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【運命決定論vs自由意志】本当に自由意思は存在するか

皆さんはどうお考えだろうか?

運命決定論は
運命は決定していてこれから先も全て運命という既定路線レールに乗っていくという考え方だ。

自由意思は
自分の意思で決めていき、未来も自身の選択によって決めていくという考え方だ。


どちらも甲乙つけ難い難問である。


ただし運命決定論は運命という事象が本当にあるという証明が不可能であるのに対し、自由意思は確かに存在をしていると自分の中で認知はできる。

リアリズム的には認知できる意思の存在を?
イデアリズム的には運命に夢想を?

運命決定論は他責?
自由意思は自責?

運命によって人生は決められているいない?
意思は存在しているしない?


堂々巡りになる理由は2つの理由がある。
上にも書いたが
1.運命を確認できない。

そのおかげで
2.意思の存在をはっきりと肯定出来ない。

・運命があるとしたら意思は存在しないになるからだ。
逆に
・運命がないとしたら意思は存在しているとなる。


今回の記事では
この難問に切り込もうと思う。


先ず運命決定論を語る上で外せないと思った書籍がある。
それは著者飯田忠彦(元福島大学教授) 生きがいの創造 である。

私は10年くらい前にこの本を読んだ。
読んだ理由は、ある経営者に読んでみてとお勧めされたからだ。

本について
概ねスピリチュアル的な現象が多く、根拠は体験談などの実例から帰納的に理論武装されており、宗教色はなしだ。上記を通じ自分の価値を論じている。

この手の本は自分を真っさらにして読むのをお勧めする。論理、道理、総じて固定観念の様なものが邪魔をすると本の内容が入ってこないからだ。
読んだ後、あれは分かる、あれは同意できないを考察した方が面白い。

この様な言い訳めいた前置きを必要とする本だということを理解して頂き

本のざっくりとした内容説明をする。
・神の様な存在がいる
・現世での出来事は全て決められている(決めている)
・人間は何度も輪廻転生し、現世で魂を磨く修行を行っている


そういった結論に至った方法
・臨死体験
・退行催眠

被験者何人かは失念したがその統計によって答えを導き出している。

もう少し具体的に説明すると、
・黄泉の国の様なところに、自分の意思が働く自分の魂がある。
・その魂は来世の課題を課される。決める。
・その魂が望んで自分で両親を選び、その魂は赤ちゃんへ移動する。
・そして様々な積むべき試練などの経験を積み、再び黄泉の国へ戻って行く。
・その経験値によって魂はレベルアップして行く。


生まれる前に自分で運命を決め、現世に降りて経験値を貯める。そしてまた、、、
と、この様なサイクルがあると言っている。


出来事は自分の魂が決めた織り込み済みのことで、
それにどう対処するか。どう感じられるか。
それにより減点、加点が行われる。

以上がざっくりとした説明だ。

本は下記から購入可能だ。
生きがいの創造 Amazon


ちなみに小ネタとして
小生は大のクレヨンしんちゃん好きだ。
そのクレヨンしんちゃんで、
しんちゃん、ひまちゃんが空から神様と相談して親を選ぶという内容の回がある。
オラたちが決めるゾ』という回だ。
しんちゃん、ひまちゃんが可愛い。それに何かほんわかした気持ちになるのでオススメの回だ。


話を戻す。
本に基づいて運命決定論を掘りたげる為に
意思を2つに分ける必要があると思う。
1.黄泉の国にいる時の意思
2.現世にいる時の意思

1は現世での運命を決める為の意思がある。
2は現世で運命を経験値化する為の意思が求められる。

また、運命も2つに分ける必要がある
・黄泉の国で決めた運命(決める前は運命がない)
・現世での決められた運命

◯まとめると
・黄泉の国では運命を決める自由意思があり
・現世では運命&自由意思がある

ということになる。

黄泉の国で決定されたことが現世で良いこと悪いことイベントとして発生する。
全ては成長のために用意されている順調な試練である。直面した時それをどう料理するかは自分次第。


◯時間軸で見ると
運命を決める→現世に生まれる→決められているイベントが起こる→イベントをこなす

この様になっている。


◯黄泉の国に焦点を当てた場合
次に生まれ落ちる現世でのイベントを自身で決める。両親すら自分で決めている。

◯現世に焦点を当てた場合
イベントはすでに決められたことで変えようがない。それをどう対処するかをテストされる。

つまり
現世で発生したイベントも全て自分で決めてたことで、現世の自分は運命を認知できないが自由意思は働いている。


冒頭に記述した
運命が決定されていたら、自由意思は存在しないというくだりは本に照らすと違うものとなっている。
運命が決定していても、同時に自由意思も存在して良いとなっている。

つまり運命論だ。


運命決定論は
宿命論、決定論と呼ばれるもので
運命論と違い自由意思はないとする。

意思が介在しないのであればどんな破滅的な、邪悪的な、怠惰的な決定も織り込み済みの決められたことで好き勝手やってしまえとなる。
故に責任転嫁の論として煌々と名を轟かしている。


