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撮り終えた写真は最終的にどうすべきなのか


オールドコンデジをポケットに突っ込んで六本木へ。
今日は午後は友人たちと新宿御苑をまわる予定だったので、午前中は気になっている展示を回収することにしたのだった。

21_21DESIGNSIGHTの「みらいのかけら」を見てから、国立新美術館の「遠距離現在」へ。どうしても意識的に足を運ばないと展示を見て回る機会が得られない。

今日ポケットに入れたオールドコンデジはいつも持ち歩いているDMC-XS3だ。薄くて軽くて可愛いやつだ。


21_21の階段


ちょっといいなと思った風景は積極的にカメラに収めていく。
今までは写真なんてプロも山ほどいるし、アマチュアでも死ぬほど写真が上手い人が山ほどいるわけだから、今更僕が写真を撮ったところで何になるんだ?と腐っていた時期がつい最近まであったのだけれど、今は不思議とそういう気分ではない。

日記を書くのと同じだ。カメラのスナップというのは本来極めて個人的な作業なのだ。当たり前のことに気づいてから写真を撮るのがもう一度好きになった気がする。


21_21の傘立て。可愛い。

そしてそのスナップの集積は僕に何かを伝えたがっている。というか、僕が興味関心のある形や空気感、好きな風景が折り重なっていく。一つ一つの写真を撮るという作業も面白いし、それらが集まった時に出来上がった写真の束というのも、成果物として面白いと思う。
それを面白がるために写真を撮っていると言ってもいいのかも知れない。


春の曇り。過ごしやすい


次行きたい展示をパチリ



乃木坂の噴水


問題はこのスナップが最終的にどこにいくのか?である。
一応Prime Photoに定期的に流し込んで最低限のクラウド保存、としながらも10年の惰性で外部ストレージにもフォルダわけして保存するようにしている。でもこれってどのくらい意味があるのだろう。データとしてファイルを1万枚くらいフォルダ分けしながら保存したとして、それを見返す日が来るのだろうか?もっと積極的な整理をする必要があるのではないか?

もうちょっと素敵な写真の残し方ってないんだろうか?



世の中には死ぬほど写真が上手い人が山ほどいるが、僕が個人的に写真集という体裁で写真をまとめたからと言って誰に迷惑がかかるわけでもあるまい。そう開き直ると肩の荷がおりる。





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