としてバラバラな訳でもない。

我が家では、違うという事が自然な事であり、お互いが決めた道を応援しあうのが当たり前というだけの事なのだ。


働き方に多様性が生まれることによって、ますますセルフマネジメントの重要性は増していく。これからは組織の側が、働く人に自らの人生とキャリアについて意思決定することすら、必要になるかもしれない。

一人ひとりが自らの働き方について、自らの意思で主体的に決定するようになるにつれ、かつての中央集権的なマネジメントではなく、自治分権型のマネジメントが当然となっていく。

働き方の多様性は、これから加速度的に増していく。これを前提に、組織のマネジメントを根本から見直していかなければならない。

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