決定論をあまり好きになれない人もいるだろう。

 幸せに過ごし、幸せを分け与えられる人になりたい

そのような人生の目的や目標を持っている人だと

決定論だとしたら他責の感覚が気持ち悪いし、功績を横取りされた気分になるからだ。

概ね大人になれば、自力を外へ広げることが目的となり、そこへ収束して行く傾向がある。

若いころは有名になる。などの個性を外へ広げることを目的とする人が多くいるかと思う。



話を戻す。
決定論の弱点は
運命が決定していようがいまいが、
意思と呼ばれているものを認知しその場で実行できてしまうことだ。


しかし、それすらも決定されたことと論者は言う
一旦論者の目的を鑑みてみよう
真理を解き明かさんとする哲学者ではなければ、
基本的に責任の所在を運命にすること
それを拠り所にすることによってある意味諦められ、心の安定が図れるのだと。


ただし本当の意味で拠り所にする為に決定論者が持ってこなければいけない宿題がある。
それは
・人生は全て決定されているという証拠と
・自由意思がないという証拠となる。

もちろん無理だ。



また、決定論を語る上で忘れてはならない理論がある
それはシミュレーション仮説だ。
ざっくり言うと全ての生活がシミュレーションであるとする仮説である。

これも面白い
一度は思ったことがあるのではなかろうか?

例えばドラクエ
主人公をコントロールしてボスを倒す。
村人Aは同じことしか言わず、プログラムによって制御されている。
私は壮大なゲームの中の1人でコントローラーは何者かに握られている。

ゲームのスイッチをオンにしたタイミングがビッグバンで、何者かの時間軸は人類の40億年が何者かの4時間程度、何者かにコントロールされる為個人の意思の介入はある様に見えているだけ、マルチバースは他のゲームの世界で、コンピュータの容量の一部。

ゲームの中の人、つまり村人Aが外でコントロールされているのを気付けない様に、この宇宙にいる人間もまた、ということだ。

いずれにせよ反証の可能性がないものだ。
人智的には存在しないも同然となる。


運命が決められている、いないは
現状物理的な反証、数理的な反証、帰納的な反証ができない。
夢を膨らませる楽しさはあるが存在しないと同義だ。



ただし運命を感じずにはいられない、神の存在を身近に感じる現象が1つだけある様に思う。それは全く意図していない、今はやめろと言うタイミングで起こる。

その1つの現象とは
・身体の一部がホットに豹変する現象

である。

当然決定論と言わんばかりに何の因果もなく自由意思を介さない。

それはほとんどの場合は規則性がなく起こり
偏りがあるとすれば
朝だちなみに解決策はないと言って過言ではない。

そう、自由意思を介さない決定論的現象が起こるのだ。
この現象は決定論の片鱗が隠れている可能性を否定できない。もしかしたらそれを突き詰めれば帰納的な解決の可能性があるかもしれない。
優秀な科学者、哲学者にこの難題を解いていただくとして、以上でこの不思議現象の件は終了する。


さて、
生きがいの創造とシミュレーション仮説の2点から運命が本当にあるかないかの検証をして行く。

次に自由意思だ。
もし運命があった場合
自由意思があるかないかを検証する。


◯運命があるかないか
生きがいの創造によると
運命は自分の魂が決めていて、イベント的な運命が現れ、自由意思によって決断する。

つまり
現世では運命論で
決定論ではない
自由意思も存在する。

またシミュレーション仮説でも言った様に
運命は存在しないと結論付けた。

よって
決定論的運命はなく
イベント的運命はある。




そして
自由意思はもちろんある
となる。
自由意思の認知は揺るがないし、決定論的運命もないからだ。

箸も持とうと思えば持てる
 だ。
揺るぎのない意思もあり感覚もある。

箸を持つ行為をしようと私が意思を働かせたのならば私個人は自由意思によって行動できたとなる。

もっと言うと
運命があろうがなかろうが自由意思が存在するという牙城は崩せない。
唯物論的な着眼であれば




まとめ
・運命論は帰納的に反証できる為存在する可能性がある
・決定論は反証できない為ない
・自由意思はある。



よって
運命決定論vs自由意思は
自由意思に軍配が上がりそうだ。



以上、お読みいただきありがとうございました!




あとがき
反証ができないから決定された運命はない
と言う着地となった。

しかしながら
見えない、聞こえない、
感知できないものが ない とするのは少々傲慢だ。

例えば量子力学的観点から言うと、観測者がいるのといないのとで粒子の状態が変化する現象が起こる。

つまり、
運命は自身を干渉するもの全て、例えば重力や思念、物理的な環境などが影響し合い決められている可能性も十分にある。

例えば山に行けば心が落ち着く様に、
都心に出れば浮き足立つ様に、

そうなると決定論があるとすれば5分前に決まるのかもしれない。
理屈は風吹けば桶屋が儲かるだ。

つまりずっと前から決まってたことでなく、直前に連続して決められて行く可能性があるということだ。

決定論がある場合そちらの方がしっくりくる

ただし現状はそれぞれの干渉バイアスが多岐に渡り複雑な為やはり反証できない。

現象を認知、感知できないのであればやはりとなってしまい

そしてまた堂々巡りが始まるのだ。



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