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# 42 悩める人間

さてさて、昨今の政治、裏金作りで大騒ぎだ。
再度、この問題を取り上げてみた。
ここでも漸進法で話を進めて行く。

1。野党はこの問題を自民党一党支配の弊害であり、体制の問題として政局化を計っている。
2。元々、現在の体制を正当化するものは初めからあったのだろうか?
一方で、野党の言うような体制の変革を正当化するものは何もないのではないか?現在、変化を求めるのは、単に混乱を誘発するだけではないだろうか?

3。それで日本がおかしい事になるのか?カオス到来?

4。いやそうではない。
日本の政治資金規正法も極論と捉えられないだろうか。米国は個人でも、企業でも政治献金して良いと言うことである。日本は制限が厳しく、米国と違う。
共和党 民主党の議員は政治資金を民間から必死に集めている。大統領選挙の行方をも左右するのだ。

5。納得しない。それは金権政治ではないか。

6。そうは思わない。ロビー活動として公に認められているのだ。
個人レベルでも政治が浸透していると思う。コミュニテーのパーティーで多くの事が決定するし、そこに議員は参加している。受験とか就活などで人脈は推薦に利用される。献金が発生する場合もあるのだが、それは金権政治ではなくて、お付き合い、コミュニケーション能力の一部であり、金が全てではない。

7。米国の全てが不公平では無いか。

8。人それぞれに運命があるのだし、運命の数だけ不公平はあるのだ。言い換えれば、社会生活には不公平の種は尽きない。

9。そのような話しぶりはグローバルに広がる格差社会を認めることであり、社会問題を放置するように聞こえる。暗に米国を貶しているのか?

10。そうではない。不公平は認めざるを得ない。しかし、国民の不公平感は国により多少、異なると言うことだ。気持ちの問題なのだが、その隔たりは大きいのだ。
だが、どの国でも、不公正を認めない、そんな社会にすべきだ。

11。不公正と不公平はどう違うのだ。

12。一般的には、公平とは、平等であり、人を差別することなくみんな同じように扱うこと。「不公平」はその逆で差別して、相手によって扱いに差をつけること。
公正とは、偏りがなく正しい状態を指し示す。
不公正はその逆で偏っていて間違った事を指している。

例えると、NHKは「政治上の諸問題は公正に取り扱うこと、また、意見が対立している公共の問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにし、公平に取り扱う」と言っている。

13。不公正と不公平には違いがあるのはわかる。だが、それらの根拠となる差別と偏りの間には関連がないのか?

14。関連はあると思う。例えば、不公平な社会問題をそのままに放置しておくのは偏った事であり、不公正であり、間違っている。
マザーテレサは『生きると は偏見なくお互いを認め合うことではないでしょうか。 共生社会を築くため 「愛の反対は憎しみではなく無関心」』と言った。ここで言う、「偏見なく」とは公正であり、反対の「無関心」は不公正の意味に受れる。
問題を放置するとか、無関心とか、先送りするとか、ネグレクト、とかにより偏りが発生することになり、不公正が生まれる。これは多種多様な不公平を織り込んで、不公平な状況を常態化させてしまう。
不公平より、ずーっと根の深い深刻な問題なのだ。

15。さて、元に戻して、米国と日本の政治資金とか、政治献金の問題はどう考えるのか?

16。米国と日本ではそこに関して異論を展開すると思う。

17。では、現在起きている日本の問題はどう理解すれば良いのだ。

18。日本では裏金問題は不公平なことなのである。これに外国人が違和感を持つのは分かるのだが、国民感情の違いを議論するのは意味がないし、そこで日本か?海外か?白黒つけるのは理性的ではない。
外国人に理解してもらいたいのは「裏金問題を長い間、不公正な状況で放置していた事が由々しき事である」というのである。これは不公正であり間違いであり、正すべきなのだ。
同様の事はジェンダー間の不平等にも言える事であり、これを見て見ぬふりをして、何世紀にわたり放置してきた事は不公正な事であり、正さなくてはならない。
マザーテレサのいう様にこの世には無関心が蔓延していて、それが不公正につながっているとしたら、無関心の根っこを正さなくてはならない。

19。現在、政治倫理審議会に問題視されている議員が参加する、しないなどと揉めている。それを政争に利用するのではなくて、国民の為に、包み隠さず話してほしい。

20。この問題を政治家個人の問題として政倫審で幕引きするのは目に見えている。
裏金作りという不公平なことを長い間、放置して、習慣化させて来たのは不公正である。
これは氷山の一角であるかもしれない。
同類の不公正が蔓延つているのかもしれない。
政治家が本来の仕事をサボるだけで、不公正は生まれる。習慣は法である、などと言う言い逃れは通用しない。「赤信号みんなで渡れば怖くない」と言ういのなら、更に許せない。
斯様にいい加減な体質を正す道筋や切っ掛けとなって欲しいのだが、野党からその様な意気込みや、正論が聞こえてこない。背後に潜んでいる本質の認識がないのかもしれない。

若手与党議員からの声を待つしかないのだろう。






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