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凡人起業のリアルと末路【前編】

僕は”人生偏差値55”の凡人を自任しています。特別スポットライトを浴びず、華々しい経歴もなく、ただ自分が信じる世界観を人生の結晶にすべく奮闘しているどこにでもいる普通の人。(少しだけ異なるのは早期に会社員を卒業したことくらい)これが僕の自己評価です。そんな僕でも起業してもうすぐ20年。この間、どんなリアルがあったのか。それを以前ブログにアップしたのですが、noteに加筆修正して残しておきたいと思います。

青年実業家という言葉は死語になり、ベンチャー起業家、スタートアップと言葉は時代により変遷してきました。しかし、変わらないことが一つだけあります。常に一難去ってまた一難の生活。この水門をくぐれば、次はどんな水門が待っているのか?それとも大海原に大きな船で漕ぎ出せるのか。ヘッダーの写真は、僕の毎日の心境を露骨に物語っています。

このお話は、孫正義のように劇的にダイナミックな起業家の話でも、億単位の資金調達をしてIPOを目指すユニコーン型起業でもなく、はたまた「お片付け」で世界的な地位を築いた”こんまり”のような突き抜けたプロフェッショナルの話でもありません。

どこにでもいそうな、きわめてどん臭い男の等身大の話です。人のどん臭さを読み、少しでもあなたの勇気に変えられるのであれば、著者冥利に尽きます。

1.起業を決意した1995年

僕が将来の起業を決断したのは20歳の時です。当時、大学生だった僕はそろそろ進路について考える時。でも、進路を考える基準は全て「負」の思いの解消のため。人間的魅力はないのに勉強だけはできた高学歴な友人に負けている現状をなんとかしたい。その一心だった記憶があります。先に社会人になってた彼女には夢なんて叶わないもの!と否定され。大企業で部長だった親父からは一流企業への就職こそ人生と言われ。

全てを見返したかったね。とにかく。

なんて窮屈なんだろう。「ひがみ、やっかみ、うらみ、にくしみ・・・」

全ては語尾が”み”のつく言葉で毒されていました。

そんなときに、彗星のごとく僕の目には孫正義さんが飛び込んできます。ソフトバンクが朝日テレビに買収を持ちかけたあのニュース報道。そして孫さんのことを調べ、人生50年計画を知ってまた衝撃を受ける若き日。

この年、時代はWindows95の大ブームで新たな世の中が幕開けする時に差し掛かりました。

そっか、こうやって自分で運命を切り拓く人生があるんだ。いや、運命を切り拓いていっても”いいんだ”。どこか安堵感を覚えましたね。政治家になって大きな力で社会を変えていくか。それとも起業して一発逆転でまわりを見返す人生を歩むか。大きな選択肢だけを描いたまま、行き詰まっていた自分の進路。孫さんという存在を見た時、自分の運命は決まりました。それからは、孫さんの全ての書籍を読破。追っかけのように講演会や講演ビデオを毎日観て・・・。そして、僕なりの人生計画を考え、起業アイデア100個の構想を自分にノルマ化したのです。

そのアイデアとは・・・

【考察】

起業への動機は20歳の時の”凡人コンプレックス”にあった。

2.ネット革命前夜

20歳の時に起業を決断してからアイデア100個ノルマを課してみたのです。もちろん目をつけたのはインターネット産業です。1995年にはじめて大学内のインターネット説明会に参加。参加者は全校で5名だったけど、翌年は300人以上に。ブラウザーは、ネットスケープが王様の時代。まだ数えるほどしかない情報のYahoo!が世界を席巻始めた頃の話です。

まずは、

・ホームページ制作請負
・ネットエンジニアの派遣
・ネット活用のスクール、研修事業
・出会い系サイトの運営
を構想。

次にメール文化の爆発も予測。当時はまだニフティの専門通信が全盛の時代。先回りして、

・メルマガの配信で広告収入
⇒ 後に「まぐまぐ」がブレーク
・無料メールのシステムで広告収入
⇒ 後にHotmailがブレーク
・ビジネスマン向けに好きな情報だけ厳選して有料で情報配信
⇒ 今の、Gunosyのモデルを構想。

