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孤独のススメ

Ⅰ.
 青い髪の彼女に夢中だ。ブルーはいつだって熱い色だけど、今回はレア・セドゥじゃなくて、Billie Eilishの話をしたい。

 どうしていつも好きになる女性は寒色を身に纏っているんだろう。自分は青や銀が似合わないからかな。

 初めて聴いたときは、有り体な表現だが衝撃的だった。メロディ、映像両者から溢れ出す悪魔的な世界観、不気味なサウンドに載せられる歌詞は"bury your friend"。でも、中毒性のあるベースと何よりも彼女の声自体に、どうしようもなく精神の奥深くが共鳴する。全く新しい体験だった。本当はこんなところに書いたりしないで独り占めしていたいくらい耽溺している。(既に画面越しに数億人と共有しているけど。)人生に無いものに触れるとき、私は恐怖心とともに常に強烈な引力を感じてしまう。

 この唯一無二の世界を生み出すビリー・アイリッシュ、どんな奇天烈な経歴を持つのかと思えば、彼女は2001年生まれのまだ17歳。インタビューでは本質をつくような清々しい言葉を吐き、確かにイメージ通りに格好いい。が、それでも家族について楽しそうに語るときは普通の17歳の一面を頻繁に覗かせる。

超可愛い。この人があんな歌詞を紡ぐ世界に私たちは生きているらしい。

 銀も似合ってしまうので個人的に超困る。

 15歳でデビュー、ジュリア・ロバーツ、トム・ヨークなど著名人のファンが多いことでも知られ、最新の曲bad guyは公開から1ヶ月半で既に1.6億回再生されている。彼女の何がそんなに人々を魅了しているのか。

 是非聴きながら読んでほしい。

Ⅱ.
 ファンが口を揃えて言うように、ビリーの曲は他と全く違う。彼女の曲を聴いていると、どうしようもなく自分の中の孤独が呼び起こされるのを感じる。これまでの、「俺たちは孤独じゃない系」が主流だったポップ・ミュージックとは明らかに一線を画しているのだ。
 彼女の発するメッセージは「私たち孤独だけど、どうしよっかね」という方向性だと私は捉えている。

 例えば、冒頭で紹介したbury a friendの"友達"というのは、自分自身の中に巣食うモンスター(自分の悪い面)を指すらしい。「like i wanna drown, like i wanna end me(溺れるみたいに自分を終わらせるみたいに)」自分の内臓を殺そうとする歌だ。16歳にしてこの歌詞を書いた彼女を、孤独と呼ばずしてなんと呼ぶのか?

 誰といつでも繋がれるデバイスと共に育った世代が、"若者"と呼ばれるようになって暫く経つ。私含め彼らは幼少からデジタルの恩恵を被る代わりに、あまりにも若い頃に、「誰とどれだけつながれても結局本質的に人間は孤独である」という事実に気がついてしまう。我々の世代においてPCやスマホの普及は、誰と繋がっても自分の孤独は増していくだけ、という経験を積むということを意味したのだ。
 もちろん、そんな我々にだってWe are the championsやWaving Flagは響くし熱狂できる。
 でも、"bury your friend"に画面越しで莫大な人数が世界中で共鳴しているというのは厳然とした事実であり、"i wanna end me"と繰り返す曲が1.5億再生されるくらい、今人々は不気味な孤独に突き落とされているのだ。

