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ずっと母が嫌いだった 2

 昨年二月に逝った父は、病院を三カ所変わった。

病名が判明しなかったためだ。

一院目の病院で誤診され、移動した病院では結果的に無駄な手術を施され、

そこから更に移った病院で

「もう、助からないのだろう」と覚悟を決めたようだった。

長女である私がお見舞いに行くと、遺産の話ばかりをするようになった。

遺産と言っても、いち会社員の財産なので、自宅建物と土地だけである。

であるが、元朝鮮引き上げ児で苦労の中で蓄財した父にとっては、唯一誇れるものだ。

父が余りにも相続の話ばかりをするため、遺言書を遺してもらうことに決めた。

父が相続の話を始めた頃から、私は父の言葉を逐一録音しておいた。父は母の前では決して、その話をしなかったからだ。長男である弟も以前にサラ金への借金を作り、母が代わって返済した、という経緯があったことから信用されていなかった。このため家族に録音を全て聞いてもらい、相談の上でそれを決めた。

知り合いである司法書士に相談をし、検討を重ねた結果、自筆証書遺言を選んだ。

この頃には父の体調は目に見えて悪化していて、集中治療室と一般病棟を行ったり来たりしていた。

このため、本来ならそうするべき、公正証書遺言を選べなかった。完成させるまで父の残り時間が間に合うか、わからなかったのだ。

苦しい息の下、震える字で父は遺言を書き上げた。

家族全員、孫までが揃い見守る中で。

書き終えた父は

「ああ、これでほっとした」と、深い息を吐いた。

 しかし母はその内容に実は憤慨しており、それというのも「遺族に均等に遺す」というものだったからだ。

母は当然に全てが自分に遺されると思い、病床につく父にも繰り返し訴えていた。

だが、親族が見舞いに来て母が味方を得て勢いづく前でも「いや、相続はきちんと決めておく」と譲らなかった。

父にとっても母は、よい妻ではなかったのだ。

本来法定相続では、本人の妻が1/2、残り1/2を子が均等にもらうもの。我が家の場合、母が1/2、子ども三人がそれぞれ1/6ずつ相続する、となるはずであった。

しかし、父の遺した遺言は、均等に1/4ずつ相続させる、というものだった。

私は母に対し、「ざまあみろ」と思った。

母にないがしろにされている父を、ずっと気の毒に感じていた。

節約好きで、着た切りスズメの父を嗤う母。

父への態度は私に対するそれと同じだった。

父がやっと書き上げた遺言書は、私にとって、父にとって

母への最大限の報復であった。

つづく。



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