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映画『オッペンハイマー』を観るときに日本の観客はどのように肚を括らなければならないか?

ハリウッドと日本の映画業界を比較するのは、米軍と自衛隊を比較するようなものなので、比較自体にはあんまり意味のあることではないように思われます。『オッペンハイマー』は、その違いがいよいよ身に染みて分かるような映画だった。

 比べてみると:
ハリウッドも米軍も、もともとの勢力範囲が共産圏以外の全世界で戦略上の対象範囲は全世界。
邦画も自衛隊も、国内向。海外はおっかなびっくり。

ハリウッドも米軍も、見境なくリソースをつぎ込み続けてきており誰も追いつけなくなっている。
邦画も自衛隊も、国内でなんとかするにしてもリソースが足りていない。

ハリウッドも米軍も、理念・理想を前面に出すので見境いのないリソース投入がある程度正当化される。
邦画も自衛隊も、理念を表現したり理念を実現する手段ではなく、映画なら面白さ自衛隊なら防衛という機能のみが期待されている。従って安上がりに越したことはなく、大量リソース投入を正当化する志が生まれにくい。

 こうあっさり書いてしまうとと分かり難いですが、大まかにこんな感じで整理が可能です。例えば、日本のアニメ業界の問題を議論する日本の論客が事実上【なぜディスニーと同じようにできないのか?】という趣旨のないものねだりの主張をしているのを時々みかけますが、表面上似ていても米軍と自衛隊並みに本質が違うことを理解していないんじゃないでしょうか。

 理念・リソース・勢力範囲のセットで考えると、ハリウッド映画の普遍的名作は巨大なリソースを投入して自由主義陣営が勝利する過程を描く第二次大戦の話とか、アメリカの理念・理想が見直されたり進歩したりする過程を描く話、とかが多くなるのがよくわかります。
クリストファー・ノーランには名作が多いので、せっかくなのでノーラン縛りで例示します。『ダンケルク』は第二次大戦ものの名作。市民の理想を体現していた検事/トゥーフェイスの悪事を隠蔽するためにバットマンが汚名を背負い、脆弱な市民の理想を守ろうとするのが『ダークナイト』。映像と構成の面白さは画期的だが、理念の話はほぼなくて面白いという機能だけで勝負してノーラン作品としてはコケた『TENET』…みたいな類型になると思います。

 で『オッペンハイマー』は、巨大なリソースを投入して原爆を開発し(ナチや)大日本帝国(以下、日帝)と戦って勝利したという伝統的な第二次大戦ものでありつつ原爆開発なんていう想像を絶するような恐ろしいことをしてまで守ったアメリカの自由が脅かされる姿がオッペンハイマー本人の機密情報アクセス禁止審判(赤狩りによる公職追放)を通じて描かれています。

 要は、原爆の悲惨さはアメリカの自由の価値を測るための物差しになっている。悲惨なら悲惨なほど、オッペンハイマーの葛藤は大きくなりますが、映像としては悲惨さはほぼ描かれていない。

 日本の観客がこの映画についてもやもやするとすればそこで、おまえらちゃんと悲惨さを知らないし興味すらないのに、なんでオッペンハイマー個人の葛藤の大きさを測る物差しとしては利用するんだよ?というところ。映画では描かれませんが、そもそも原爆の使用自体国際法違反だったであろうとは思われ、その辺もついでにもやもやします。

 とはいえ、日帝もまた当時原爆は開発していたもののウランの濃縮が間に合わなかっただけなので、完成していたら当然使用していた。原爆開発競争に負けただけなので、原爆使用に関する倫理的な優位性はありません
 さらにポツダム宣言受諾で無条件降伏してしまったので、国際法違反を追求する主体を放棄しており、仮に蒸し返すならゴールポストを動かすような卑劣な話になってしまいます。

 というわけで、『オッペンハイマー』については、日本の観客は肚を括って観る必要があるんですが、ハリウッドと米軍が理念とリソースと勢力範囲で相似形になっているという前提を理解してもらえばいいとおもいます。そうすると気休めくらいにはなって、もやもやが減るんじゃないかと思いましたけれども。