 そして、私は彼女の曲の根っこにある孤独感に通じるものを、あるものに対してずっと感じてきた。それは、クラシック音楽である。

 3歳からピアノをやっていて、小六まで嵐も知らなかったくらいクラシック音楽だけで育った。非常に論理的な解像度の低い議論になるのを先に詫びるが、私はクラシック音楽を聴くときも弾くときも、複雑に絡み合う音の重層的な揺らぎの根底にまっすぐの静けさを感じる。
 まだまだ浅学だが、著名な作曲家の人生を学ぶ中で、現代に残る名曲の一つひとつが、作り手が人生とこれ以上なく真剣に向き合った結果の産物であることを知った。(歴史の泡沫と消えた曲の全てがそうであろうので名曲に限ったことではないが、その重みについて書き始めたら本ができてしまいそうなので割愛。)
 手紙を書かないと、船に乗らないと、大切な人と繋がれない時代に、今よりずっと寿命の短かった彼らが、人生に真剣に向き合うということが、2019年に生きる我々が同じことに取り組むのとはだいぶ違ったニュアンスを持つことは想像に難くない。彼らは、我々の孤独なんて比にならないくらい孤独だったはずだ。遠くに行ってしまった昔の愛しい人なんて、確実に一生会えない。会いづらくても近況はfacebookで知れるとか、留学していてもinstagramで髪色の変化まで知れるとか、そんなふざけたことは一切起こらないのだ。
 ロマン派くらいまでの曲の持っている透明感や力強さ、清々しさは向こう側に孤独と覚悟を感じる美しい静けさで、これはそんな時代背景、如何しようもない孤独、諦念に由来するものなのだと解釈している。私はずっと、これこそが簡単に人間とつながれるようになった現代に失われかけているものだ、と思っていた。

"Chopin: Nocturne po.9 no.1": クラシックとかいう大きすぎる主語で語ってしまったのは反省している。とりあえずショパンを置いておく、理性偏重のバロック時代から一皮むけて、音楽家が自己表現を行うようになった頃の人だ。

 だが、時代はもう一歩先に行っているようだ。
 今我々は、生き方において、親世代よりも孤独を強いられている。みんなが一様に同じ方向を目指せばいい時代が終わってしまったためだ。ブルーオーシャン、AIに仕事を奪われる、ノマドワーク、人生100年時代などなど、新しい言葉たちが社会を闊歩し我々の脳に侵食し始めている。
 この時代に生きる我々は、自分で自分の人生を自分の責任でカスタマイズして生きなければならない。
 それは私たちにとって最大の喜びになり得ると同時に、"人生を共有できる人数が圧倒的に減っていく"ことを意味している。映画「耳をすませば」で雫のお父さんが言うように、「人と違う生き方はそれなりに苦しい」。これは"耳すま"の時代には明らかな、そして今でも一部は真実である。

「耳をすませば」ネットではただのリア充映画とされがちだが、強烈な恋愛感情と憧れに突き動かされて人生を考え始める主人公に自己投影せずにはいられない人も多いんじゃないだろうか?個人的には思い出がある大切な映画。

 用意されたレールになんとなく乗って、みんなと同じようなキャリア、ライフステージをなんとなく歩める時代は終わりかけている。ひとりで原生林にレールを敷いて、生きる術を自分の手で掴みながら生きてゆかなければならない。
 勿論必ずしもそうする必要はないが、「そう生きる人たちが成功し、達成感を得ながら充実した人生を生きられる世の中になってきた」ということ。「既存のレールにしがみつく人が損をする可能性が増してきた」とも言い換えられる。つまり、人と違う生き方を選択するのと同じだけ、人と同じ生き方をすることも難しい時代になっているのだ。日本人は今、新卒就職の三分の一が三年以内に会社を辞める。転職なのか起業なのか、何にしろ、この話は誰にとっても自分ゴトだ。

 昔の、「何も自由にならない孤独」を超越するための進歩の時代「皆でともに社会を発展させる時代」を経て、「全てを個人の自由で行える孤独」の時代がやってきたのである。我々は自由を獲得した代わりに、再び孤独を背負うことになった。
 Billie Eilishはこの時勢を背負って生まれ、曲を放ち続け、圧倒的な支持を得ているのではないか。
私は彼女の曲に、クラシック音楽と同じ静けさをどうしようもなく感じて、同種の静かな孤独を誘発させられてしまうのである。ピアノやオルガンが多用されていることも要因ではあると思うが、私は彼女の曲に過去への回帰を見出さずにはいられない。

