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#124 PとTが連携するAssociation

■子ども達へのまなざし

学校は多様なまなざしで織りなされる有意味空間。

子どもの発達へ向けて教育内容が組織され、時間と空間が教育的に配慮された場所でなければならない。

かつて学校側のTとしてPTAでいろいろなことを模索し、成功や失敗に一喜一憂していた。

定年退職を機に学校を去った身ではあるが、今も元役員の方々とLINEでやり取りしたりお会いしたりしながらワイワイガヤガヤとやることがある。

Pの方々にしてみれば、対価のある仕事ではないのに人間関係の調整に四苦八苦したりすることもあるけれど、関わった人ほどその重要性を理解し必要性を唱えてくれている。

PTAの支援を受けながら教師として助けられ育てられてきた身としては、これからのPTAの行く末が気になるところでもある。

妻も仕事を持ちながら小・中学校のPTA役員をやっていたことがある。

地域ルールなのか風土病なのかわからないけれど、入学式後のPTA総会と学級懇談会で、学級代表の役員が決まるまで保護者は教室から出られないということを告げられる。

監禁か!軟禁か?

担任の先生が必死に頭を下げてお願いするが沈黙が続く。
みんな頭の中で、「あんなこと」や「こんなこと」をいろいろ考えている。

乳幼児を抱え、子どもをあやしながら困り顔で参加しているお母さんもいる。

■PTAの課題に関する政府の見解は?

昨春(2023年3月)の国会答弁でPTAの諸問題に関する政府の見解が示された。

何となくモヤモヤする見解だが、それはPTAの存在自体が任意団体で任意加入が原則だからだろう。

国会の質疑応答については以下のサイト
<全国PTA連絡協議会>
PTAの任意加入に関する国や行政の対応

■流れを変えられるか

日本では、大正から昭和終戦前にかけて「母の会」「保護者会」「父母と先生の会」があったそうだ。

戦後はGHQにより民主主義教育推進のためにPTAの設置が奨励・推進され今日に至っている。

ここ10年ほどで状況が変わり、必要論と不要論がぶつかり合い、中には「加入拒否宣言」や「脱退宣言」が全国のあちこちで起こり始めている。

PTA活動を休止している学校もある。

今はSNSでリアルな話が拡散される時代だ。

「そもそもPTAの存在意義は?」

「単なるスポンサー(資金提供)に徹すればいい」

「金は出すけど口は出さない。あとは先生方に任せればいい」

といった意見が噴出している。

PTAの諸活動にはグレーゾンがあったり、定型があったりで微妙な采配がなされている。

いわゆる「シャンシャン総会」で乗り切っている学校もある。

Pがガンガンと攻めの姿勢で行くと、学校の教育方針との間に摩擦が生じることもある。

一方では、もっと積極的・能動的にPに頑張ってほしいと思っている学校もある。

多くの学校では、微妙なバランスの中でPとTで協議を重ねながら運営されている。

戦後から復興期・経済成長期における学校の存在意義は、子どもの将来の経済的保障の場(就業へつなげるための教養や技術を身に付ける場)であった。

今は「学ぶことの意味」を重んじ質的転換をはかることにこだわる時代だ。

保護者の思いもさまざまだろう。

教師のまなざしからすれば、学校は子どもが学習や集団活動をするのに適した場所になっているかどうかだ。

子どものまなざしは、学校は楽しく充実した学びの場であるかどうか、共に学び活動したい仲間がいるかどうか、先生は自分を受け入れてくれる存在かどうか、といったことに関心が集中している。

そして、子どもと教師との間に応答的な関係が成り立っているかどうかが重要になる。

それを上手くつないだり、緩衝材になったり、時には厳しい指摘をするのがPTAなのだろう。

今はタテ・ヨコの関係に加えて「ナナメの関係」が必要だと言われている。

文部科学省配信】 
学校は、地域の人材を活用して「ナナメの関係」をつくろう!


なんと、上記のサイトを検索していたら、私が書いたものまで検索に引っかかった。
恐ろしい・・・・

https://www23.sapporo-c.ed.jp/keihoku/index.cfm/19,4027,c,html/4027/mcry30.pdf

■Pの資源を生かす

いじめや不登校、貧困の子どもを支援するために、PTAが居場所(サードプレイス、児童生徒カフェ)づくりで活性化をはかっている学校もある。

教師のネットワークはとかく教育関係者に偏りがちだが、P会員の職業や立ち位置はバラエティーに富んでいる。

個人、法人、さまざまなジャンルの人々が子ども達と関わるシステムを構築する意味で、PTAとコミュニティ・スクール制度(学校運営協議会制度:保護者代表も含まれている)をより機能的にする必要があると感じる。