見出し画像

歌舞伎の大転換  風の谷のナウシカ

テーマ / キャラクター / シンボリズム / エンタテインメント / メッセージ


 7月大歌舞伎第三部は「風の谷のナウシカ 上の巻―白き魔女の戦記―」。7月18日に観ました。2019年12月の新橋演舞場で昼の部と夜の部で漫画版全5巻を歌舞伎化した初演時の午前の部のダイジェスト版。
 初演の時は、表現内容の自由度が高くなんでも描くことが出来るはずの漫画やアニメを原作にしてもなお、歌舞伎でないと表現できないスペクタクルを観ることが出来たという感動がありました。今回は、この演目がテーマやキャラクターなど重要な部分で歌舞伎の大転換を目指しているという志がより明確になっていました。

テーマの大転換

 伝統的な歌舞伎の演目が普遍性を獲得し、今日まで観客を感動させることが出来るのは、個人が解放される姿を描いているからでしょう。とはいえ古典歌舞伎が人気を博したのは江戸時代。封建的な社会での個人の解放は、愛し合う二人なら道行の後の心中(心中物)、武士なら切腹覚悟の敵討ち(忠臣蔵)、恨みを持って死んだものは怨霊と化しての復讐(四谷怪談)…など。主人公の解放は主人公の命と引き換えでしか達成されません。
 ナウシカでは戦争で罪のない普通の人々が沢山命を落とし、人類は絶滅の縁にあります。そんな世界で、中心のキャラクター二人は生き残ることを目的に行動する。ナウシカは腐海の謎を解明し人類を救おうとし、トルメキアの皇女クシャナは父親や兄弟から命を狙われ、上の巻では戦場で生き残ることを目的に行動します。
 人類を救うとか窮地に陥った主人公がとにかく生き残るとか、一般的なエンタテインメント作品のテーマとしてはありふれたものです。ただ、そのありふれたテーマを歌舞伎というエンタテインメントでもきちんと語ることが出来ることをこの演目は証明しました。封建制に個人がすりつぶされていく姿、”心中・切腹・恨めしや”を描く演目の正反対です。世のため人のため人類のために戦い生き残ろうとする個人の姿を歌舞伎で描いたという大転換です。

キャラクターの大転換

 ナウシカは中村米吉。ナウシカとしてはまだ女性的過ぎる演技で、ハリウッド女優にたとえて言えばエル・ファニング(「マレフィセント」「レイニー・デイ・イン・ニューヨーク」)がナウシカにキャスティングされた感じ。もうちょっとキリっと、たとえばミリー・ボビー・ブラウン(「ストレンジャー・シングス」とか、せめてシアーシャ・ローナン(「ストーリー・オブ・マイ・ライフ 私の若草物語」「レディ・バード」)とかに寄せて欲しかったかも。
 とはいえ尾上菊之助よりは少しこなれた印象。初演時の菊之助は歌舞伎のお姫様をベースにした演技。立場としてはナウシカはお姫様ですが、中性的かつ冷静な集団のリーダーというキャラクターには合っていませんでした。また私が初演を観たときは、トリウマから落馬して菊之助が腕を骨折した後。メーヴェでの宙乗りもなくなって、いよいよ、なよなよした印象だけになってました。大歌舞伎「NINAGAWA十二夜」ではシザーリオという男性に成りすました女性ヴァイオラというシェークスピアのキャラクターを女形として演じた菊之助なので、演技の引き出しも多く何かやり様があったんじゃないか…?と思うんですが、ナウシカの演技は転換の途上のようです。
 ただ米吉のナウシカについては7月18日の公演だけでは判断すべきでないかもしれません。尾上丑之助の王蟲の精と寺嶋知世の幼きナウシカ二人共体調不良で休演。二人が出るはずの酸の海の中州で王蟲の子供を助けるシーンは米吉の一人芝居になってしまい、正直大変そうでした。(本人もストレスだったらしく、翌日米吉のインスタをみたら“いろいろあった日はパンケーキ”ってパンケーキ食ってました …女子か。)

 丑之助と知世のとうちゃん菊之助はクシャナ殿下。初演時の中村七之助も楽しそうにキレ味鋭く演じていて良かったんですが、菊之助版は貫禄アップ。下記でざっと比べたのですが、歌舞伎の人気キャラ義経を例にとってみると、クシャナはさまざまな観点から正反対です。その正反対のキャラを今回は主役の一人に格上げして人気キャラのキャラクター性も大転換しています。

 転換と言っても古典歌舞伎にあるようなお役の交代もありました。
ユパ様は坂東彌十郎(北条時政/鎌倉殿の13人)。初演の時は尾上松也(後鳥羽上皇/鎌倉殿の13人)で、尾上右近のアステルと一緒に土鬼の王蟲培養室を破壊するという本水を使った立ち廻りがあり、彌十郎さん歳だし本水大丈夫かな?と思ってたら本水のシーンは丸々カット。ただ、大きな歌舞伎座の舞台にしゅっとした長身(183cm)の彌十郎のユパ様はそこにいるだけで舞台映えして、原作のキャラのイメージを上書きしてこちらがスタンダードになるような存在感でした。ひとつのお役を色々な役者が演ずるのを比較するのは、古典芸術ならではの楽しみです。

