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#28 足るを知る

WBCの日韓戦に夢中になり、アップするのを忘れていた。

先日、「国語」の教員を志す学生の模擬授業を見学した。

漢文の授業だった。

中高時代は、返り点やレ点、書き下し文のことを学んだという微かな記憶しかなくて、大学受験の古文・漢文は解法テクニックに走っていたので、肝心の中身をちゃんと勉強していない私である。

教師になる人たちには、受験テクニックとは異なる視点で、教科・科目の面白さを伝えてほしいと願う。

誠に勝手な言い分だが、出来の悪かった自分としては、単純にそう思う。

◆成長するために自分を知る

「足るを知る」とは老子のことばである・・・・ということを今さらながら噛みしめる模擬授業だった。

鏡よ鏡、この世で一番美しいのは私よね!

「足るを知る者は富み、努めて行う者は志有り」

意味わかんないな・・・・と思っていた矢先、“教師の卵”の卵がいろいろヒントを与えながら授業を進めてくれた。

他人を理解することは普通の智恵。

力のある者は他者に勝るが、本当の強者とは自分に勝つ者をいう。

彼を知り己を知れば百戦殆からず」という孫子の兵法も、そうしたところから派生した考え方なのだろう。

どちらも紀元前の言葉だが、どちらが先か分からない。

満足することを知っている者は精神的に豊かであり、努力する者に本当の志が宿る。

自分を理解することは、普通の智恵以上に凄いことなんだぜ!

そん風に解釈しながら、授業のテクニックはさておき、私なりのコメントを学生達に伝えた。

教科のことと同時に、「教育」という大きな枠組みで考えてほしいことだ。

◆自分と向き合い現在地を知る

よく、他者と上手く付き合うための「距離の取り方(距離感)」という言い方をする場合がある。

自分を理解するというのは、自分との距離の取り方、「自分との向き合い方」なんだろう。

人間の成長に必要なことは、「自己の至らなさを知ること」

そうした能力を身に付けるために「教育」がある。

なーんだ、結局、老子は私と同じ考えを持っていたんだと言ったら、学生たちが笑っていた(^_^;)

人は成長過程においては多くの良くない点を持っている。
私には、良くない点が1,000個はある。

気付いたときに、それらを正して人は成長していく。

良くない点というのは、基本的に頭の使い方がよくないということだ。

例えば、姿勢が悪いとか態度が良くないという外見的なことも、頭の使い方の問題に行き着く。

昨夜のWBCの日韓戦でダルビッシュは考えたはずだ。
次は修正して、いいピッチングをするに違いない。

「間違ってるものは間違ってる」と受け入れ、そこを出発点にしなければ人は成長できない。

もちろん、正解のないことだってある。

しかし、多くのことには許容範囲(正解ゾーン)がある。

可能な限り、失敗せず正解ゾーン内で人生を完結させたい、という生き方もあるのかもしれないが、複雑怪奇な社会構造になってしまった今、そうも言っていられない。

正せることは正したほうが、生きづらさは少なくて済む。

向かい風に向かって突き進み新たな領域へ行くには覚悟が必要だ。

動機、目的、目標も必要だ。

勘のいい者は、すぐに学んで成長して行く。

志の高い者は、どんどん前へ進む。

勘を養えば、周囲の雰囲気を読み取って、自分自身の思考方法や行動が正解ゾーンから外れていることにすぐ勘付いて修正することができるから、正しい勉強法、正しい学び方を会得できるようになり、学びの好循環が生まれる。

教育とは、学校の勉強に限らず、人生全般において「成功の確率を高める」ためにある。

勘の悪い者は、自分自身が間違っていることになかなか気が付かないから成長が遅い。

習得速度や年齢に拘らず、発達段階に応じて、「気付き」のきっかけをつくることが親や教師、大人、上司、同僚の役割なのかもしれない。

◆時間の浪費から時間の投資へ

最近、よく学生に問いかけていることがある。

「時間という資源を浪費にしか回してないんじゃないか?」と。

成長するためには、今ある時間のうち少しでも、いや、、なるべく多くの時間を「投資」に回すべきではないか。

SNSやYouTube視聴の時間を削ってでもやるべきことがあるはずだ。

学生は時間に余裕がある分、思い切り勉強したほうがいいよ、と言うことが多いが、ほんとうは年齢に関係のない話である。

今よりもモノを知ろうと思ったら学ぶしかない。

以前にも書いたが、足りないモノは外へ取りに行くしかない。

学ばないということは、今以上にモノを知るようにはならないということだ。

学んでいないとどんどん取り残されて行く。

現在地に立ち尽くすと言ってもいいだろう。

年齢が上がってくると学ぶことが面倒になってくる。

勉強しなくても、ルーチンワークで食べていけるという考え方は根強くある。

そこで学ぶ者と学ばない者の間に多きな差が生じる。

そのことついて職業や年収などを基準にする人もいるが、人生におけるWell-being(幸福、ご機嫌な状態)というのは、職業や収入、あるいは学校の勉強や学問の習得だけに絞り込んで語れるものではない。

40代くらいで見えてくる実力差というのは、20代後半から30代にかけて学びの姿勢があったかどうかなんだろうと思うのである。

すでに社会へ出てからの学びである。

富裕層が富を独占し続ける仕組みを論じるつもりはないが、生活保護受給者が毎年増加し、その家庭の子どもが生活保護の循環に取り込まれ、再生産され、そこからまた教育格差が生まれているという現実をどう見たらよいのか。

話は大幅にそれたが、老子の言葉を今一度噛みしめる機会となった。

学生たちに感謝。
さらに探究しよう。