大小合わせてネット関連ではすぐに10個ほどのアイデアが出ました。我ながら先見性も悪くないし、それなりに筋の良い企画だったと思います。その後の世界を見ると普通にビジネスとして成立していますからね。

ちなみに、当時の僕はワープロすら使えない超ド級のITオンチ。就職活動の資料請求は手書きハガキ、卒業論文も全て手書きレポートです。そのため、自分でスキルを身に着けて・・・ではなく、スキルのある人材を活用すればいいという発想は当時身に着けたものです。

しかし、正直に告白するとネット産業については少し懐疑的でした。更に言えば、アナログ好きの自分としてはピンと来てなかったのが本音なのです。だから、アメリカのネット産業の勃興を見て身体に衝撃が走ったという後のネット起業家とは、この時から違っていたのだと思います。

こうしてネット以外のアイデアも探ることになったのです。起業アイデアのネタ帳は、アナログ系の企画が書き込まれ、そちらの方が増えていきました。歴史に「もし」はありませんが、「もし学生時代にネットビジネスで起業していたら、どうなっていたのだろうか?」、今でもそう思う空想の時があります。

【考察】

この時に、もしネット分野で学生起業していたら・・・しかし、人生やビジネスに「もし」は通じない。

3.結局、いったん起業は断念

時は21歳(1996年)の頃、起業ネタとしてIT系以外もネタ帳に増えてきました。

・モバイルPC、携帯電話専門店
・立ち飲み専門多国籍フードコート
・格安なオーダーメード服
・高度技術シニアの人材派遣
・ベトナムでの総合アウトソーシング

30個ほどありましたが既に当時のネタ帳も記憶にも残っていません。

これは、何を意味するのでしょうか?

大して思い入れもなく、ただ頭だけで”考えた”だけということです。せっかくネタがあっても情熱や仲間がなければ起業には至らない。色々とアイデアはありましたが、結局、熱が高まらず、まずは就職することを考えました。起業アイデアがあっても、社会や企業のことを何も知らない。このまま学生起業しても、あまりにも無鉄砲すぎるな。そう考え、いったん就職してアイデアをブラッシュアップしよう。さらに、営業スキルを身に着けつつ、社会の矛盾も理解し、資金も貯めよう。28歳までに1千万を貯めて、20代のうちには起業しよう。(当時の会社法は会社設立に有限で3百万、株式で1千万必要でした)

こういう風に起業までの道のりを現実路線に修正し、いざ就職活動をスタートしました。

そこで、就職先として選んだのが・・・

【考察】

アイデアだけの起業は心もとない。

4.起業前の就職活動は戦略的に

学生起業をやめていったん就職を決意した僕は、就活に3パターンの仮説を立てました。

・ベンチャー企業で修行する。
・コンサル会社で経営を知る。
・大企業でスキルとお金を貯める。

そして、当時華々しかったベンチャーをまずは熱望(当時はスタートアップではなくベンチャー企業という言葉が定着し始めたレベルの時代でした。)

・ソフトバンク
:PCソフトの流通からネット企業へ

・CCC(カルチャーコンビニエンスクラブ)
:ツタヤ以外に衛星放送事業に挑戦中

・パソナ
:派遣会社なのに社内ベンチャーを複数

この3社にエントリーしたものの、最終面接やいいところで敗北。受験の時と同じく、またテスト関連では惨敗だったのです。その他にも当時無名のベンチャー数社やコンサル会社も回ったもののどこかピンと来ない状態でした。というより、正直言ってかなりの挫折感でしたね。時はバブル崩壊後の就職難が叫ばれ就職も危ぶまれる時代。

