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# 41 悩める人間

虚栄心や自己愛につき、書き綴ってきた。しかし、これら知識をどの様に関連づけるのか、それは理性の役割。

ここでも漸進法で進めてみる。結論有りき話でもなく、どんな結論になるのだろうか?

1。「自己愛は実を言うと悲惨である。が、それを感じさせないというか、鈍くさせるのが、虚栄心なのだ」と断言する人もいる。

2。自己愛や虚栄心、この2つの言葉をにこだわる必要はないし、あえて否定する必要もない。資本主義の原点は自己愛や虚栄を認めることから始まっている。余談であるが、確かに虚栄心は鈍感力の強化にはなる。

3。拘りたい。現在世界中で起きている紛争は自己愛そのものではないか、それを体裁よく覆い隠す論理を展開しているのだが、それは腐った理性なのだ。世界が社会が進歩に向かう大きなウエーブとエネルギーが感じられるのなら、戦争も紛争も肯定されるのだが!。
現在、世界中に勃発しているそれは自己愛、自国愛であり進歩と無関係であり、後退であり、奈落に落ちている。

4。自己愛にその責任を負わせるのは筋違いだ。戦争は歴史を振り返ってみて、初めてその真価がわかるのである。戦争が進歩を、あるいは後退をもたらしたのかは後日に判明する。戦争により進歩がもたらされる事もあるのだ。

5。まるで、楽観論だ。現在進行中の戦争を暗に肯定するような話だ。暴力による国境線の拡大変更は自己愛そのものであり、後退であろう。

6。それでは暴力でないならば、他国を侵略して良いのか?
例えば、言語とか、文化とか、習慣とか、宗教、経済、民主主義、そんなものが国境を超して広まるのは止める事もできまい。
これを、あえて言わせてもらえれば、経済で言うところのグローバリズムであり、戦争ではない。。グローバリズムの拡大を恐れて、国境線の防備を強化したりしている。無駄なことだ。その様に自信のない国家は崩壊するはずだ。それとは似ているのだが、経済的安全保障と称して、各国のブロック化が進んでいる。これも、早晩、意味をなさなくなると思う。

7。いや、原爆とミサイルさえあれば、崩壊は免れるし、専制国家でも権力を維持できるはずだし、ブロック圏の共同防衛だって維持できる。

8。# 38で「現在と比べ、社会の変化や流動性に乏しく、情報が圧倒的に少ない中では、判断材料も乏しかったので、正義と権力の力学を考える環境ではなかった。
しかし、今では、情報が溢れ、正義の実現する時間は昭和と比べて短縮されている。権力の衰退する速度も早まってきたし、権力への固定観念も崩れ始めている。」と記載した。情報の流動化は止める事ができないし、国境の防衛網を容易に乗り超えてしまう。ブロック圏の壁はもっと容易に通過できるはずだ。

8。正義という言葉が新たに登場した。正義とは何だ。

10。正義は我々の身近にある。国連の提案するSDGsは正義を複雑であるのだが代弁しいると思う。

11。暴力の否定が正義とは言えない。 自国やブロック圏を守ったり、民族の独立にはそれが必要なのだ。

13。またしても、民族という言葉が新たに現れる。民族の自立や独立が例え正義があろうとも、正義には元々、権力と比べると力は無いと以前に言った。

14。しかし 長期目線では正義に物事は流れるとも言っている。これは、正義にも目には見えない様な力があると言うことではないか。
以前、述べた地の国では、進歩=愛と述べた。加えて進歩=正義であり、進歩が地の国の核心になるということなのか?

15。正確ではない。正義や愛は進歩だけでは語り尽くせない。神の国で進歩という言葉が見当たらないのだが、愛は語られるし、正義も語られる。

16。元に戻して、紛争の火種である民族主義、自国主義をこの地と神の国でどう考えるのか?

17。民族主義や自国主義は地の国の話であろう。 

18。アメリカは多民族国家である。そんな多民族国家も地の国の話なのか? 

19。多民族国家に自国主義が勃興しないとは限らない。一方で、民主主義国家は神の国にもふくまれる。ただし、トランプのアメリカファーストは地の国の言葉だ。

20。という事はアメリカは理想的な国家と言う訳だが現状、悪徳がまかり通り、汚染した社会ではないか。それを理想的な国家とするのか?

21。愛はそのものは中庸である。しかしながら、正義や進歩は良心と同様に極論に位置すると考えられる。お互いに対局にある悪徳と正義、進歩と後退が化学反応して中庸に到達する。そのような化学反応が容易に起こるという意味で、理想的なのだ。それは専制国家では起こりにくい。

22。虚栄心とか、自己愛とか、正義とか個人的に思える話でるあるのだが、聖アウグスティヌスのよる「二世界論」と呼ばれる思想がそれに関わると、社会や国家へと展開して行く。この2世界論をこの議論に加えるのはどうかと思うのだが?

23。人間は内的世界と社会性の外的世界の両方を兼ね備えている。2世界論がその橋渡しをしているというのは正確ではない。愛という言葉の役割を無視すべきではない。

24。正義もそう考えるとその橋渡しをするのか?

23。その様に見える。だが、愛とは違う。正義も進歩も愛の属性であるのだが愛そのものではない。これらは極論と捉えるべきだろう。常に対する悪徳と後退とがあるのだ。絶えず、これらの中庸を見つけだすのが理性というわけだ。言い換えると悪徳や後退も対となって人間個人と、社会性の橋渡しに役割を果たしていると考えられる。

24。マザーテレサは『生きると は偏見なくお互いを認め合うことではないでしょうか。 共生社会を築くため 「愛の反対は憎しみではなく無関心」』と言た。共存社会はキリスト教では神の国の事であろう。彼女は愛の言葉の反対があると言うのなら、愛も極論と捉えて良いのか?

25。愛と無関心を対局させるのは彼女なりの考え方であろうが。私は愛そのものには反対の言葉を見出せない。

26。キリスト教に精通している訳でもないのに、随分な事を述べている様に思う。特に愛については、分かっているのか!・

27。今回の話は結論なしで進めた訳だが、その通りで、到達した結論をまだ十分には、理解もしていない。感性との突合も今後、進めてゆきたい。愛は考えて、我慢して、理性的になって、到達するものではないと思っている。
自然に滲み出てくる、誰にでも持つことの出来る、中庸なはずだ。

私はキリスト教徒ではないのだが、まるで牧師さんのいう様な事になろうとは。












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