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語彙 変容 感情教育

先週この番組を見て胸がつまる思いでした。

この番組は見ないと説明が難しいのですが、ウクライナの市井の人々の言葉を綴った本があり、編者やその言葉を語った人へのインタビューなどで作られたもの。一つひとつの語彙は数行の短い散文、詩といってよいものですし、私たちが日常使う言葉(もちろんウクライナ語)なのでその言葉の使い方、今ウクライナでその言葉に秘められている意味があまりに違うことに愕然とするのです。
「沈黙」という文があり、それは子ども人形劇場の人が語ったものですが、戦争までは劇場で子どもたちが沈黙するのは、劇に入り込んだときを意味していたそうですが、この劇場が子どもたちの避難所、収容施設になりステージや床にクッションを敷き詰めて子どもたちが大勢入ったそうです。そして小さな子どもが集まればザワザワ、ガヤガヤするものですが、そこにあったのは沈黙。魂が抜かれたような子どもたちの抜け殻の姿。劇場の人はその時「沈黙」という意味が全く変わったことに気が付いたとのこと。

それ以外のいくつかの言葉を紹介していましたが、かつては私たちが日常で使う意味とイコールだったと思いますが、全く違うものになってしまったこと、一日も早くそれが私たちの使う言葉に戻らなければと強く思うのです。
一番ショックだったのは小さな幼児と一緒の若い母親の言葉でした。幼児はようやく喃語から「単語」を喋る時期になったそうですが、その子が最初に口にした単語はウクライナ語での「空襲」という言葉だったとか。なんという未来に対する裏切りかとただただ悲しい思いでした。

この本はこの番組の進行役でもあったロバート・キャンベル氏が訳されているものだそうです。書店に行かねばと思います。

この言葉の意味が変容することについて、丁度先日から読んでいる角幡唯介氏の「書くことの不純」の本居宣長に関わる所にこんな指摘が書かれていました(無断引用)。

「宣長の学究手法は〈先入主の滅却〉という言葉に象徴されるものだ。
先入主とは、いわば考え方をつくり出しているもともとの思考回路のことである。人には思考のフォーマットのようなものがあり、われわれは通常、その時代の言語だとかものの見方に思考を制限されている。現代であれば、とくに自覚のないまま近代的な合理主義的思考で物事をとらえるのが当たり前だし、合理性や効率性に価値や尺度の基準をもとめる傾向がつよい。
しかしかといって『古事記』や『源氏物語』の時代の人々が、われわれと同じように合理主義的なものの考え方で世界をとらえていたかといえば、そうではないだろう。
つまり人間の思考回路というものは時代や文化によって更新されるのであり、今の時代のものの考え方で古代の書物を読んでもその真意には到達できない。
宣長がいうところの先入主の滅却とは、思考を支配する時代の考え方を消し去り、自らの脳をリフレッシュして素っ裸の状態にしてから古典にあたるというものである。」

ここで書かれているのは、今の言葉の意味、考え方で当時の思考体系をなぞることなどできないという意味だと思います.
この本の後半には三島由紀夫論が書かれており、そこでも言葉と表現の矛盾についても指摘されていますが、それはまたウクライナの「戦争語彙集」の言葉が転換しているのと重なります。「戦争語彙集」の言葉の変容は、今のウクライナの状況を際立って表現した生々しいものだとも言えるのではないでしょうか。

さらにでは違う言葉の意味を日常に使う私たちが、ウクライナの「戦争語彙集」を受け止めることができるのか?それは今月の100分de名著のローティ―の回の最終回の希望としての「感情教育」こという箇所から、頷けるのです(テキストから一部無断抜粋)


「理論ではなく、感情に訴える文芸や報道になしうるもの。ローティはのちにそれを「感情教育」と呼んでいます。前回引用したアムネスティの講演のなかで、ローティは次のように述べています。

『人間は他の動物よりも〔知性や尊厳をもつと言うのではなく〕はるかによく感情を理解しあうことができる。』〔と言うべきです。…そうすれば〕自分たちのエネルギーを感情の操作に、つまり感情教育(sentimental education)に注ぐことができるからです。その教育はさまざまな種類の人間にお互いに知り合うチャンスを与え、自分たちと違う人たちをにせの人間と考える傾向に歯止めをかけることができるでしょう。この感情操作の目標は、『私たちの同類』とか『私たちのような人たち』という言葉の指示対象を広げることにあります。(『人権についてオックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ』)

われわれを拡張せよ。これがまさに、ローティが考える希望としての感情教育です。これがなければ残酷さの回避というものは機能しはじめない。その意味で、感情教育はリベラリズムにとって非常に重要で不可分な要素です。端的には、被害をありありと描くジャーナリズム、ルポルタージュ、そしてフィクションが、まず役割を果たすことになるでしょう。私たちはそうした分野の作品を通じて、被害者が置かれた悲惨さ、残酷さ、そしてそれが偶然のものでしかない-つまり私たちにも起こりうる-ことを想像することが可能になります。」

まさに「戦争語彙集」から伝わってくるのはこの「感情教育」による受け止め方です。頭でなく感情で伝わること。
先日講演会で「頭で考え伝えることは相手は頭で受け止める、心から伝えることは相手の心に伝わる」という言葉を聞きハッとしました。
まさに今回の「戦争語彙集」はウクライナの人びとの心の言葉だから感情を揺さぶるのだろうと思いました。


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