あ、ちなみに後に社会問題化する商工ファンドも回ったし、ベンチャーリンクや船井総研も行ったし、キッコーマン、アサヒビール、オリックスなど一流企業も行ったし。。。最後は、受付のお姉ちゃんが美しすぎて、本社もオシャレという基準になり、ワールド、ノエビア、田崎真珠など神戸のファッション系を攻める迷走ぶり。親父にはコネ就職の選択肢も提示されたがこの時の屈辱感は半端ないものでした。それだけ進路にさまよい始めたというわけです。

そんな時、当時の彼女とは喧嘩別れ・・・

イライラしながら面接行ってもどこも採用されるわけもなく。。。

もう就活時期のピークを過ぎた時、やっと思考を切り替えました。少しだけ給料が高く、時間もゆとりがとれそうで、大企業の矛盾も知れて、当時苦手だった営業とITが学べる会社。つまり、就職先の選定はじっくりと起業準備ができるかどうかを基準にするという意味です。こんな基準で、ついに富士通の子会社に滑り込んだのでした。

そして就職してから、さっそく起業準備に取り掛かかりました。

起業準備でしたこととは・・・

【考察】

やっぱり、僕はエリートにはなれなかった。

5.山一証券破綻の1997年に就職

学生起業をやめていったん就職した22歳。富士通の子会社に入ってから各種新入社員研修を受けるものの・・・。入社して初日で企業社会は肌に合わないと実感したのです。何個、稟議書にハンコ必要なんだ!何だこの派閥は!何だこのお世辞は!挙げだせばキリがないのでやめておきましょう。

当時はウィンドウズ98の発売前。ソニーのVAIOも参入前、DELLはマニアだけでしたから、実質、富士通、NECの2トップ市場。富士通系だった僕は驚きましたね。富士通という看板がつくだけで寝てても発注が来るわけです。朝礼を終えて、行ってきます!と言いながら、営業はよくさぼったなぁ。それでも、一度、営業成績の上位ランキングに入って表彰されたのです。大企業の看板力と個人の持つ力の無力感に包まれた虚しい時代でしたね。そして、営業行ってくると言いながら、昼から合コン、ボーリング、カラオケ、映画にドライブなどとにかく遊んでいた記憶があります。

ただし、起業の準備のようなものだけは一生懸命に考え、何か試行錯誤する日々を過ごしていたのです。起業ネタを思いついてはノートに記述、同時に通信教育でしたが大前研一さんのアタッカーズスクール(起業塾)へ入塾。マッキンゼーOBコンサルが事業計画を斬っていく姿はすごいな~と感心しつつ・・同時にお金を貯めるために、いくつかの選択肢を検討しました。

1)夜中と週末にバイトをする
2)投資活動を行う
3)派遣社員になって仕事を掛け持ち

絞られたのはこの3択ですが、バイトや掛け持ちは体力的に続かないなと。で、生活を切り詰めて給料と賞与の殆どを株式投資に充てました。まだYahoo!の上場前の景気がいい時代、その後Yahoo!銘柄は一株1億円という時代がやってくるのです。そのため、平日昼間も営業に行かずに証券会社まわりして担当者からひたすら株の情報収集を。当時、ネット証券がない時代でしたからね。(スマホで株を買えるなんて今とはまったく違う時代です)

それでも、大企業特有のある種の虚しさを抱え、起業準備をしつつ、結局は、1年2か月後に退職することに。こんなぬるま湯で仕事をしていたら起業準備は進んでも、仕事力は全く身につかないなと。こうして、今度は無名企業への転職活動も並行して進めることになったのです。

次に選んだ会社は・・・

【考察】

僕は「ぬるま湯」環境で働くのは肌に合わない。

6.3年どころか1年半で退職

新卒で入った1社目のぬるま湯体質に嫌気がさした頃、すぐに起業するつもりだったけど・・・。もう一社だけ”ちゃんと”仕事力を身に着けるため転職を意識し始めました。条件は無名企業であること。その割には給与が悪くないこと。そして大阪であること。これが条件です。

