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「私」と「Je」の違い

授業ではいつもよりざっくりした話になる。専門性を追求していたら、どうしても学生に伝わらないからだ。雑な枠組みをとりあえず出しておいてから微調整する。そしてその雑な枠組みがダメな場合は捨てる。

よくある雑な説明のひとつ。日本とフランスの思考方法の違い。和合主義と個人主義、グループの精神と個人の精神。個人主義の源流は、たとえばキリスト教の神と信徒の一対一の関係性(ルイ・デュモン)とか、中世宮廷恋愛(フランソワ・サングリー)の一対一の恋愛とか、まあ色々あるわけだが、もう一つデカイのはやはりなんと言ってもデカルトのコギトだろう。権威ある人がどう考えようとも、まずは自分から、自分が考えることに第一原理、間違えないための絶対の出発点がある、ということである。

しかしながら、これが日本語に入ってくるのがえらく難しい。たしかにデカルトのコギトの訳ですら

「我思うゆえに我あり」   
     これは偉そう、メジャー訳

「私は考えるから存在するのですよ」 
     こじれたビジネスマン調

「僕ったら、思ってるからここにいるの」
     メンヘラクイア系

「自分、考えてるからこそ、自分っす」
     スランプでもがく柔道家

「ワシ考える、ダカラワシある」
     アニメで年老いた鷲が迷える主人公に
     言いそう

日本語だと一人称がキャラ化する傾向が強い。つまり、一人称を使おうとした時点ですでに、社会の中である一定の役割を担わされた、キャラ化した一人称が出てくるのだ。ジェンダー、年齢によるヒエラルキーの一ポジション、友人同士の力関係、恋人同士の歴史、そういったものがほぼ自動的に言語としての一人称に付随してくる。

その点、フランス語はじめ、ロマンス語圏の一人称にはそこまでの社会的縛りはない。無論実際に使用している場面では、社会的な役割を引き受けた上での主体が自分自身を指す言葉として「je」を使う、ということもできるが、言葉としての「je」にキャラ化の機能はない。他の一人称と差別化しているわけではないので、差異がないのだ。

デカルトが使うのはこの差異化されていないワタシを、「考える」という行為で限定するのであり、その点ではじめて主体がたちあがり、考える個人が立ち上がるのだ。

というわけで、日本語のキャラ化する一人称は、日本的和合主義を引き受けて、そこからちょっと距離をとるにせよ、やはりその同調圧力の中でキャラ化した和合主義的一人称である。

それに対してフランス語の一人称は「考える」という個人的で普遍的な場所(おお、コワイ。どこだそれは?)から立ち上がる、個人主義的な一人称である。

だからそこから考えるといっても、方向性が、目的が違うのである。

そんなことを授業で言ってしまったが、それってホントなのか?

ちゃんと考えるべき問題が多い。やはり歴史的に日本思想における主体概念、主体生成の問題をもう一回洗い直して、そこから考えないとダメだなあと思う。

西周は、福沢諭吉は、中江兆民は、こんな話をしたら何と答えてくれるだろう?
彼らと飲んで議論したかった。特に中江兆民🤣


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