シンボリズムの大転換

 ダイジェスト版なのでカットされたシーンは多かったのですが、逆に、足してあった場もありました。「クシャナ夢の場」として、病で認知に問題のある母親とクシャナが面会する場が追加されています。クシャナは、子供の頃の思い出を語りながら母の髪を梳してあげますが、母親はクシャナが自分の娘であるとわかっておらず彼女を拒絶します。王である父と兄たちに命を狙われ、母親にすら拒絶されてしまうクシャナの深い孤独を描く場です。歌舞伎の髪梳きは性的な行為の隠喩とされ男女の親密さが描かれますが、同じモチーフを正反対に使って、彼女の孤独を浮き彫りにしていました。
 他にはクシャナの甲冑の鱗柄もシンボリズムがひっくり返っています。歌舞伎で鱗と言えば代表的なのは娘道成寺の白拍子花子/清姫。美形の僧安珍に恋焦がれる彼を追いかけるうちに大蛇に変身したのが清姫で、三角を組み合わせた鱗柄の衣装で描かれることも多いキャラクターです。一人の男性に恋い焦がれ最後は相手を殺して自らは入水する破滅的な恋愛のシンボル。

「初代嵐雛治の娘道成寺」勝川春章

 一方のクシャナは、トルメキアの紋章が二匹の蛇であることもあり、鱗をまとっています。ただ原作の最後で彼女は、破滅的な恋愛どころか、世界を平和にするために恋愛感情などない政略結婚を受け入れます。原作通りとはいえ、大蛇の化身白拍子花子の正反対であるキャラクターに蛇のシンボルが使われていました。丁寧にみていくと他にもこういうシンボリズムのひっくり返しがあったかも知れません。

エンタテインメントの大転換

 全編に古典歌舞伎の大転換がちりばめられた「風の谷のナウシカ  上の巻―白き魔女の戦記―」。古典歌舞伎を下敷きにしてきっちりと裏表にひっくり返しているからこそ、歌舞伎としてしか成立しえない演目としてこなれて来た感じがあったとおもいます。ただ、長大なマンガが原作なのでひとつひとつの場が短くて忙しいのは変わらず。古典の演目みたいに一力茶屋の場とか寺子屋とか、そこだけ切り出して独立させるまでの密度のある場はまだなかったかもしれません。そこは「下の巻」に期待したいところだと思います。

………と思ってたらなんと、「ファイナルファンタジーⅩ」の歌舞伎化が発表されました。ビデオゲームだとひとつの場が長いので、こっちの方が歌舞伎向きかもしれません。大蛇の様にどんなエンタテインメントでも飲み込んで消化して歌舞伎として成立させることが可能だ、と証明したのがナウシカ歌舞伎。それこそが音羽屋尾上菊之助が歌舞伎というエンタテインメントに対して成し遂げた最大の転換なのだと思います。

メッセージの大転換

 歌舞伎のお話は勧善懲悪といわれます。ただし、善とは何かを決めていたのは江戸幕府。なるほど表面上は、忠孝貞節のお話ばかり。ところが忠義を尽くす手段といえば、主君の嫡男を救うために自分の子供を身代わりに殺すとか(菅原伝授手習鑑/伽羅先代萩)。妻が貞節を破るのは夫の敵討ちのための資金をつくるために身売りするとき(仮名手本忠臣蔵六段目)とか、そんなの。封建社会の”善”を達成しなければならないというのが表面上のメッセージですが、そのためにひたすらひどい目に遭う人たちが登場します。ところが今も昔も観客は上っ面の善ではなく、キャラクターたちがままならない人生に向き合う姿に感動します。
 例えてみれば、共産党政権下のポーランドで、表面上は共産党への抵抗勢力が無為に死んでいく姿を描いたアンジェイ・ワイダ監督の「灰とダイヤモンド」。監督は、表面上は政府に従い抵抗勢力を悪と描きつつ、死んでいく側のキャラクターに共感するように物語を描いています。それと同じことが歌舞伎では昔から実践されていました。
 一方ナウシカは、表現の内容に制約のない私たちの社会で、表面上は徹底的に権力者や人間たちの愚かさを描き、それはそれで観客にメッセージとして伝わります。同時に観客すら気付きにくいレベルで菊之助のメッセージがこめられていたかもしれません。
 大詰めでナウシカは青い衣をまとって黄金の野に降り立ちます。

 愚かな権力者が起こした戦争で罪もない人達が大勢命をおとし国が荒廃していく。ひいては人類の存亡の危機につながっているというのは、マンガでもなんでもなく今まさにウクライナで起きていることです。そのウクライナの人々にたいする連帯の気持ちを、青と黄金色の大詰めで表明したのかもしれません。ただ菊之助がそこまで説明してしまうと、野暮になってしまいます。表面上のメッセージに十分意味があり、さらに重層的なメッセージがこめられている。観客の側がその程度のリテラシーをもって向かい合うべき作品としての大転換なのでしょう。