無名企業に入り大企業の看板力に頼らずに自分の営業力で仕事をしたい。また起業資金を少しでも貯めるために大阪の実家に住むことが条件でした。そして、転職した先が、商社での半導体の営業、大阪支社配属。大手メーカーの電気回路の設計者に半導体を売り込む仕事でした。コテコテの文系族の僕には結構きつい仕事でしたが、とっても良い会社でしたよ。外資系のシビアさと日本企業の良い部分を併せ持つという思想で経営されていたからです。また、営業の仕組み化、挨拶、掃除などのしつけを含め、基本の徹底も今を思えばとても仕事の基本が身に付いた気がします。

そして、時代はネットバブルが始まり、東京ではビットバレー構想が騒がれ出し始めました。起業資金用に投資していたIT系の株銘柄は全て高騰し、起業熱も高まっていったのです。そして、ついに1999年の秋に世紀末の大きな決断をしました。自分の性格を考えると、このままダラダラと会社員を続ける危険性があるな。それなら、まずは「期限」だけを決めようと起業スケジュールを検討。そして、2000年度中に起業することを決断。1999年の暮れから起業までのカウントダウンが始まりました。

カウントダウンに入ってからの起業までの細かい段取りは・・・

【考察】

「期限」を決めれば、物事は動き出す。

7.起業までのカウントダウン

転職して入った会社でも初年度から起業準備を始める始末。2000年内に起業すると期限を決めてからは快感の毎日でしたね。資金はネットバブルに乗じて株の利益だけで300万以上作りました。当時は、ソニー、京セラ、ミスミ、イマジニア、住商エレクトロニクス他ミニ株を含め店頭公開企業へも投資。とにかく何でも値上がりしていた異常な時期で、営業の合間に携帯で株価を常にチェックする有様。さらに、IPOを目指した壮大な構想もいいけど、すぐに始められる事業ネタも再度整理していったのです。

そこで起業ネタの条件を挙げてみました。

・元手があまりいらない事業
・モノづくり、物販ではなくサービス業
・純粋なネットビジネスではなくアナログ系
・当時住んでいた大阪からでも始めれる

特にネットビジネスがこれからという時にアナログ系を選ぶというのはミソでした。ネット系で手軽に金儲けしても事業経験が少ない自分は長続きしないなと。それなら商売人として足腰を鍛えるため、まずはベタなアナログ事業がいいだろう。当時、皆がポータルサイトをつくって広告収入で成長させIPOを目指します!こんなワンパターン起業家が多かったので僕の発想は珍しく地味だったことでしょう。

こうして、資金の目途(有限会社レベル)が立ち、起業ネタが絞り込まれていきました。後は起業ネタを決め、退職の最終期限を自分で設定すれば、いつでも起業できる。そんなカウントダウンもエンディングに向かっていったのです。ちょうどその時期は親父が会社を退職して、入れ替わるように僕は起業なので、本当の意味の世代交代を実感した時期でした。

そして選んだ起業ネタとは・・・

【考察】

自分の人生は自分で切り開くという初志貫徹が大切である。

8.ついに起業のため2度目の退職

起業までカウントダウンに入ってからその時期は案外早くやってきました。2000年に独立すると決めた1月には退職したのです。ネット広告の代理店事業をやるか、それともアナログ系をやるのか。最後まで悩みましたが、選んだネタはパソコン教室でした。ベンチャーの船出としてはかなり地味ですよね。

当時、PC教室は花盛り。また光通信(ベンチャー企業の旗手)の絶頂期。光通信はこの翌月に、バブルが崩壊していきます。大阪の千里中央近郊の高級住宅街でお金持ちのシニアを対象にパソコン教室を開く。このベタな発想は、元手いらずで地元なので地の利もあります。またインストラクターが雇えなくても顧客はダブルクリックもできないので、最悪、僕が先生として教えられます。

