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#185 面白半分日記42 パネリストのチンパンジー先生、ちょっと何言ってるかわかんなんですけど状態

教育系のシンポジウムでパネリストの一人として、ステージ上に設けられた席に座らされた。

みんなにジロジロ見られ、何か罰ゲームのようで、どうにもこうにも居心地が悪かった。

いつものように学生に見つめられている授業とは明らかに違う。
同業者(大学や中・高校の教員)ばかりだ。

ステージでディスカッション?
最初からそんな話だったっけ?
まあ、だからパネルディスカッションなんだろうが。

私は思った。
恥をかかないよう 余計なことは言うまい。

何か意見を求められても聞こえないふりをする。

どうしてもしゃべらなければいけなくなったら、
「うーん、そうですねぇ・・・・その問題はなかなか難しくて答えを導き出すには、もう少し時間が必要かもしれませんね。
皆様と共に考えてきたいと思います・・・・エヘヘへ  」
と言いながら、隣のパネリストにマイクをサッと渡す作戦だ。

「近頃の児童・生徒、学生の気質」を憂う意見などが出された。

近頃は中学生や高校生も “ タイパ ” という言葉を使って効率性を重視しようとしているが、先生方は一体どう理解して教育実践しているのか、どうも怪しい・・・と。

つまり、この世代が身に付けるべき勉強の仕方も教育活動もタイパ重視でいいいのか?と。

時間をかけ、時には無駄と思えることも含めて知識を蓄積するのが勉強じゃないか。
思考する材料が足りない状態で考えているとロクなことにならないといった意見だった。

会場からもさまざまな意見があった。

「それって意味ありますか?」と言う若者が増えていることについて、学問や勉強のあるべき姿を大学生に対して懇切丁寧に説くことが、もうバカバカしいと感じていると言い放った大学教授がいた。

結局、私もいろいろと話さざるを得なかった。

こんな感じだ。

合理性って目先のタイムパフォーマンスという軸だけで考えちゃいけないと思うんですね。

学生は、自分にとっての合理的な学び方とか生き方を考えようとしますが、自分のことだけじゃなく、その延長線上にいる他者や組織とか社会に何らかの形で還元したり寄与するために学んでいるんだという意識が必要だと思うんです。

(ああ、何言ってんだオレ、この後の展開をどうすりゃいいんだ?)

むしろ非合理的とも思えるような作業を繰り返して自分の中に確実に刻み込んでいかなければならないのが、知性であったり教養だったりするわけですから、そこで合理性を追求して無駄を省くということは、ある意味、知の崩壊につながっていくのかなと・・・・

いくらAIが代替してくれると言っても、人間である以上、時代が変わっても、思考力・判断力・表現力を駆使するためには、やはり知識が必要であり時間も必要です。

何か自分を特殊で特別な存在であると考えることは悪いとは言いませんが、ボジティブ・シンキングを支えている土台の知識があまりにも脆弱で根拠に乏しいと思うことが日常的に結構あると感じています。

授業中の発言やレポート、小論文を書いたときにそれが如実に現れるわけです。

みんな自分が特別な存在であることを語りたがります。
自分には無限の可能性があるんだと。

キラキラしている自分でありたいと。

それ自体は悪くなんです。

でも、実は彼らは自信がないんです。

身の丈に合ったところを出発点にしなければいけません。

メタ認知できているかどうかが重要なわけです。

今や、SNSは自我が拡大していく装置になっています。

自分はキラキラしているし、ポジティブでイケイケだよって。

そうした現象に、私はちょっとひっかかりを覚えています。

いやいや、ちょっと待てと。

どこかの誰かの受け売りの言葉でなく、自分の体験を自分の言葉・語彙で言語化し、そこにどれだけの時間をかけて紡いで、どんな結果を出したんだ?と。

毎日、いろんな学生と、ソクラテスミーティングみたいに問答を繰り返しています。

合理性や非合理性、タイパを言う前に、そろそろ大事なことに気付けよと言いたくなるのを我慢しながら気長に待つわけです。

個別最適な正しい勉強法とかウェルビーイングにたどり着くためには、非合理的なことも失敗も経験してこそだと思うんです。

他人が考え出した成功のノウハウにすがって近道で行こうとしたって、そこに再現性がなかったら終わりじゃないですか。

自分で手探りで試して何度も失敗して見つけろよって思うんです。

こんなこと考えている私の授業は効率が悪く、だからタイムパフォーマンスはひどく悪いと思います(笑)

そんなわけで、今後も皆様とともに考えていきたいと思います。

あ~、最後にやっぱりこのセリフを言ってしまった。