"when the party's over":  彼女の曲の中で一番孤独を感じる作品。私はこんなに芸術的なMVをこれまで見たことがない。

Ⅲ.
 ビリーをアイコンと据える我々の世代(私より数年若い世代かもしれないが…)は、どう孤独と向き合い、受け入れて生きれば良いのだろうか。

 まずは、孤独は良くないことだという謎の思い込みは早く捨ててしまうことが肝要だと思う。
 一つ前のnoteを書いている間、私は驚くほど孤独だった。自分を直視して認めるプロセスというのは、いわば"他人との違いを可視化していく"ということと同義で、どうしようもなく孤独を深めるものだから。

よかったら読んでね。

 でも、投稿した後びっくりする数の素敵な感想を頂いたことで、自分の一番認められなかった部分(と認識することすらできていなかった)をこの1ヶ月かけて呑み込めた結果、好きな人のことを後ろめたさなしに好きだと言えるようになった。
 それから、意味がわからないくらい人生がすっきりした。勉強や語学や食事や健康にちゃんと気が向くようになったし、なぜか将来の方針も少し立った。(謎でウケる。)近くにいる多数の人間に内面の変化を指摘された。髪を切ったからってだけじゃないはず。
 何より、孤独でいいや、と思うようになった。自分のアイデンティティを確立することは自分を孤独にするけれど、それを認めてくれる人がいるということは、アイデンティティが不安定なまま数多くの人と様々を共有している状態よりずっと、私を幸せにしてくれる、ということを知ることができた。わざわざ文章を読んで、よかった、感動した、と言ってくれる人たちがいると言うことがどれだけ有難くて貴重で恵まれているのか身に沁みて、ここだけの話嬉しすぎて何回も泣きました。
 心理学的にも、孤独な時間が長い人ほどクリエイティブな発想ができるなどアドバンテージがあるらしい。(daigoが言ってた。)孤独をネガティブに捉えることをやめるのは、有用なライフハックだと言えると思う。

 では、孤独を受け入れた後は一人で生きるしかないのかというと、全くそんなことはない。というか当然それは無理だ。俺は一人で生きていく…的厨二病に陥らないためにも、私たちは一人では絶対に生きていけないということをまず認識する必要がある。「君たちはどう生きるか」の中でコペル君が唱える、「人間分子の関係、網目の法則」である。

吉野源三郎「君たちはどう生きるか」某恩師が勧めていると小耳に挟み、20歳の誕生日前に読んだ。生き方を考え始める契機としてとても素敵な本だと思う。原著も良いので是非小説の方も読んでみてほしい。

 身の周りを見渡すだけで、自分がどれだけの人間が関わって作ったものに囲まれ、食べ、支えられて生きているのかわかる、ということを主人公が発見したとき、世界中を覆う人々の協力関係に対して彼がつけた名前が、「人間分子の関係、網目の法則」である。

 これを認識した上で、孤独を受け入れた人間同士が互いに自立した関係を築くことは、理想の人間関係の形だと思う。 

 何ならそれ以外に完全に精神的に健全な関係を築くことなど不可能だ、とすら思う。半年と少しだけだが外国での一人暮らしを経験して、「ずっと実家暮らしの人とは結婚できない」という人間の言わんとすることが少しだけわかった。

 ただ、それをするためには孤独の中で誰かに強烈に依存せず、我を忘れず生きる必要があり、それの前提条件は自分を好きになってあげて、自分の素直な感情をそのまま受け入れてあげる度胸を持つことである。なぜなら、自分がそれを担う一番の適任者だからだ。どんなに仲がいい他人より、親よりも自分をよく知るのは結局自分である。
 でもそれを完全に実現できている人はあまりいない。と言うのも、我々は”普通"であることが良いとされる社会にいるから、普通からはみ出す自分の一部分(完全に普通な人間なんていないので、誰しもが持っている)を認めたり主張したりすることに対する壁が途轍もなく大きいのだ。

「ウチら棺桶まで永遠のランウェイ」唐突な宣伝だけど超お勧めしたいkemioのエッセイ。軽妙な語り口で真理しか言わないので、たくさん笑ったのに心に響きまくった。まず題名が真理。出る杭になって死ぬ瞬間までランウェイを楽しんでいこうと思わせてくれる。