こうして、持ち株を全て売り、貯金と合わせて会社は600万円、個人は80万円の貯金で船出。資本金600万円の有限会社を設立し、PC教室をベースに、シニア向けサービス業を次の事業展開で模索しました。当時の会社名は、「有限会社エフティーシー(FTC)」。For the customerの頭文字です。(全ては顧客のために)前の会社を退職して、各種起業準備に約2か月。コスト削減のために、登記から経理から、不動産探しから当然ですが全て自分でやりました。こうしてついに2000年3月に正式にスタートするのでした。

ところがこの起業は、はじめから大きくつまづくのです。

なぜなら・・・

【考察】

決断したら、一日でも早く行動すれば不安はなくなる。

9.あれ?お客さんが来ない・・・

2000年3月にパソコン教室を開業。これをベースに様々な事業を展開するべく意気揚々としていました。そして開業時には、キレイな広告配布用チラシ、各種看板類をそろえ宣伝活動で打てる手は全て打ちました。後はOPEN当日の集客を待つだけ。そして高揚した気分で迎えたOPEN当日の朝。

おかしい・・・。
電話が一件も鳴らない・・・。

広告への電話番号の記載ミスかな?全て調べたがそんなはずはありませんでした。そして、朝から待ちわびた電話が一件鳴ったけど間違い電話だけ。こうしてOPEN初日は、何も起こらず問い合わせもゼロで終えることになりました。チラシをちゃんと見てない客が悪い!なんで大切な情報を見落とすのだろうか。ありえないような被害妄想と責任転嫁の気持ちが蔓延し始めました。

顧客がゼロというのはキツイ。
問合せすらないのはもっとキツイ。

はじめて挫折した瞬間でした。その後、半年近く低空飛行で殆ど集客も出来ず。さすがに、心が折れそうになりましたね。そして毎朝事務所(教室併設)への出勤前に半径1キロ以内の近隣の住宅に全て一人でポスティングをしてまわりました。近隣は高級住宅街だったこともあって、「ええなぁ、オレもいつかこんな家に住みたい」そう思いながらポスティングするものの、高級住宅ほど番犬は大型で凶暴。どれだけ吠えられたり、暴れられたことか。あの時、金持ちの番犬に何度も吠えられながら、ポスティングした時の沈んだ気持ちは今でも忘れません。この時に起業してはじめて「ひがみ、やっかみ」の気持ちが出てしまいました。

こうして半年近くが経ったころ、突然情勢が一変し始めたのです。ある時期を境に、電話が殺到しだしたのです・・・

【考察】

顧客は、簡単には問い合わせすらくれないものである。

10.閑古鳥状態は突然解消する

2000年3月にパソコン教室を開業し、半年間は鳴かず飛ばずでした。が、しかし半年が経とうとする頃突然電話や契約が殺到しだしました。恐らく打つべき手を全て打ったので天からギフトをもらえたのでしょう。そうこうしているうちに、生徒数は150名を突破。資格取得を目的にする専門学校系を除いた地域密着教室ではエリアNo.1に。そしてクチコミは地域内に拡散し、初の社員(インストラクター)を採用。

その年の暮れには、人生ではじめて社員に賞与を渡せ、本当にうれしい思いをしましたね。賞与なんてもらえないということが前提で入社したので・・・という社員に、わずか給与1か月分ですが賞与を払えたという事実は大きいものです。ささやかなクリスマスプレゼントを渡すことになりました。そして、街の中小企業へのパソコン導入サポート、インストール、各種設定、さらにはパソコンの家庭教師の派遣など重層的にサービスを重ねていきました。こうして正社員1人とパート3人、僕の5人チームで小さな成功フォーマットが完成していったのです。そして、起業から一年が経とうとした頃、僕の行く手には2つの選択肢がありました。

①この事業領域で事業を拡大していく。
②既存の収益を基盤に新たな事業を行う。

それからは、社員に教室を任せ、僕はひたすら情報収集と構想の日々。人に会い、構想し、企画書に落とし込む。異業種交流会でプレゼンして反応を見る。これを繰り返す日々でした。

