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サイコロの話とTRPGの話と、死にたいと生きたいは両立するんよ っていう話。暗くはない

生きていないとならないなって思う。

シナリオとwebオンリーの作業が終わって、すぐに次のシナリオを書き始めました。黙ったままでいられなかったからです。言いたいことが私にはたくさんあって、それを言うために新しいシナリオをつくりたくて仕方ありませんでした。

私はクトゥルフとエモクロアを中心に遊んでいて、いわゆるところのオンラインとか配信とか が盛り上がってからここの界隈に来た人なのですが、クトゥルフの面白さは感じていつつも、エモクロアのほうが『シナリオを書く』に関しては敷居が低いなとすごく感じます。私にとっては、RPと不思議な事象をライトに楽しめる感覚がわかりやすくて、クトゥルフの畏怖に触れるのはそれなりに重いなって今でも感じるので。ライト?ライトでもないか。クトゥルフの重さに比べたらジブリ的??だなって私は捉えてます。クトゥルフの重さも気持ちいいんだよね って思いながらどっちも続けてるから、ドMかなんかなのかもしれませんけど。

この前誰かに話したんですけど、クトゥルフって、ぱーーーーん ってSANとかHPぶっ飛んで死ぬときあるじゃないですか??伝わってるんかなこれ。伝われ。それが嫌だってことじゃなくて、ゲームバランス的な裁量が私的にはまだ難しく感じて、、あと世界観の理解がもうちょっとできてないと、クトゥルフ神話TRPGは書けないな って私は思うんですよね。世の中にはクトゥルフとエモクロア両方版あるシナリオも増えてはいるけど、個人的にはクトゥルフで書く意味 みたいなのを見つけられないうちは、CoCは書かないと思っています。(まだ作品数ぜんぜんない一般TRPGプレイヤーの戯言です。)

何を考えていたかって毎日のことで、選択に困ったとき、わたしはじゃんけんやくじ引きやランダムのあれそれで予定を決めることがすごく多いんですよね。鬼滅の刃のカナヲちゃんって、炭治郎に『迷ったらこれで決めて』って言って硬貨を渡されると思うんですけど、そういう指針がないと私も『どうでもいい』になりがちな人間で。いや正確には『自分の選びたいものが分からない』って場合もあるんですが。本当にどうでもいい ってこともあるし、どっちでもいいってこともよくあります。

生きるか死ぬかをサイコロに委ねるようになってしまったらまずいなって思って、バランス感?について考えてました。前になんかの記事で『サイコロとかでえい!って決めるバカさが必要』って書いたことがあるけど、生きるか死ぬか っていう局面に立ったとき、サイコロを振らないで(大抵の場合は)決められるわたしたち一般Peopleが気楽に『振るか〜!』って思ったらよくないなと。

わたしは、死にたい って言う人に対して『なんてこと言うの』なんて言わないです。わたしは親に『なんてことを……』って文字そのまま言われた。あれほどしんどい言葉もそうそうないです。
死にたいなんて言わなくて済むなら、言わないほうがそりゃいいに決まってますよ。生まれてきて良かった とか 生きたい とか言えたらいいじゃないすか。ポジティブなほうが自分も楽なんだからさ。そりゃそっちのほうがいいに決まってる。

でも言わないと生きてらんないから私は死にたいって言葉にすることがあるし、『言葉にすること』自体を否定されたくない という気持ちはわかるんです。"死にたい"が言霊になって心に張り付いてしまった人には、なるべく言い換えることをおすすめするけど(もうどうしたらいいかわからない とか、先が見えなくてつらい とかそういうの)、死にて〜〜〜って言葉で言うだけで少し発散できるならいいと思うから。

あ、裁量は自分で決めないほうがいいとは思う。わたし専門家じゃないし、専門家の話いっぱい聞いてから『私は言っといたほうが今は生きられるかぁ』て結論出したから、人の目につくところでもたまに言っちゃうだけです。でも私は同時に『生きるために死にて〜って騒いでるけど気にしないでください』って言ってます。私は死にたい って言う代わりに同じくらい生きたい とか 死にたくはない とかずっと言ってます。

私からお願いです。死にたいって100回言っていいから、1万回言っていいから、お願いだから死なないでください。死にたいって何億回でも言葉にしながら息をしていてください。『死ぬな!』とか聴いて。一旦。

死ぬことですら否定されたくないよって思う人がいるかもしれないな。死んではいけない理由をたった20代そこらの人間がこんなnoteで答えられていたら、うっかりサイコロ振っちゃう人がこんなに出る前に止められてると思うよ。

だから死んでほしくないから死なないでください と言うしかないんです。わたしも死にたい日があるんですけど、希死念慮と生きたいという気持ちって両立していていいと思うんですよね。親が悲しむとか、あなたが死んだら悲しむ人がいるとか、知らねーよってなるじゃないですか。でも私の見方では、自分が死にたいのかどうか ってことは1回健康になって冷静になってみてからじゃないと、正直わかんないよなと思うんです。

だってそうじゃない?私は死にたいなって思ってるけど、冷静になるまでの時間はかかったけど、5年かかったけど、生きたいな〜って思ってる自分に気づいた。気づけないままさようなら〜ってどっかいっちゃったら悲しすぎるから、他の人が見ても自分が見ても冷静になれている自分 が戻ってきてから、サイコロ振るかどうかはもう1回考えたっていいと思いますね。

ただ私は、死なないでください って文字でお願いすることはできるけども、結局人がする決断を止めることはできないって思います。お願いしたらその先のことは、私の考える内容ではないので、それでもさようなら〜ってする人を肯定も否定もする権利はないです。ただ私が『悲しいなー』って思うという事実が残るだけです。それを、私が悲しむ っていう事実を知ってもらってから決断してもらうのと、知らないままで決断をされるのとでは、サイコロの重みが違うとは思います。だから、伝えるところまではなるべくやっていきたいと思うわけで。

寝ますかね。
私は音楽とか物語とかがこの世にある限りは生きています。



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