 では、自分を好きになるためにはどうしたら良いのか?これは私たちにとっての永遠の課題だと思う。留学期間で自己肯定感が謎に爆上がりしている私の個人的な体験では、他者に対しても自分に対しても自分を隠さず、好きを好きだと認め、嫌なところも直視して認め、やりたいことをやり続けること、外の世界にも内面の世界にも嘘をつかず自己開示するのが一番なのかな、と思っている。その過程で背中を押して、認めてくれた皆様には本当に頭が上がりません。
 でも、もっと本当は明確な指針があったらいい。スペイン人とかイタリア人とかを見ていると「どうしたらそんな楽しく生きられるの?」と心底疑問だ。各位自分を好きになる方法論を持っていらっしゃる方は是非教えてください。私からは上のkemioの本をお勧めしておきます。

 精神的な自立さえ確立すれば、その後の人間関係のとっかかりは探しやすい時代になっている。孤独に生きながらどこかに同じものを抱える人たちとの関わりの場を作ることがビジネスとしてすでに流行し始めている。著名人の運営するサロンもそうだし、定額払えば日本中の拠点どこでも使えるシェアハウス、そういった空間作りが活発になっているのは、人間がムラの共同体で生活していた頃に通じる形態の他者とのつながりを我々が精神的に求めているからだと思う。
 地縁的な繋がりから完全に解放されて、自分から能動的に選んだ人たちとのそういった関係をデジタルを通じて享受できるのは、時代の有難みと言えるだろう。

Ⅳ.
 少し話は変わるが、では孤独と向き合って、孤独を得ることによる利点はあるのだろうか?私は今のところ三つ見出している。

 まずは言わずもがな、上記の孤独と向き合う過程で得られる自己の確立、自己肯定感、そして自己を開示した上で受け入れてくれる素敵な友人たち。

 二つ目は、他者と共有するものが減るということは、自分だけが知っている(と錯覚できる)ことが増えるということだ。
 インスタに全てを共有したがる人が叩かれがちだけど、インスタに何も共有しない人の方がきっと人生の中に独り占めしたいものが多いのだと思う。孤独に勝てない前者も、写真のないページから独占欲を感じる後者も、どちらの気持ちもよくわかるし、どちらも愛おしい。
 SNSは一人ひとりが自分を提示したい方法で共有しているだけの産物であって、そこから受け取る印象をその人自身に当てはめてしまいがちだが、それでは相手の術中にはまってしまっている。私は他者の着飾り方に感性を見るのが好きなので、SNSは楽しく使っているけれど。人にもよると思うが、SNSに載っていないことこそその人にとって大事なものといっても過言ではない。本当に大切な宝物は誰かに見せずに心のうちにしまっておきたいものだ。(というか、そういう人が好きだ。)
 つまり、他人と共有するものが減ることは孤独が深まることを意味するけれど、それは自分が独り占めできるものも増えるということで、これは孤独の気に入っている部分だったりする。プラスチックのキラキラした宝石を宝箱にしまってわくわくしていた幼稚園の頃と同じメンタリティである。誰も傷つけることなく独占欲を満たすことができるのはすごく楽しい。自他共に人間のこういう面はマジで可愛いなとよく思う。

 三つ目。勉強、思考せざるを得なくなるということ。
 人生100年時代、死ぬまで勉強をし続ける、よく聞くようになってきたフレーズだが、勉強する、思考するということは本質的に孤独を深める作業だ。どちらも積めば積むほど他者と共有できる知識や考えのパーセンテージが減っていくためである。
 でも、私はこれからも孤独を受け入れ続けて思考することをやめず、同じく孤独を愛する自分と全く違う人たちに惹かれ続けるのだと思うし、そうしたいと思う。どうしようもなく考えることが好きで、やめられなくなってしまったからだ。