そして僕が選んだ選択肢は・・・

【考察】

すぐに結果がでないことも、時を越えて必ず返ってくる。

11.起業1年後のリアル

起業後鳴かず飛ばずから半年して急に軌道に乗ったPC関連事業。次のステップでPC関連事業を大きく伸ばすのか新たな事業を立ち上げるのか。選んだ道は後者でした。PC関連事業では当時目指していたIPO起業家は難しいモデル。そしてシニア層向けの何か生活支援業を目指し情報収集と構想を繰り返す日々でした。そんな起業から一年が過ぎようという時、内的要因と外的要因の大きな変化が起き始めました。

一つは、異業種交流会で知り合った経営者から新規事業の立ち上げをサポートして欲しいとオファーが舞い込んだのでした。プレゼン会で鋭い質問を繰り返す26歳のあの若い兄ちゃんは何者?そんなキャラと視点を買ってくれたある社長が事業アドバイザーとして、週一回の会議出席と実務サポートで月15万円でコンサル契約をしてくれました。コンサル?オレはコンサルなのかぁ・・・。この時生まれて初めてコンサル契約というものを目にしたのです。まったく予期しない仕事が舞い込み、個人向けのPC関連事業の裏稼業として他社向けの業務支援が始まりました。これが、今のコンサルサービスへも踏み込む一番のキッカケになったのです。次々と新しい企画に携われる仕事は、飽き性の僕にはピッタリですぐにハマりましたね。

そして、それを後押しするかのように、社会情勢は一変していったのです。光通信の株は暴落してネットバブルが弾け、時の宰相森総理が国の予算を使ってパソコン教育事業をIT講習会と称して始めていったのです。IT講習会とは無料でパソコン教室を自治体を通じ、展開するというもの。いかなるマーケティングもデフレ経済下の無料サービスには太刀打ちできません。

この2つの要因で、一気にPC教室の事業環境が悪化し市場は急下降。みるみるうちに、顧客と残高は激減していったのです。そして、ついに僕はある決断をすることになっていきました。

その決断とは・・・

【考察】

やりたいことは、人のご縁という偶然が運んでくれる。

12.やむにやまれずピボットを

ちょっとしたご縁からコンサル業に足を踏み入れたちょうどその頃の話です。パソコン教室ビジネスは既に集客が困難な状況に陥ってきました。そのため、パソコン教室と関連事業を閉めて食い扶持を探すしかなくなったのです。こうして必然的に本格的なコンサルデビューと業態転換(ピボット)が決まりました。そうなのです、僕はコンサルを目指して、また成りたくてなったわけではなかったのです。後は、そのXデーを決めるのみ。

ただ、店じまいするにも撤去にコストがかかることをこの時はじめて知りました。そのため、色々なツテをたどって、地元の名士さんに引き取ってもらうことに。なので、僕のプロフィール上は、当時の事業を「売却」と武勇伝のように書いていますが・・・。そんな華々しいベンチャー起業家の事業売却とは異なり、撤去費用に毛が生えた分くらいのお金で引き取ってもらった。これが実態です。

こうして、急速に激減した残高と譲渡で得たお金の合計は、たったの100万ほど。新たに100万円からの再スタートを切ることになったのです。起業時は資本金600万円スタート。事業閉鎖時は100万円の再スタート。ま、凡人起業家らしいね。

PC関連事業を手放した僕はスッキリとした気分でコンサル稼業に夢を描き始めていました。次は、異なる分野でまた事業を立ち上げ、第一人者になろう。コンサルで食っていくなんて格好いいね!自画自賛の自分に酔いしれ、高揚した気分で、閉鎖の翌日を迎えました。

