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西田幾多郎と皇室

こんな危ない話も今度の本に書いてみます。、ちょっとだけ草稿を公開。

 しかし、西田幾多郎は偉大である。その奇怪な文体に食傷気味になることはあれど、そこに乗れた時にはもうグルーヴ感が発生するしかない。

 西田幾多郎は時々ナショナリストに持ち上げられる。それもどうかと思うが、まあ西田自身のせいもある。

とかく西田幾多郎の皇道理解はぶっ飛んでいる。自分で西洋哲学を勉強しまくって、「その骨」を押さえて、自身の哲学に、概念創造に使ってしまう。

絶対矛盾的自己同一。

この西田特有の概念装置。諸行無常や、色即是空、空即是色、一即多、多即一、まあ、色々とあるわけだが、仏教思想が西洋哲学と不思議な接木をして、それが日本文化を語るのに使われる。

皇道なんて、矛盾であり、無であり、有であり、しかも同一性だ、と言ってしまうわけである。

哲学の道を歩き、人生の悲哀に耐えつつ、戦時期の言論統制やら戦中同調圧力の中、それらの環境と西田は相互反応しつつ、変容していく。空間的、時間的に変化しつつ、かつ同一の西田哲学。絶対矛盾の西田哲学は、それはそのまま皇道にも適応される。


「西洋文化は大体に於て環境から主体へと考へられるものであらう。東洋文化は之に反し主体から環境へと考へられるものであらう。両者は矛盾的自己同一の世界の相反する両方向に重心を有つと云ふことができる」

   『日本文化の問題』岩波新書 p87

西洋対東洋なんていう時代ではない。グローバル化した高度情報社会にあって、文化は混合し多文化主義が叫ばれる。しかしながら、そこで起こっていることは、雑多な矛盾する要素が混合し、謎のハイブリッドが出てくることは稀で、大抵は水と油のように混ざったふりをしているだけである。だか西田は違う。徹底的に異文化を攪拌する。

「しかし、どこまでも環境から主体へと云ふことは、自己矛盾的に環境が自己自身を否定して主体的となると云ふことでなければならない。具体的となればなる程、世界は弁証法的に考へられて来るのである。之に反しどこまでも主体から環境へと云ふことは、自己矛盾的に主が自己自身を否定して環境的となる、物となると云ふことでなければならない。両方向は具的には自己自身を限定する世界の事物において結合するのである、事におて一となるのである。両方向の対立は、固そこからであり、結合もまたそこへであるのである。」

もののあはれ。日本的なわび、さびへ。愛着や執念は、怨恨や憎悪、欲望や夢は、全て四季の移り変わりと共に変化しつつ、我々はその変化を愛でる。そこでは矛盾が状態であり、混合が、攪拌と変化と消失が常である。私は変化しつつ消滅し、ワタシということもできず、純粋なものとなる。西洋的な思想では、人間は決してものではない。物扱いしてはならない。人権があり、自由があり、意識がある。しかしそんな、こだわりも、エントロピーの増大とともに、世界の流れとともに消え去ることとなる。

西田はそんな文脈で皇室を語り出す。

「私は日本文化の特色と云ふのは、主体から環境へと云ふ方向にたて、何までも自己自身を否定して物となる、物となつて見、物となつて行ふと云ふにあるのではないかと思ふ。己を空うして物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法とか云ふことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思ふ。…日本精神の真髄は、物に於て、事において一となると云ふことでなければならない。元來そこには我も人もなかつた所に於て一となると云ふことである。それが矛盾的自己同一として皇室中心と云ふことであらう。物はすべて公の物であり、事はすべて公の事である、世界としての皇室の物であり事である」

日本文化の問題 岩波新書 p88

炎上必死の、「天皇制万歳、全てのモノは天皇のモノ、アジアの主たる日本帝国万歳」の言説と怒られても無理はない。そうして西田は酷い批判を受けてきた。
 私はナショナリストにはなれないが、世界各国のナショナリスト達が好きである。多文化主義の要請を真摯に受け止めて、そのままぶっ壊れたら、ナショナリストになるくらいしか、人間には残されていないような気がする。「種のおわらざる闘争」、西田は戦時中に田辺の思想を受けてそんなことを言うわけである。戦争の悲惨を日本の側から、ヨーロッパの側から、ラテンアメリカの側から考えることの多い私にとっては辛い話である。

とはいえ、西田の文体は、特異な論理の飛躍があるように見えるが、絶対矛盾的自己同一の西田幾多郎オリジナルの概念装置にのって文章を読むと、それはそうなるよな、と思わされてしまうあるグルーヴ感が存在する。特に岩波新書として、比較的一般向けに書かれたこの書物にあっては、そのグルーヴ感が温順しく静かでしっかりしているように感じられる。

それは仏教が人類に与えた宗教的恍惚感の残余なのであろう。とはいえ、西田が弁証法を説きつつ、皇室を語る際には、間違いなくヘーゲルの感じたキリスト教的恍惚さえもが、そこに反響している。

文化的ハイブリッドとしての皇室、無としての天皇、AI新世のこの時代に、天皇制は新たなる表現を待っているのかもしれない。

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