 京大の現代文の過去問を初めて解いたとき、恩師に「あなたは考えながら生きることから始めたらいいと思います」と言われた日が懐かしく思い出される。彼女がいなければ今の私はいないので、99%の感謝と1%の恨みを抱えている。
 最近そのときぶりに、「自分の持つほぼ全ての要素が相手によって包含されている(超越されている)」という状態を経験し、その人間に強烈に惹かれ、全然足りない、もっと強烈に学び続けざるを得ないと覚悟を決め直した。脳内麻薬が私を盲目にしている可能性もあるが(全盲レベルなのはよーく自覚している)、自己認識がそうなのだから仕方がない。

骨抜きって嫌になるほどよくできた言葉で、彼女の前だと、強固に築いてきたはずの自らの骨格が全てしゅるしゅると抜き取られてしまう。

 別の好きな人間はずっと遠くに住んでいるけれど、こっそり言葉を覗きに行ってももう既に私では彼女の思考が掴めない。生きているフィールドと深さの違いが語彙の大幅なズレを生んでいるためだ。思い返せば、遥か昔人生が交差していた時期からずっとそうだった気もするが、独りで互いの道を進み続けた時間はやはり距離を顕著にする。この事実に由来する寂しさや絶望感を拭うことなど全くできない。それでも、あの人にまた会うために生きているのだというくらい、私は己の道をゆく孤独な彼女に焦がれ続ける。
 だから私も、自分の道でもっと学ばなければならない。これまでに出逢った、またはいつかこの道の先で出逢う、自分とより違う、より素敵な人たちとより粋な会話を楽しみ、より愛おしい関係を築くために、いつまでも勉強や思考をし続けたいし、しなければならない。この強迫観念に駆られること自体が、「孤独を受け入れ、同じく孤独を受け入れて生きる人間と関わって生きること」の強烈な特徴であり、かつ利点とも捉えられると思っている。何故だかわからないが心地いいのだ。私なりに全力だからか、日々生きている、死に向かっているという実感がある。命を削っている感覚が中毒的なまでに清々しい。

 ところで実は、心理学的に人間は相手との共通点に惹かれるらしい。正直とても腑に落ちる。でも、無意識下の心理がどうであれ、共通点は「自分と違う人を許容し愛せる」ということだけでいい、とも強く思うのだ。たれ目で赤が似合う私はいつだって、青が似合う鋭い切れ長の瞳に惹かれてしまう、磁石みたいに。それでいい。私は多様性の時代に同調圧を祖国に持つ人間として、自分を愛すのと同じだけ、他者との違いを愛して生きていきたい。大好きな人間を見習って自らの信じるランウェイを堂々と闊歩して生き、そこで出会う人たちと共に生きたいのだ。
 私も、私の大切な人たちも、私の知らない人たちも皆、自らの選択した道を独りで進みながら、心から惹かれる、けれど互いの違いを愛せる人たちと共に人生を楽しみ続けられますように、と祈らずにはいられないのである。


 ここまで書いて気づいたのは、全容の一部であっても思考を言語化して友人や会ったことのない人達ににシェアしたい、と自然かつ無意識に思っている時点で、自分は孤独を呑み込みきれてはいないのだなということだ。だからこそ、自分とは明確に差がある、孤独を突き詰めた芸術を放つビリー・アイリッシュや、明確な思想を躊躇いなく表し続けられる人間たちに心臓を囚われるのかもしれない。
 ともかく今は、自分のそういうとこ可愛いな〜と呑気に俯瞰できるくらいには肯定感がある幸せ者なので、ここまで読んでくれた皆さんへの感謝を記して文章を締めつつ、図書館に向かって孤独を深めるプロセスに戻ろうと思う。
 前回の文章に、直やメッセージやお手紙(!)で感想を寄せてくださった皆様のおかげでここまで自分を認めることができました、ありがとう。そして今回も試験前の現実逃避にお付き合いいただきどうもありがとうございました。孤独よりも試験から解放されたいです、切実。

"Ravel: Jeux d'eau" 最後に、クラシック音楽の中で一番好きな曲を貼っておく。仏語圏より独語圏の文化の方が総じて好きだけど、音楽家は何故かいつもフランス人が好きだ。孤独を呑み込む覚悟を決めたら、戯れる水のように自由に遊びながら生きていけたらいいよね。

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