ところが、ここから長く苦しい冬の時代を迎えるハメになったのです。

なぜなら・・・

【考察】

決断が、運命の歯車を動かす。

13.なぜかコンサルデビュー

やむにやまれず事業を閉鎖し、コンサルに業態転換したものの、顧問先は1社15万円のみでした。つまり月商15万だけですから、みるみるうちに残高は減り、精神的にもすり減っていきました。仕事が無いことがこんなに精神的にキツイのか。残されたのは余りある時間ばかり。焦りだけが続いていきます。冷静に考えてみれば、コンサル経験も資格も実績もない26歳の若い兄ちゃんに経営相談してくる人なんて皆無であることは当たり前のことだったのです。

それからはまず自信を取り戻し、知識を身に着けるために経営書を読み漁りました。そして、写経のように要点を書き出し、自分の考え、自分のやり方を整理し、ひたすら独自の経営レシピづくりに専念。当時はとにかく大前研一さんがまぶしかったですね。擦り切れるくらいに講演ビデオも毎日見て、話し方まで似てくる始末。上から目線なところまでというオマケ付で。大前さんの書籍は全て読破。ついでにボスコンの堀さんやグロービスのこれまた堀さんの本も。お金がないから何かのスクールにも行けないのでひたすら独学で格闘。

日経新聞と日経ビジネスは、切り抜きまくり!女性ファッション雑誌からハーバードビジネスレビュー、そして週刊大衆までトレンド分析と理論構築に、毎月30誌程度の雑誌ももちろん読破。ジャンル別にファイリングして、自分なりの見解をメモ書き。フロッピーディスクに時間をかけて保存し、当時のPCはよくフリーズして、何度も書いたワードのデータが吹っ飛び・・こうして一人稽古や企業事例からの仮説づくり100本ノックをこなしました。

でもね、いくら知識が身についても顧客がいなければ意味がないことに途中で気づいたのです。さて、どうすればいいのだろうか?困り果てて書店に駆け込んでみました。そこで、その時に、当時の零細企業経営者は皆がはまった神田昌典さんの書籍に出会い、むさぼるように読みましたね。

そして、その通りに実践してみたら・・・

【考察】

独学は時間がかかるけど、今の基盤はこの時にできたといっても過言ではない。圧倒的な自信とは、自己との格闘によってできるもの。

14.食えない不毛時代がスタート

コンサルデビュー後、知識を身に着けながらも顧客開拓に頭をひねる日々。当時ブレークしたての神田昌典さんの『あなたの会社が90日間で儲かる方法』。この書籍で顧客の感情をゆさぶるコピーの書き方やDMの作り方を習得して即実践してみました。FAX DM、小冊子、縦書き新聞に横書きの広告文掲載など。まずはFAX DMです。商工会議所や中小企業同友会の会員名簿で当時はWEBでも各種連絡先が公開されていました。そこで、上から順番に自宅から徹底的にFAX攻撃。音沙汰がないと知ると、会社のHPのお問い合わせフォームから営業メールを書き込み。それでも音沙汰がないと、電話をかけて、「あのぉ、DMは見てくれました?」と。

いやぁ、きつかったですね。2000件にコンタクトとって、アポがとれたのは3件だけでした。このころは、神田メソッドが大流行しすぎて顧客側もDM攻撃に皆が迷惑していた時期だったんですね。アポがとれた3件に訪問してもコンサルはいらんから、君が社員になってくれと。社員として誘われるのは本来は光栄なのですが、僕の立場的には屈辱というもの。コンサルという目に見えない知的付加価値サービスって本当に営業が難しいのです。しかも、ケチでシビアな大阪でコンサルの営業ですからね。この大変さは大阪の同業の方なら分かるはず。情報や目に見えないサービスは当時は東京でしかお金を払う文化が出来ていませんので。しかも、大阪は万年不況と言われた府政もやる気を感じない最悪の時期。

しかし、孤軍奮闘した甲斐があって、三か月後にはこの3社のうちの1社からなんとか受注が出来て、やっと月商は30万円に。でも、30万円では到底この先、生きていくことは出来ません。

そこで、サイトを立ち上げ、当時ブレークが始まった「まぐまぐ」でメルマガを配信スタート。負け組の僕が「勝ち組経営講座」というタイトルを執筆してたのですから本当にお笑いものですよね。※ブログ、SNSはない時代。通信回線もISDNの時代。ところが、そう簡単に顧客開拓など進むわけはありません。そして一つのことを起爆剤として思いつくのです。

「そうだ!本を出そう!」

そうすれば知名度が上がって、年齢や経歴と実績もカバーできる。営業に行かなくても、向こうからオファーが来るはず。本を出して、一気に挽回だ!

そう思い、まず始めた行動とは・・・

【考察】

目に見えないサービスは、もっとも売るのが難しい商品である。

15.出版でブレークスルーを目指す

コンサルデビュー後の顧客開拓に悩む中、出版デビューを思い立った頃。当時はメルマガの内容を書籍化するという流れがありました。そこで、僕もご多分に漏れず、メルマガをベースにした出版を検討しました。内容は中小企業の経営者向けに安売りしない手法を説くもの。そこで、大阪からTELアポで30社ほどにあたり、「持ち込み原稿はOKですか?メルマガをベースにしてますが、企画書を見て頂けませんか?」こんなトークでアポ取りと30社へ企画書とサンプル原稿を郵送してみましたが・・・殆どは無視状態。

出版もダメかぁ・・・

八方塞がりでへこんでいる時、同時期に3社から連絡が入りました。2社は、ご丁寧な不採用のご連絡。しかもなぜ不採用なのかのフィードバックが手書きで返答。「現在の当社の求めているものとはずれてるけど、君は文章が上手だから次の機会に期待しています」と。この言葉に少しだけ救われました。そして、この2社プレジデント社とダイヤモンド社の誠実な対応は未だに忘れません。(※まだお付き合いありませんが、いつか・・)そして、3社目からはぜひ会ってみたい。そういってご連絡を頂きました。3社目は某社としておきます。

ところで、東京など首都圏在住の方には、この「会ってみたい」の重みが伝わりにくいかもしれませんね。出版社は基本的に東京にあります。たとえば東京の場合、異業種交流会に出れば、編集者はもちろん、出版プロデューサーならいくらでも出会いの場があります。ところが、例えば僕の住んでいた大阪にそんな出会いの場は皆無でした。未だにマスコミ関連は東京一極集中が続いているので、「出会いの場」という意味ではすごく首都圏以外は不利です。東京に来てはじめて編集者の方と名刺交換した時はミーハー的に、かっこえー!って叫んだくらいですから。

で、たまたま某社の編集者が、手掛けた著者の出版記念講演が大阪であるからと出張で来ることに。その「ついで」にだったら、会ってもいいという条件でお時間を頂きました。暑い日の昼過ぎに本町のスタバで過ごした30分間は忘れません。この30分間をものにするかどうかで人生が変わる。そんな意気込みでしたから。そして話し合って出た仮タイトルは『小さい会社がとことん儲けまくる7つのルール』というものです。

当時は『小さい会社の~』系が流行ってた時期だったので話は盛り上がりました。そして、キミは話が面白いし、このテーマなら旬なので一度書いてみてほしい。このテーマで出す”方向”で考えよう。こんな言質をとりつけることに成功。そして意気揚々と早速執筆に着手するのでした。

ところが、最終的にはこの話は自分の実力不足と経験不足によりボツになってしまい、また振り出しに戻ってしまいました。いや、八方ふさがりに陥ったという方が適切な表現なことでしょう。(この当時の出版活動のことの顛末はnoteに書いているのでこちらも併せてお読みください。)

こうして、またここから悪夢が始まるのです。

【考察】

自分のことを売りこむのは、能力ではなく大量行動である。事業も出版活動も変わりはない。

【後編】”へと続く・・・

著者・思考の整理家 鈴木 進介

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